(2010.3オリジナル作成/2024.3サーバー移行)
(2012-13年の延長戦)
私の「弟子」たちは、それぞれの任地・勤務先で「地域」に存分にかかわり、信頼を勝ち得、大きな仕事などなしているようです。それはそれで立派なことと思います。まったく「不肖の師」ですな。
2012年の回顧
こんな駄弁に続編ができるとも考えていませんでしたが、2012年度からの身辺変化で、否応なく「思い出の地」を鼻先に突きつけられる生き方になりました。
2012年度からの勤務先は東京西部、そこに行くには毎度必ず高○馬場というところを通ることになりました。ここはいまの非常勤先にも近いのですが、なんと50年前、毎日通った高校への下車駅なのです。もちろんこの50年間、この駅に降り立った経験は多々あるものの、なにより「通勤経路」ともなれば、感慨新たではあります。
高校への通学経路は、変貌著しい正面口ではなく、何か寂しげな裏口然とした、南口と言うところであったのですが、このあたりはほとんど変わっていません。どこもかしこも一変した感のある山手線各駅のうちでも、こんなに何も変わっていない出入り口も珍しい方でしょう。
もちろんそこを一歩出て、街中に向かえば、これはもう50年前の土地勘はまったく役に立たない状況です。駅から高校正門まで、一分一秒を争う朝の登校時、「最短距離」を経るべく、徹底したリサーチと経験蓄積を誇ったもの、神社を突き抜け、ここの坂を上り、この小道を駆け抜ければと、いまも記憶は鮮明なのですが、肝心の町の姿がまるで違ってしまっていましょう。
いま、50年後にして再び経ることになった高○馬場駅、もちろん乗り換えのみなので、あらためて降り立ち、記憶の糸をたどってみるなどまだ試みてもいないのですが(「途中下車」で郵便局を探し、えらく苦労をさせられたくらい)。
それでも、50年前に毎日毎日眺めた、山手線の車窓風景をいままた、そのまま目にしていくのは、この歳にして誠に僥倖、有り難き幸せです。「東京八景」の追憶と、大きな時間差の自覚とが、日々飽きさせてくれません。
もうひとつの経験は、長野の大学に行くことになったという事実です。行くと申しても、前年度とあわせ、のべで6、7回程度のことなのですが、なんのかんの申しても、やはり私には長野は生誕の地です。
さりながら、私の生まれた南信とはまるで離れた長野市です。この北信に足を踏み入れたことは、生まれてこの方、つい最近まで遊びや校務(学生と合宿など)を含めても、のべ10回にも満たなかったでしょう。ですから、「懐かしき地に再び立てり」と感激するほどのこともないのですが、やはりなんとなく、「信州だよねーー」という思いはします。
このことからも、最近信州の地での私の「売り」は、「信濃は山国じゃなく谷国」というのでありまして、どっかにネタの著作権登録でもしておきましょうか。よく「信濃は山国で」という枕詞がありますが、これはまちがい、だって山の上に人は住んでいません、住めません、住んでいるのはその麓の谷です、そしてそれだから、谷ごとに「違ったクニ」だったんですと、こう説くわけです。谷ですから、山を隔ててそれぞれの谷に、暮らし方や習慣はもちろん、異なる文化、それどころか異なる言語さえあった、これが信州の真の姿なんですよ、と。
実際、正直このように北信の中心長野市に行くようになって、南信との違いを実感すること数々です。いちばんわかりやすいのは「おやき」でして、きょうびは信州を代表する食品の扱いを受けるのに、私など唖然としています。南信出身の私の両親の暮らしや言い伝えの中に、そんなもの出てきたためしがありません、聞いたこともありません。どう見ても、北信の、しかも一部農村の食生活の産物と思うのに、いつのまにやら誠にメジャーな存在になり、長野駅や善光寺周辺のお土産屋はおやきばっかし、これでもかこれでもかです。「大信州展」の目玉、人気商品代表です。かくして信州人がなんでおやきを知らんのかと、怪訝な顔をされるが落ち、私からすれば、「お好み焼き」がパリあたりで日本食の代表扱いをされているような違和感を覚えるのですが。
まあこれは、「ローカルフーズの全国化」マーケティング戦略の大成功の例なんでしょう。つまらぬケチをつけずに、黙々と頂くことにしましょう。近ごろはさらに、「信州サーモン」なんていうのがメジャーな地域ブランド商品になってきているそうですから、「海のない信州に鮭がいるかよ、信濃川をさかのぼってきたのかい」と突っ込みを入れたくなる私の方が間違っているのでしょう。
ただ、このように「谷を越えた」食文化生活文化の拡散と普遍化がすすみますと、もちろん新たな発見もあります。私にとってその最大のものは、「北信にはホスピタリティがある!!」でした。これは相当にやばい話でもあるので、ちょっと取っておきましょう。
うーん、南信にもおやきが?
