「プライド=鰹節」説

プライドというのは鰹節の塊みたいなものである。カチンカチンに固まっていて何かにぶつけると割れてしまったりするので、大事にしなくてはならない。いくら大事にしていてもそのままでは食えないが、薄く削っていくとダシがとれる。削れば削っただけいいダシが出る。そうやって削っていくと終いには無くなってしまう。

プライドというのはコワレモノである。プライドを大事に守らないといけないのは壊れやすいからである。大事に守るべきモノを抱えていれば、当然緊張する。リラックスできない。そういうものは無い方が気楽かも知れない。プライドが無くて困るのかと言うとそうでもないんじゃないだろうか。しかし、「プライドを無くしてしまうなんて嫌だ」という気もする。プライドが無いっていうのは、気楽かも知れないけど、なんか惨めな状態じゃないのか?

「自分は正しい」とか「偉い」とかいう感覚がプライドだろう。それを傷つけるのは間違いや失敗である。いくらプライドが高くても、それとは関係なく我々は失敗をする。だから、プライドを大事に守るためには、何もしないでいる必要がある。逆に、プライドを削るというのは、(小さな)失敗を覚悟で何かをするということである。別にプライドを捨てようというのではない。

失敗を覚悟で何かをするというのは、他人から見ると面白いものだ。本人は失敗するとプライドやら何やら失うものがあるから面白がってもいられないが、見ている方は気楽なものである。面白いこととは未知の可能性の発見である。それは未知だからうまくいくかどうかは判らない。判らないからこそ面白いのだが、自分でやる場合はプライドが傷付くのが心配で面白がれない。他人が挑戦してくれれば安心して面白がれるが、それは自分の人生ではない。つまり、プライドを保とうとすると自分の人生を面白がれないのだ。

プライドを鰹節のように削ってダシをとっていくと他人が「うまい、うまい」と言って喜ぶ(かも知れない)。喜んでくれた人とは友達になれる(かも知れない)。鰹節が無くなってしまっても、鰹節の削り方やダシのとり方が身に付いているから、それを人に伝えることができるし、もうプライドを大事に守らなくていいので気楽になる(かも知れない)。