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麻生川王子跡~南近義神社 | |||||||||||||||||||||||||||||||
<麻生川王子跡> 府道を、下松駅を過ぎたあたり、下松、上松あたりには、和泉式部が住んでいたという伝説がある。 ものの本では、恋多き女和泉式部は、金持ちの男を見つけると恋の渕で顔を洗い、男をたぶらかしてはいい仲になり、男の金がなくなると、恋ざめの渕で顔を洗い、はいさよならを決め込んだという。 男の浮気や女狂いに悩む女性が、この渕に祈って、汲んだ水を男に飲ませるために持ち帰ったという。 いつの世にもこうした女性はいるもので、今も時々新聞を賑わしている。 でも最近は男も女も殺される覚悟で恋をしなければならなくなってきている。 実の子どもでも殺す親がいる時代である。 <道しるべ地蔵> 古道をさらに進むと道ノ池につく。 堤道に、 「すぐかつらぎ 牛たき 大坂左きしはた かいつか」 と刻まれた道しるべ地蔵がある。 ちょうど近所のおじさんが花を替えていた。 こうした昔からのものを敬い、大事にしていくという日本的な気風は、もう廃れていくような気がしてならない。 このあたりの古道は、宅地造成などで大きく様変わりし、この堤道は結局行き止まりとなっていた。 何とか本来の道を歩こうと、頑張ったが生え茂った草木に阻まれ、進むことができなくなった。 結局もと来た道に引き返し、府道を歩いた。 <麻生川王子跡> さらに府道を歩いていくと、虎橋、麻生川橋をわたる。 麻生川王子跡は、三和製作所であったといわれているが、工場の中に入ってみてもそれらしき標識も何もなかった。 大阪の王子を訪ねて歩いてきたが、このあたりの景色は何となく殺風景で、橋なども写真のように壊れたままである。 こうして町をまたがり、連続的に歩いているとその町の行政が、施設や史跡などにどういう取り組みをしているかが分かり、別の興味がわいてくる。
<半田一里塚> 三和製作所の前を斜めに小道に入り、2つの池の堤道を通ると間もなく、半田一里塚がある。 熊野街道(小栗街道)に設置された一里塚のひとつで、よく原形をとどめているため、大阪府の史跡に指定されている。 大阪の古道は思っていた以上に都市化が進み、古い町並みはかなり残ってはいるが、田圃も少なくなり、道と交わる川も汚れている。 何となく荒れているという感じがつきまとう。これはやむを得ないことだがなんとなくさみしい。 ガイドブックを見ながら歩いても、宅地造成などの方が早く進み、道もかなり変わってしまっている。 そんな大阪の古道は、半田一里塚を過ぎると道しるべ地蔵、牛神さんなどを見ながら、再び府道と合流し、水間鉄道の踏切を渡る。 踏切を渡ると、石才会館があり、そこを過ぎると高速道路の下をくぐる。 古道はさらに近木川にかかる福永橋をわたり、古道の面影をよく残す長谷川ノ坂を登る。 <道しるべ地蔵> 半田一里塚を過ぎてほどなく、交差点角に道しるべ地蔵がある。祠の屋根に、「右 おぐり 左 みずま」と書いてある。 <牛神さん> 道しるべ地蔵から水間鉄道の方に進むと、きれいな祠に牛神様が祀られている。上弦の月の出る7月7日は、七夕であるが、農家は必ず牛馬に水浴びをさせ、水辺で鍬などの農具を洗い清め、井戸さらえをする日でもある。 この地方は8月7日に牛を連れてここに詣り、7月7日の水をかけると牛が丈夫になると言う。 牛神は水の神様である。 しかし現在のこのあたりの川の水は、水浴びをすればよけい病気になるような水ばかりである。 ただし、このあたりの野池の水はそれほど汚れてはいない。ということは流れている間に汚くなるのか? <道しるべ地蔵> いかにも古そうな地蔵さんである。現代でもこうした道しるべがあればいい。 しかしこの辺は、道がわかりにくい。 新しい住宅地と古い町とが同居している。 もう少し歴史を視点においた町作りができないものかと、都市部の古道を歩いて思う。 <石才(いっさい)の牛神さん> 水間鉄道の踏切を渡って少し歩くと石才会館につくが、その施設の片隅に、牛神さんがある。 この辺は、昔は田圃ばかりではなかったかと思う。 かなり大きい野池があちこちにあり、古道はその堤を行く。 米作りには水が必要で、そして牛や馬が必要である。 米作りが無事にできるようにあらゆるお祈りをしたことは想像に難くない。 この写真の後にある野池には、ブラックバス、ブルーギル、鯉、鮒がそれぞれの種で群れていた。 他の池では鮒が多かったが、この池は、外来種が多かった。 石才会館を過ぎると、高速道路の高架がある。 その下に貝塚市斎場墓地があるが、そこには明智光秀の一子、南国玄琳和尚の墓があるというが、見つけることはできなかった。 斎場を過ぎて間もなく、積善寺城趾の説明板がある。 紀州根来衆徒9500人が立て籠もったと言われるが、そこから野坂にある長谷川ノ坂の、地名の由来の長谷川屋敷は、この積善寺の北櫓の跡といわれている。 福永橋は、手入れも悪く、下を流れる川は汚れている。
<南近義神社> 南近義神社は、「みなみちかぎじんじゃ」と読むと思っていた。ところが「みなみこぎじんじゃ」である。日本語は難しい。 旧称は丹生神社・天野明神社という。 古く近木庄は高野山麓にある丹生明神社領であったという。 旧村社で罔象女神(水神)・誉田別命・蛭子命・大国主命など9柱を祀っている。 神社は、少し荒れてはいるが静かな森の中にあり、鎮守の社として昔を今に伝えている。 道を聞いた方が宮司さんで、親切に高野の丹生神社の謂われや、この神社が今に至った経過などを詳しく話してくれた。 見事な鎮守の森である。椎、樫、楠、もちの木等が多い。 近年の松食い虫の害で松の木は殆ど枯れてしまった。 最近は神社経営も多角化し会社のように駐車場やアパートの賃料を収入にする所も多くなったと聞く。 この社は本来の鎮守の森を維持し、地域の大切な森をかたくなに守っているのである。 人の心が自己中心の拝金主義に落ち込み、祖先への崇敬の気持が薄くなりつつあるのを感じる。 同時に神社への崇敬の心も失われ、自然を大切にする気持ちも薄くなっている。 こうして鎮守の森を守り続けるのは大変だと思うが、有事の時には必ずこの森の持つありがたさを体感するはずである。 このあとの鶴原王子は、貝田橋をわたり、まもなくの貝田会館が跡地といわれているが、何もなかった。 位置には諸説があり、さらに近世になりこれだけ道が移動すると分からなくなっても無理はない。 会館内には、だんじりが格納されている。 後鳥羽上皇一行は、近木仁王堂に立ち寄っている。字からしてこの辺で、参詣したのだろう。
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