若干まずいことになりました。南信でもおやきを食することがあったという「証言」を貰ってしまいました。
私の叔父が他界し、諏訪の方に葬儀参列に参りました。
その席、よくあることながら、普段顔を合わすことのない親戚同士が久方ぶりに再会する場にもなりました。私の亡き父は10人兄弟でもあったので、私の従兄弟も大勢いるのですが、その「最長老」、本家の農業を継いでいる従兄に、この「おやき談義」を持ちかけたところ、「確かに、いまのはやりは北信のものと思うけれど、自分もおやきを小さい頃食べたことがある」というのです。米が貴重だった時代、節約のためにおやきを親がつくり、食べさせられたと。
おそらく、そう頻繁ではなかったのでしょうが、南信の地でも食物としてのおやきというものがあったことは事実のようです。代々田畑を継いできた農家のお話しですから、間違いありません。私の父は、この農家で育ちながらも、早くに家を出て、東京で学業に専念したので、おやき食生活経験はほとんどなかった可能性大です。家を継いだ長兄の伯父の一家では、当然食生活や習慣は相当違っていたのでしょう。
ただ、実に皮肉な巡り合わせと思いましたのは、この葬儀、父の下の叔父が98歳で他界したからなのですが、その叔父は県の農業試験場で、寒冷地長野での稲作向上に腐心し、画期的な技術を開発、その普及に努め、長野県のみならず東北や北海道での米収穫の飛躍的な増加、戦後食糧事情の改善に大きな貢献をしたひとであったという事実でした。その後、米は「とれすぎ」になり、減反・栽培抑制の国策に転じたというのはなんともはやです。米が貴重であった時代の典型的な副産物たるおやきをめぐって、日本米作農業の功労者たるひとの葬儀の席で従兄弟同士が談義に花を咲かせるという光景、祭壇上から叔父・岡村勝政さんはどう聞いておられたでしょうか。
◆兄は2014年3月で職を退きましたので、うえのリンク先が他の人になっていました。
訂正ついでに申せば、高○馬場にも近い非常勤先は、2013年度でやめてしまいました。ある不愉快な経験もあって。折しも、非常勤講師の処遇や雇用継続問題などで学園が揺れていたようなので、私が辞めるということで、経営側はさぞ喜んでくれたでしょう。
そこを、今さらながらなおしました(2014.12訂正)。
そのせいか、なんと「退職金」(?)までもらってしまいました。大学の非常勤講師というのはウン十年やろうが、終わりとなればはいサヨウナラが通常なので、破格の厚遇と感謝申し上げるしかありません。
信州人はいかに商い、とりわけ客商売に向いていないかという経験を、かなりネタ話で使ってきました。もう相当使い古しであり、そろそろ機会もなくなりそうなので、ここに書いちゃいましょう。
ずいぶん昔、もう30年くらい前のことです。前前任校の学生諸君と「ゼミ合宿」で、中信だか南信だかのあいだみたいな地に行きました。学生が探してきた、一応「○○旅館」というカンバンのところ、学生たちと到着するなり、そこの主が宣告してくれました。
「あんたたちはねえ、合宿ということで安く泊めてやっているんだから、この玄関から出入りしないでくれよ。ほかのお客さんもいるし」と。
まあその場では、はいそうですかと言い、ウラの「合宿所」の方に回って出入りすることになりましたが、後々思い返すに、腹の立つことです。要するに、あんたらは客じゃない、という意味ですよね。安い料金で泊まる場所と食事を提供しているんだから、客などと思わず、ありがたく思えということでしょう。別にタダじゃないですよ。
客商売というのは悩ましいもので、たしかに、かなりの料金を払っているお客さんらからすれば、学生連中がうろうろしている、同じカネ払っているんじゃないだろ、目障りだというクレームもあるかも知れません。そこは客商売の難しさもあるでしょう。
でもね、同じことでもものの言い様もあるでしょうが。ちょっとちょっとと呼んで、「悪いけどさあ、うちも別料金で旅館のお客さんも泊まっているんで、そのひとたちから文句言われることもあるんだよ、学生合宿で安く泊まっているのと同じ扱いなのか、なんて。そう言われちゃうと立つ瀬ないから、なるべく裏の方に回って合宿所に出入りしてもらえないかなあ、その方が外から戻るときは簡単だし」くらいにね。そう言われれば、「我々も客のはずだ」なんて突っ張ったりしませんよ。
