お気楽はちょっとシュール

お気楽とは頭の中が自由気分が良いことである。「現実的にはありそうもないこと」とか「ワケのわからないこと」を思い浮かべていられるというのが頭の中の自由である。シュールなことを抱えていられるのがお気楽なのである。しかし、頭の中の大半が現実にありそうもないことやワケのわからないことばかりだったら気分が悪い。全面的にシュールなのは困る。「ちょっとシュール」なくらいが丁度いいのだ。

「現実にありそうもない」とか「ワケがわからない」のがシュールだから、現実によくあることや理屈のとおったことはシュールじゃない。シュールというのは少数派に属する変則的なことがらである。そういうわけで、お気楽はちょっと孤独でもある。孤独といっても集団から離れているのとは違う。集団の中にいながら、少数派で変則的なものを抱えているのだ。つまり、他人と一緒にいながら違うことを考えるのがお気楽である。

シュールなものごとに対する「ありそうもない」とか「ワケがわからない」というのはアタマによる決めつけである。「ちょっとシュール」というのは「現実にありそうでなさそうなこと」や「ワケがわかるようなわからないようなこと」だから、アタマが決めつけずにちょっと譲歩している。「ちょっとシュール」というのは理屈がぎりぎりとおるかとおらないかというあたりの話で、要するに「何となく」の世界である。

何となく感じたシュールを何かの形で現実化するのが創造ということである。ところが、現実的でないのがシュールだから、現実化されてしまったものはシュールではない。シュールを現実化しようとするのは不可能な試みである。不可能だが、とにかくやってみると何かが創造される。創造されるが、不可能なんだからいつまでも成功しない。そのかわり、いつまでも続けられる。

我々凡人が創造することができるのは、いつまでも続く自分の生活くらいのものである。自分の生活をお気楽なものにするというのはひとつの創造である。しかし、このややこしい世界においてお気楽な生活というのは現実に可能だろうか? 「そんなことはありそうもない、お気楽なんてワケがわからない」と思えるとしたら、「お気楽な生活」という考えはちょっとシュールだということになる。ところが、ちょっとシュールな考えを抱いて暮らすと、それはお気楽なのである。