他人と違うこと

他人(ほかのひと)と同じことをやっていると、どうしてもネタの奪い合いや優劣の争いが起きるので気楽ではない。それに比べると、他人と違うことをやるのはお気楽である。でも、「他人と違う」ということを第一に考えてしまうと、他人と同じにならないように常に他人のことばかり気にしていなくてはならないから、やっぱり気楽じゃない。やりたいようにやった結果、気付いたら他人と違うことをやっていたというのが理想だ。

でも、他人と違うことをやるのは意外と大変である。他人と違うことをやるには、何をどうやるかというのを自分で一から考えなくてはならない。誰かが考えたシステムに従ってやればラクだが、そうするとそのシステムに従った他の人達と同じような結果になってしまう。そして、誰が一番うまくやったかという競争に巻き込まれたりする。そういうことにならないためには、自分のシステムを生み出すしかないのだ。

自分のシステムを生み出すには、自分で一から考えなくてはならない。その「一から」というのはどこからなのかというのも結構難しい問題だが、とにかく考えられる限りのことを自分で考えてみるということである。どれだけ他人と違うことをやれるかというのは、どこまで遡って自分のやり方を考えるかで決まる。しかし、どんなに頑張っても、何もかも全て自分で考え出すことはできないから、自分で考えられる限りのことを考えた上で、何かを借りてくることになる。

他人と違うことをやろうと精一杯努力した上で仕方なく何かを借りてきた人は、そのことを強く自覚している。そういう人は、自分のやっていることに真のオリジナリティが無いことを認めることができる。しかし、その人がやっていることは、その人の個性に基づいているので、明らかに他人と違うのだ。つまり、我々が発揮することのできるオリジナリティとは「自分が一から創り出した」ということではなく、「自分自身に基づいている」ことである。

多くの人と同じことをやっている人は、自分の外側にある価値観に従っている。その価値観は誰か他の人が考えたものだから、自分にしっくりこなくても変えることもできず、自分の方をその価値観に適応させなくてはならない。自分自身に基づかない価値観は他人にも共有してもらわないと落ち着かないから、「他人も自分と同じことをやるべきだ」と考えてしまう。そして、「しっくりこない感じ」を克服するために、その価値観における優劣競争に勝ちたくなる。

他人と違うことをやるのは、自分の価値観を表現することである。自分自身に基づく価値観は自分ひとりで支えることができるから、「他人は自分と同じことをやらなくてもいい」という考えも含まれる。つまり、自分自身に基づく価値観は、他の価値観の存在も受け入れることができる。そして、社会の中で他人と違うことをやろうとする人が多くなると、価値観は多様になる。多様な価値観は好運の元なので、その社会全体では好運なことも増えるのである。

そうはいっても、いきなり他人と違うことをやろうとしても難しい。他人と同じことを自分なりのやり方でやるという姿勢を保ち続けていると、いつかどこかにたどり着くのではないだろうか。