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三井の、なんのたしにもならないお話 その二十六

(2010.3オリジナル作成/2024.3サーバー移行)



 
 
私のふるさと!?

(2012-13年の延長戦)



 ひとには誰でも故郷があると申します。

 
 私はまた、本務校で「地域イノベーション政策」といった科目を担当しております。もちろん故郷に限りませんが、「地域」に対する人間のつながり、人間関係の濃密さ、知識共有と信頼形成などの「効果」を論じるわけでして、典型的な原点は「故郷・ふるさと」にあると申せましょう。いま、そこで生きているわけではなくても、したがってこうした地域と人間の仕事と暮らしに直結していなくても、故郷に対するひとりひとりの思い、文字通りの自分の人生の原点、またそこに「帰る」ことへのあこがれ、故郷の友、家族親族への絶ちがたい心情、こういったものは多くのひとの心のよりどころであると語っても、おそらく誰も非難もしないことでしょう。

 近頃は、そういった「出身地」「ふるさと」の味とか生活習慣や訛りが話題となり、それを売りにするTV番組も人気が出るほどです。昔のように、みながひたすら都の方を向き、「田舎の」暮らしや言葉を恥じるようなゆがんだ発想はようやく克服されてきているのかも知れません。それだけに、故郷とのかかわり、つながりはむしろ誇るべきことになってきました。

 
 いまでも、盆暮れという年に二回の「帰省」シーズン、故郷に向かう車の群れ、混雑する列車や飛行機はいつまでも変わることのない「季題」です。もちろん日本だけのことではありません。中国などでは、旧正月の帰省ラッシュが年々えらいことになっており、季節のニュースどころではなく、行政の重大課題になりつつあります。故郷の農村を離れ、大都会で暮らす人々が増える一方ですから、ととまるところを知りません。大陸中国ではありませんが、以前、たまたま台北に旧正月に行ってしまい、観光地が閉まっているなどあって、気の毒がった担当のガイド氏が、自分の実家での旧正月(正確には大晦日)に招いてくれました。ガイド氏は台北近郊の実家のすぐそばに住んでいるのですが、遠地にいる兄弟姉妹など、みなこの機会に実家に帰省してくるのです。一族がこの日は同じ食卓を囲み、ひとしきり昔話や近況報告に花を咲かせます。台湾でも旧正月にはこのようにみな故郷に向かうので、高速道路は無料になるのだとか(道路の料金所職員らも、正月休みしたいからとも思えますが)。

 東洋だけではなく、西洋においても、クリスマスが帰省シーズンという実感はあります。やはり、この機会に遠地の家族も実家に帰り、プレゼントを交換し、クリスマスディナーに酔いしれます。このプレゼントを考えるだけでも、半年は頭が痛いということも聞きます。もっとも、英国ではクリスマス当日の12月25日には、列車やバスなど公共交通機関は止まってしまいますので、余裕を見て帰省せねばなりませんが。

 
 

 しかし、私はときどき思うのです。かく申す私自身には「故郷」というのはあるのだろうかと。

 
 私の出生地は長野県某郡某村(いまは町)で、もちろん戸籍に記されていますし、自分でも公称しております。そのため、時には誤解をされる方もいて、「長野のどちらの学校出身ですか」とか、「ふるさとの味覚ではなにがお好きですか」などと尋ねられることもあるのですが、お答えのしようもありません。私は物心つく前に「生まれ故郷」を離れ、東京に出てきました。以来、幼稚園、小中高、大学とずっと東京です。「故郷の友」も、「お国言葉」も、「ふるさとの味覚」も私にはないのです。

 当たり前ですが、私の両親はその長野の出身で、生まれてのち、幼時から30代くらいまで故郷の地にいた(進学や出征・海外抑留などもあったけど)ので、お国言葉もふるさとの味感覚も色濃く備えており、私も影響を受けていることも間違いありません。「ずく」、「ごしてえ」なんていう、南信独特の方言も知っております。でも、そうした環境での生活実感はない上に、「故郷の友」もいないので、正直、私には信州が「ふるさとだ」と主張する気にもなりませんし、また口にしたら嘘になりましょう。「信濃の国」も歌えません。

