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2000/10/20

ああ、またまた半年が過ぎてしまったことだなぁ。
しかし、この半年はよくハタラいた。我ながらよくハタラいた。
来月からは、おそらくグッとヒマになるので、このページのことも考えられると思います。
それまで、ひとつ。何卒。


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2000/4/21

ああ、また半年が無為のまま過ぎてしまったことだなぁ。
どうしたもんだろうか、まったく。
不甲斐ないったらないのだが、ひとつ宣伝しときます。
4/15発売の雑誌『BREaTH vol.12』(ソニーマガジン刊)に拙文が載っております、ハイ。
3月に武道館で行われた忌野清志郎・音楽生活30周年記念イベント「Respect!」のライブ・リポートです。
ヒマがあったらお目通し下さい。


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1999/10/20

さて、久しぶりです。
前回ここを更新してから実に15ヶ月が経過。
その間に、Dragon Ashは大サクセス。くるりも、もはや知る人ぞ知る、てな存在ではなくなってきた。
『レッツゴー武芸帖』も再版されたし。
時の移ろうのは早いと実感した次第。
それもこういう日誌めいたものをつけてたゆえか?
(ついでにいえば、98/07/01付の記事で「シング・ライク・トーキングの人」と書いてたのは、 やっぱり全然まちがってて、クライズラーカンパニーの人だったことも判明。……これも月日の成せるワザだなあ)

「WEB日記もの」には、こういう効用もあるわけだ、と妙に納得。
田辺マモル氏のひとり掲示板というスグレモノもあることだし、
「公開を前提とした日録」という体裁で、もうちょい、ちゃんと継続していこうと思ったのでした。

あてにはならんがね。



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1998/07/01

 最近、聴き倒してるバンドは、くるり
デモ集CDに入ってる「東京」は名曲。

 DRAGON ASHのシングルも好きだ。
 BSの深夜番組でシング・ライク・トーキングの人(たぶん)に、
「いやぁ、いいよ。すごいしっかりしてるよ」とか言われても、
スカすでなくムキになるでなく淡々と黙ってたのが印象的。
骨太な原田真二みたいなかわいらしい顔なんだけど。
(それにしてもBSのこの『真夜中の王国』のパーソナリティのラインナップは
ひねってるのか、なんなのか、よう分からん面子である)

eastern youthにせよ、自分の内部にある青臭いモンを怖がらず、奉らず、
ええ感じの距離感で対してると思う。

ズボンズのマキシ、Mo' Funkyもずっと繰り返して流してる。



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1998/02/05

 『Greatest Hits+3』
よしもとよしとも / 双葉社
 「ライディーン」は、「青い車」連作に登場する吉祥寺・MICKEY RECORDS店長マチダ氏の高校時代の話。
 俺はよしもと氏のあとがきがいつも愉しみなので、今回ないのは淋しい。その辺、もうちょい造りに工夫が欲しかったとは思う。
 とはいえ、「Jr.」、「すきすきマゾ先生」はやはり素晴らしい。
 知らなかったが全部絶版? 『レッツゴー武芸帖』も? そりゃひどい。あんまりだ。


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1998/01/26

 『寂しい国の殺人』村上龍
 神戸の小学生殺人をめぐって露出した、ニッポンという国の精神風景についての優れた省察。

 新たな価値観の創造などといえば陳腐に聞こえるけれど、なにに価値を置き、あるいは置かないか、その立脚点にきちんと言及するひとは実はそう多くない。
 その意味で、彼はやはり信頼に足る作家である。そう感じる。

 ここで挙げられている焦点は「(近代化の達成にともなう)国家的目標の消失」ということだ。
 普通に――ということは呑気に――受け取れば、
「それはつまり個人なるものが強くなったってことだよね、よかったよかった」と短絡するところだが、
 個人と国家(=社会、世間)原理とをずっと寄り添わせてきた国の人間にとって、社会的抑圧の衰退は必ずしも「個」の伸張を意味しない。

 かつて一度も対社会、対教会、対国家といったスタンスを取ったことのない――つまり個人として求めるべき価値を打ち立てる必要がなかった――この国には社会と個人に奇妙な連関(というより捻れ)が生じている。
 社会原理が衰えてしまうと、それに代わって個を支えるような力(あるいは目標、価値基準)がなにもないのだ。

 情けない話だが事実だ。
 そしてナサケナイかナサケアルかは、とりあえずどうでもいい。
 問題は、この事実を切り拓いてゆけるようなツールが、いま現在どこにもないということにある。
 現代の日本人が置かれている精神状況は、かつて一度も存在したことがない「寂しさ」だ。
 近代化以前には、近代化達成によって産み落とされた寂しさなどというものは、感じようはずもなかった。原理的にそうだ。だから我々は過去に学ぶことができない。これはそういう種類の寂しさなのだ。
 村上龍はそう云う。

 自分は寂しくなんかないよ、というひともいるかもしれない。
 1パーセントの強がりもなくそう云えるとしたら、そのひとはたぶん現在とあまり関わりを持っていないのだ。
 自己完結という環を箱庭のように造りこむのはひとつの方法だが、あくまでそれは対症療法でしかない。
 そうした治療法(はやりの言葉で云えば、癒し)は、復帰するまでのあいだに確実に深度を増していく寂しい現場に、果して耐えうるのだろうか。
 私にはなんとも分からない。

 かつて村上龍は、『テニスボーイの憂鬱』で「人生で大事なものはシャンパンだけだ」と云ってのけた。その明快さは、ここでは影を潜めている(もちろん、ドラゴン・ムラカミが示し続けていることは変わらないし、それは以前からの読者には分かるはずのことなのだが)。

 本書に先立って発表された長編小説、『イン・ザ・ミソスープ』のあとがきでも重苦しい調子で述べられているとおり、(「汚物処理のようなことをまかされている気がして/憂鬱で不快な気分になった」)ここでの村上龍は本気である。
 本気で、現代と子供らについて考えている(ただし、「子供たちのためを考えている」のとは少しというか、かなり違う)。

 粗雑な精神構造のひとびとはこの現状を、振りかざした一般論と極論でぶつ切りにし、箱に納めて倉庫にしまおうとする。
 しかし、少年法とか小人数クラス編成とか父権復興とか、それらはすべて本質的に何ら有効性を持たない。
 既成の価値というものたちの、役に立たなさ加減を避けていくことはできないのだ。
 そのことを彼は云っている。

 最初に「ニッポンという国の精神風景についての優れた省察」と書いた。「省察」と呼ぶのにはわけがある。
 村上龍はニッポンの現状について反省しているのではない。彼は、社会状況に対して責任を感じたりするタイプの作家ではない。
 ならば考察と呼ぶ方が適切なのではないか?

 そうだろうか?

 多くの識者や学者がメディアで現状分析を試みているさまを目にする。
 彼らに共通して感じられるのは、どこか「現状」というものがリビングのテーブルにでも載っかっていて、「ここがへこんでいる」「ここがイビツだ」と指摘すればそれで事足りるかのような態度である。

 簡単にいえば、彼らはしきりに反省を口にして他人にもそれを強要するが、一向に危機感を持っていない。
 村上龍は、決して反省などしないが、危機感をたしかに感じている。

 はたしてどちらが、より深く現在に切り結んだ態度であるか、明らかだろう。




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