笑われても気にしない

他人から見ればアホらしいような無価値な物事に対して大真面目に取り組んでいる人の姿は滑稽だ。そして、その姿を受け入れた時、我々は笑う。その行為が自分にとって受け入れられないようなものなら笑えないし、相手の行為に価値があると思ったら、真面目に取り組んでいるのを見ても可笑しくない。誰かの行為を笑うのは、その行為に価値が無いと判断した上で価値が無いにもかかわらずその人の存在を認めることである。価値が無いのに存在を認めるのだから、笑うことは愛するということと同じである。

逆に言えば、笑われることは愛されることである。ところが、笑われるとプライドが傷付いて怒ったりする人もいる。その人は愛されたのに怒っているわけである。それは、自分が価値があると思っていることを無価値だと判断されたからだ。そういう場合の「価値」というのは、大体において言葉でできている。笑われて傷付くのは言葉に囚われている証拠である。言葉による価値は他人に認められないと傷付くようなものなのだ。

もちろん、笑う方にも問題はある。笑う方も言葉でできた自分の価値観に囚われているのだ。我々は言葉でできた価値観の外側に出ても大丈夫なことを知って笑うのである。だから、他人が大真面目にやっていることを無価値と決めつけて、ただ笑うのは失礼だ。自分が何に囚われていたのかも考えてみた方がいい。笑われる人の真面目な行為によって自分の価値観の狭さに気付くことができるのだから、笑いながら拍手くらいはするべきである。そうすれば、相手は傷付かずに照れることができるかも知れない。

自分のやりたいこと」をやるのは、「他人と違うこと」をやるのとほぼ同じで他人から見れば無価値なことをあえてやるようなものである。だから、他人から価値を認められなくて当り前なのだ。他人に価値を認められたい時は笑われたくないが、笑われずに価値を認めさせようとするのはエライ人の傲慢である。笑われたっていいのだ。他人と違うことをやって、それで笑わせたら価値を認められたのも同然だ。笑ってくれる人は友達である。笑ってくれる人には冗談として自分が本当にやりたいことを話すことができる。

他人を笑わせるには、自分のやっていることが無意味であると意識しながら、それに対して真剣に取り組めば良いわけである。無意味なことを真剣にやろうとすると、言葉があまり役に立たなくなってリズムが重要になる。そして、無意味なことを真剣にやるのだから、ユーモアというのはちょっとシュールだ。我々がそういうシュールさを抱えながら平気な顔で行動できれば、それを見た人は安心して笑うのだ。

 → ユーモアと笑い