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佐野王子跡~樫井古戦場跡・一岡神社~海会寺跡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
<佐野王子跡> 大阪の王子跡は不明なところが多い。 都市化が進んでいるため致し方ないところだが、古道歩きをするものにとっては、手応えがない。 ここ佐野王子は、大阪では珍しく王子の跡をきちんと残している。 昭和22年4月に大阪府の指定史跡になったとある。 しかしその割には、荒れた雰囲気で、手入れもされていない。 訪れる人もさほど多くないのか、他の王子跡のように整備はされていない。 国の文化のバロメーターとして、いかに古いものを大事にし、そして未来に引き継ぐかがある。 今は、古いものは切り捨てられて精神的な面で悪い古さが、残っている気がする。 佐野王子へは、国道26号線を斜めに横切り、変電所の鉄塔をすぎ古道を右に入ったところの、ウバメガシの生け垣の中にある。 ガイドブックではたばこ屋の角とあったが、それはもうなく駐車場に取ってかわっていた。 後鳥羽院は、 わすれずよ松のはこしに波かけて 夜ふかく出しさのの月かげ 藤原定家は、 冬の日にあられふりはへ朝たては 浪に浪こすさのの松原 とそれぞれ詠んでいる。 ということはこの佐野王子あたりは海が近かった。
<樫井王子跡> 樫井王子跡は、和泉モータース背後にあるとガイドブックにあったが、探すことはできなかった。 あるガイドブックには、奥家の中にあるとあり、そのいずれも中にはいることはなかったので確認はしていない。 しかし樫井王子は五体王子のひとつで、上皇などの参詣の折りには相撲や白拍子の舞などを奉納したという。 定家の『熊野御幸記』では、後鳥羽院一行もここでそれらの行事を楽しんでいる。 t.takesi さんから、BBSに樫井王子跡について書き込みをいただきました。 この日歩かれた行程もつけて頂いたので参考にしてください。 t.takesi さんありがとうございました。 古道、王子社跡について報告 紀伊路(大阪府内)樫井王子(籾井王子)跡場所確認できました。いずみモータース奥、経営者宅屋敷内に有り、庭の土塀沿い奥に石碑が有り。 聖なる森 熊野古道を歩く 紀伊路ルート(難波なにわ) 『南海井原里駅~JR山中渓駅』 [大阪の町に残る、熊野街道の余情をたどる] 南海井原里駅-佐野王子跡-八丁畷地蔵-イズミモータース奥社長邸宅庭塀奥に碑有り (樫井王子跡)-奥家住宅―明治大橋(大阪夏の陣・樫井古戦場跡・塙団右衛門直之の墓・淡輪六朗兵衛重政の墓)―一岡神社 (厩戸王子(うまやど)合祀)―厩戸王子跡―(馬頭観音)信達一ノ瀬王子跡―林昌寺(長岡王子跡推定地)―琵琶懸け(古道の難所)通行不可―地蔵堂王子跡―馬目王子跡 ―山中神社(馬目王子合祀)―JR山中渓駅 歩程約14.5Km 標準歩行時間 約3時間45分 標準所要時間約5時間30分 このあたりは往事の街道筋の面影をよく残しており、和歌山の古道沿いの景色とは異なり、豪壮な家屋敷が続く。 こうした町並みは古道沿いにずっとあったと思うのだが、今は所々に残るだけである。 こういう雰囲気のあるところを歩くのは、都会の中でも楽しい。 国の重要文化財で、熊野街道沿いに残る17世紀の豪農の住宅という。 「喰いちがい」の建築様式では泉南最古と言われている母屋と、大きな式代玄関をもつ書院、長屋門があるという。白い土塀がいかにも日本らしい雰囲気を伝えている。 中を見たかったが何となく入りつらい雰囲気であったので、そのまま外から眺めた。 <塙団右衛門の墓> 石柵に囲まれた中に、高さ約2メートルの五輪石塔が安置されている。 この墓碑は、紀州藩士の小笠原作右衛門が、塙団右衛門直之の17年回忌(1632年4月)に建立したとされる。 塙団右衛門直之(通称団右衛門)は、大坂冬の陣が始まるや否や大坂側に馳せ参じた。 大野治房の組下に加わり、「夜討ちの塙団右衛門」の勇名を轟かせている。 しかし、夏の陣における樫井合戦で、戦功を焦った余りに一命を失ったという。 <淡輪六郎兵衛重政の墓> 奥家の住宅から少し行くと、街道筋に「淡輪六郎兵衛重政の墓」がある。 武将として、塙団右衛門らと名を轟かせていたが、大阪夏の陣で塙団右衛門らと討ち死にしたという。
<樫井古戦場跡> 元和元年大阪夏の陣が起り、徳川家康に味方した紀州の城主浅野長晟は、亀田大隅、上田主水、永田治兵衛らを伴い大阪に向かう途中紀州を攻めようと兵を挙げていた大阪方の将塙直之、岡部則綱、淡輪重政らとこの樫井附近で相まみえた。 時に4月28日・29日、大阪方諸将は佐野近辺に宿泊し、29日夜明けてから戦いがあり、いろいろな説があるが、約2時間の戦いののち大阪方の退却となったという。 この戦いで、大阪方は2万余(4万とも言う)人の死者を出した。 特に塙、淡輪などの勇将を失ったことは、大阪方兵士の気持ちのよりどころを失い、そののちの戦局に大きくひびいた。 樫井には塙の墓の五輪塔があり、観音寺には位碑がある。 しかしこんなところで2万人を超える死者が出たと言うことは、いかに激しい戦いであったかが分かる。 私たちが訪れた日は蝉の鳴き声がやかましく平和そのものであったが、川縁に立つ碑は、往事にはそんな悲惨な戦いがあったことを教えている。 <一岡神社> 古戦場跡を後にし、明治大橋、明治小橋を渡るとまもなく厩戸王子を合祀する一岡神社に着く。 一岡神社は真新しいきれいな神社で、境内には海会寺跡が史跡公園になっており、市民が憩っていた。 俗称は祇園さんという。 祭神は、素戔嗚尊で他に稲田姫命八王子命を祀っている。 本殿は、コンクリコンクリしており、木造の神社のような感興はわかない。 作った人には悪いが、やはり神社仏閣は木造の方がいい。 神社の前にはこれも新しい泉南市埋蔵文化センターがある。 時間があれば立ち寄りたかった。
<海会寺跡> 海会寺跡は国指定史跡で、白鳳時代(約1350年前)に建てられた古代寺院で法隆寺式伽藍配置をとっている。 軒丸瓦は、大和・木之本廃寺、摂津・四天王寺と同じ(木製の型)でつくられている。 また、すぐ隣から海会寺を建てた豪族の居館(屋敷)跡が見つかっている。 この屋敷は、当時の一般的な家屋に比べ5倍もの規模をもち、7世紀初めから9世紀代までに幾度か建替えられながら、国政庁(昔の地方行政庁)のように整然と企画・配置されていた。 このことから、有力豪族が何世代かにわたり、勢力を強めながらこの地を治めていたことが分かる。 現代になって、発掘調査によりその全ぼうが明らかにされたという。調査成果をもとに史跡海会寺跡広場として整備されており、跡地は広場になっている。 ▲ページトップに戻る
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