 
 では、私にとっての「故郷」はどこなんだろうと考えてみても、思い当たるところはないのです。東京中野で小学校に入るまですごしました。その後、世田谷に移り、25年近く暮らしています。ここまでは両親とともにでしたが、それから神奈川県に移住、いくつかのところを経て、横浜市内にもう30年近く住んでおります。ですから長さだけで言えば、私は「横浜の人間」を称してもよいわけですが、妻は横浜生まれの「生粋のハマっ子」を誇りとしておりますゆえ、私は詐称も許されません。実際、私は「ハマ言葉」が身についている訳じゃなく、「むかし思えば とま屋の煙」なんていう「横浜市歌」も知りません。

 結局、小学校から中学校という、いちばん「ふるさと」がインプリントされる年代を私は東京世田谷の地で過ごしたので、ここが私にはふるさとらしいという解釈も可能なのでしょうけど、自分で申すのもなんですが、そういった実感はないのです。確かに、思い出は多々あります。いまも母が実家に住んでおります。その上、なんの因果か、この実家に近いところの大学に私は20年勤務し、いつもこの地を通って横浜から通勤しておりました。小学生時代、よく遊びに行ったあたりに大学はありました。ですから、この大学の大先生方以上に、私は大学の昔の姿を記憶しているのです。大学構内裏にはちょっとした渓谷があり、ザリガニを捕ったな、など(いまでは川も埋められ、住宅街に包囲され、面影さえもありません)。大学校舎を会場にして開かれた模擬試験を受けにいったこともあります。それでも、これだけ縁の深い地を私は「ふるさと」と呼べると考えたことはないし、またそう思いたくもないと、無理にでも自分に言い聞かせてきた観があります。

 
 
 なぜそうなのかな、ということへの自省の思いもなくはありませんが、もちろんこの地の風景はほとんど、「目をつぶってでも」どこにでも行かれるくらい、記憶に焼き付いています。逆に申せば、小学校に入った当時から50年以上もたった現在では、「変化」の激しさに慨嘆するくらいの、地域の変わりようでもあります。以前勤めていた大学の正門あたりのバス停まで、渋谷駅からバスに乗ってきて、そこからまた2kmも離れた小学校に歩いて、当時一年生の私は通っていました。中野の住まいから世田谷に転居をする予定で、私は近くの小学校にやられたのですが、その家の完成が半年近く遅れたので、中野から世田谷辺境の地まで、毎日通わねばならなくなったのです。東中野、新宿、渋谷と電車を乗り継ぎ、そしてバスで延々と、です。こんなことをどうして小学校一年生ができたのか、時には兄とも一緒でしたが(兄は一度中野の小学校に入り、私とともに転校しました)、いまでは想像もできません。それだけに、この大学正門周辺の変貌ぶりには思いあらたです。なにより、頭上を巨大な高速道路が走るようになってしまったのですから。それから30年後のいまに至っても、ますます変化は進んでおります。

 
 そのような変化を追体験できるということと、「ふるさと」の意識というのはまったく別のものなのだと思います。それは、なにより「人間関係」の有無にかかわるのでしょう。私は、小学校中学校時代の「友たち」と縁を切ったわけでも、そっぽを向いているわけでもありませんが、結果としてはいまに至るまで、ほとんどつきあいがありません。もちろん、私が神奈川に移ったためでもあります。仕事などを通じて出会うこともないせいもありましょう。また、その地で生活を本格的にすれば、日々の買い物などで再会をすることもあり得たのでしょうが(特には子供の通学環境などを通じて)、それもなかったわけです。前任校時代には、その小学校中学校の前を毎日通って通勤していたのですから、皮肉なものではあります。

 
 唯一の例外は、小学校中学校時代の悪友に仕事を通じて一度会ったことです。彼は高校をおえてから建築業に勤め、その後独立、小さいながら自分の会社をおこして、世田谷の地で元気にやっていました。私の「創業」調査の訪問先として、ここを選んで訪れてみたわけです。