で、この経験に対比するのは、阪急社長を務めた小林一三翁の、有名な都市伝説的エピソードです。昭和恐慌期、貧しかった学生や若いサラリーマンらが、昼時にデパート食堂に殺到し、そこでライスだけを注文、それにソースをぶっかけ、卓上の漬け物などで済ませてしまう、これではぜんぜん商売にならないし、だいじな昼時にそんなのに食堂を占領されたらたまったものじゃない、というわけで、多くのデパート食堂が張り紙を出しました。「ライスだけのご注文はお断りします」と。ところが阪急デパートだけは、小林社長の命令で、「当店はライスだけのお客様大歓迎」と張り紙し、社長自ら昼時の食堂で客を迎え、ライスだけで食べようという若者たちの席を回り、「よくいらっしゃいました」と挨拶し、自ら漬け物をサービスしたという。
これは『暮らしの手帖』に花森安治がのちに書いたことですが、以来ウン十年、関西財界の大物などでは、「うちは阪急以外では買い物はせん」という人がたくさんいたということ。つまりこの教訓は、「いまは貧しい学生などでも、のちにはいいお客さんになるかも知れない」、「それを思い浮かべてやるのが本当の商売というもの」と。
まあ、いまどきですと貧しい若者はずっと貧しいままかも知れないし、デパート食堂もそんな魅力もなく、若者は来ないし、というところかも知れません。それでも「顧客関係性重視」の商法の見本ではありましょう。あべこべに、「あんたたち学生は表から入らないでくれ」というのは、いかがなものでしょうかね。少なくとも、そこにいた学生たちのうちから、将来「あの宿はよかったなあ、こんど家族揃って泊まりに行こうか」とか、「会社の慰安旅行に」という声は絶対に出てこないでしょう。
さすがにこれだけの経験をほかの地の宿でしたことはありませんし、信州ノミナリズムの極致(地)かとも思います。「差をつける」ことがだいじなのでしょう。そして、ここまで言うと僻みそのものですが、その「安く泊めた」学生らでも、「ユーメイ校」「名門校」であったらどうだったんだろうな、とも想像します。まあ、おそらく言葉遣いだけでも違ってはいたでしょうね。特に「教育県」信州人の崇拝してやまない旧帝大とか。
もう一つの経験。たまたま、県の行政関係者と泊まりがけの企業調査に回る機会がありました。いまにして思っても、実に貴重な勉強だったと思うのですが、いろいろ「若気の至り」もあって、以来お声がかからないのは反省の限りです。
それで、泊まっていた宿で皆で朝食を食べていたら、宿の女将が顔を出して、「ねえ、皆さんこのへんの企業の調査をしてるんですって」と声をかけてくるのです。「そうですよ」とこたえるに、女将得意になって、「このへんの企業はねえ」、「経営というものが」などと演説をぶち始めました。困ったですねえ。もちろん、地域の企業者のひとりとしてのご意見伺いに参上したわけじゃあありません。訪問先のプライバシーの問題などもありますから、話しにいちいち応じるわけにもいきません。誠に気まずい朝食になりました。
これはどう見ても、客商売のタブーを犯すものでしょう。そういったところに、行政機関関係者としては金輪際泊まるわけにいきません。客の立場や仕事関係など尊重配慮しつつ、あくまで旅館として丁寧に接する、それに尽きるのじゃないでしょうか。相手から求められたわけでもないのに、いきなり「客と対等目線」では。
この教訓は、客商売の立場より、「オレがオレが」(「私が私が」)が優先する、客に対してであろうが、自分の一家言を語らずにはおかない、そういう信州人気質です。「理屈が大好き」の特徴と申しましょうかね。
もちろん「個人差」もあります。そしてうえにも書いたように、北信での経験から、どうもそこは南信などと違う、「ホスピタリティ」の精神あり、という実感でした。やはり門前町として、長年多くの来客を迎えてきた地の文化なのでしょうか。
(2024.2)
すべての職も退き、完全年金生活者となって、「ふるさと探し」の旅も寄り道もなくなったいまですが、昨夏には「生まれ故郷」にいく機会を得てしまいました。高校同期の仲間たちの「部活」で、思いもかけず、ふるさとの山に登るという計画を貰い、何が何でも、と加わった次第です。もちろんずいぶん前にも登った山ですが、いまでは上の方までゴンドラが運んでくれます(冬はそれなりに賑わうスキー場です)。
そのために、これでもかなり久しぶりに生まれ故郷を訪れ、両親の墓にも参じ、親不孝を詫びたわけですが(車もないと、なかなか行かれないよねえ)、寂れぶりをあらためて実感せねばなりませんでした。もうだいぶ前にバス路線はなくなってしまいました。「駅前」商店街はいまやほとんど廃墟の街です。
ひとけの乏しい町に、郭公の鳴き声だけが、鮮やかに響いていました。
「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」(啄木)
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