意味とリズム

うちの一歳の娘が何かを強く訴えたい時には「ダッコ、ダッコ!」「トマト、トマト!」などと短い単語を繰り返し叫ぶ。そうすると彼女が伝えたいことの意味は強調されるが、言葉のリズムとしては単調である。また、彼女は歌が大好きでいくつかの童謡を歌うことができる。歌詞は不正確でメロディもちょっと怪しいが、リズムはちゃんと合っている。たったこれだけの話をいきなり一般化してしまうと、コトバというのは「意味に拘るとリズムは単調になり、リズムを豊かにしようとすると意味が不明確になる」ものなのだということになる。そして、何かを強く訴えようとしているときよりも、歌を歌っている時の方が娘はずっと楽しそうである。

意味とリズムは音声言語の2つの側面だ。言葉によって意味が伝わるためには言葉の意味が不変でなければならないから、意味というのは無時間的な情報である。リズムは時間的情報だが、音声言語はもともと時間的に広がりを持つ情報だから、音声言語の本質はリズムである。意味は意識的情報、リズムは無意識的情報であるとも言えるが、そうすると音声言語の本質は無意識的情報という側面にあることになる。だから、非意識的人間である赤ん坊は意味よりリズムを表現することの方が上手だし、その方が楽しいのだ。

音声言語のリズム的側面を抽出したものが歌である。歌を歌うように鳴く虫や動物もいる。虫や動物にとって歌を歌っていること自体には意味があるにしても、意味のある歌詞のようなものはないだろう。歌によって表現されるのはアクセントやメロディも含めて広い意味でリズムと言えるものである。リズムというのは音の長短の時間的パターンだが、アクセントは強弱、メロディは高低のパターンである。つまり、リズムとは変化の時間的パターンのことだ。

動物の歌に意味が混ざることでできたものが人間の音声言語である。音声言語は時間的情報に無時間的情報が混ざったものであり、無意識的情報と意識的情報のバランスがとれている。それに対して、文字言語は意味と形状という無時間的な情報に偏っている。ところが、音を思い浮かべずには文字を読むことも書くことも難しい。つまり、文字言語は外側にある時間的情報を必要としている。書かれた文章がどう発音されるのかについてはその文章には書かれておらず、我々が身体で覚えた記憶に頼るしかないのだ。

音声言語の本質がリズムであるのに対して、文字言語の本質は意味である。文字言語はもともとリズムを持った詩のようなものから始まったのかも知れないが、だんだん意味に偏っていきリズムは消えてしまったのだ。それが近代化ということなのだろう。しかし、リズムは我々の身体に残っていて、文字言語の読み書きにはそれが必要である。意味に偏った文章というのは、そのことを忘れているので不自然なリズムになる。それは書かれた文章を読み返してみれば判る。近代以前というのはリズムの世界であり、近代は意味の世界である。とすれば、近代の後は意味とリズムが両立する世界ということになるだろう。

 → リズムとは間の取り方である