 小学校時代の「悪ガキ」的姿の記憶とは裏腹に、しっかり経営を支え、元気に事業に励んでいたので、心強い思いをしました。地域に根を下ろした建設業という印象は鮮烈でした。この訪問から10年以上もたちますが、その後の厳しい経営環境下にも、悪友の会社は生き残ってがんばっているようです。「住宅バリアフリー化工事」請負など、また「不用品や粗大ゴミの撤去作業もお引き受けします」「施主様の手をわずらわせないよう、茶菓子等は辞退させて頂いております」など、彼の信念が「地域密着」のポリシーとともに生きているようです。もっとも社長名は変わっているので、あるいはもうリタイアをして後を継がせたのでしょうか。

 
 彼にはこのように「地域密着」が仕事そのものでもあるので、ふるさとは即、自分の生きる空間でもあるわけです。残念ながら私にはそうではありませんでした。それでも私は、前任校時代に地元世田谷区の行政に関わったりもしているのですが、あくまで「学識経験者委員」という立場であり、元来住民でもありましたということでは、変な誤解をされるのもいやだと、その辺を避けていた面もあります。それが正しいことであったのか、いまにしては反省もなきにしもあらずで、本当に地域のうちに入り込んで、産業の未来など考える姿勢に徹しられなかったなという思いはあります。でも、それってむずかしいんだよね、と言い訳するしかありません(皮肉にも、私は中野区の行政にも関わりました)。大学自体も、地域とのつながりの乏しい存在でもありました。いまはずいぶん変わってきたもようですが、以前は宗教系の大学というのは得てしてそういう体質があったようです。

 

 
 世田谷に比べ、現在に至るまで私の「人間関係」の濃い原点は、高校と大学であるのは間違いない事実で、その意味では東京新宿区高田馬場あたり、また東京港区三田というのはいまも私には重要な「地域」です。高校に通ったのはわずか3年間だけですが、実に思い出深いところでした(私は「まじめ・勉強熱心な」高校生では全くなかったので)。その後、大学には足かけ14年も在学し、うち11年間は港区三田で過ごしたので、ここもある意味、「住んでたとこ」に匹敵する時間の堆積があります。私は住まいと大学キャンパスを日々往復していたわけじゃなく、三田を軸にいろんなところで時間を過ごしていたのですから、なおさらです。

 
 そういった時間量だけではもちろんなく、高校と大学では多くの人たちと出会い、また多くのことをともにしました。そのうちには、いまに至るまで仕事などの面でもつきあいのある人は少なくありません。ウン十年前とはお互いに非常に変わってしまいましたが、同時並行的に、あるいは少しの隔たりを超えて、まさしく「現在進行形」でつながりが多々あります。時には、まったく偶然にそうした旧知の人に出会うことさえなくもありません。

 そのうえ、私は仕事がら、三田の大学校舎に所用で参るのは、いまもかなりの回数ありますし、たまたまながら、高校からも遠くない新宿区の大学へ非常勤で行ったりしていますので、ひと同士のつながり以上に、「まち」そのものは私には遠い過去ではなく、「いま」を過ごしている、意味ある空間でもあるわけです。

 

 
 太宰治の作品に、「富士には月見草がよく似合う」の『富嶽百景』のほかに、『東京八景』という体験的小品もあります。太宰のことですから、自分の経験そのものを記したように見せて、実はかなりが創作と想像で書かれている可能性があるのですが、それでも、自分の過ごしてきた人生と、出会い・別れと、そしてまちの姿、これらを重ねて淡々と描き出す筆致はさすがです。太宰にならう不遜を許してもらえば、私にも「東京八景」のようなまちと人生体験のスポットがいくつかあります。

 
 うえの、新宿区高田馬場近く、港区三田周辺はむろんですが、また25年暮らした、そしてそののち本務の仕事の場にもなってしまった、世田谷区南東部あたりも必ず加えなくてはなりませんが(あまり「東京風景」らしくもないけれど)、そのほかにもいくつか数えることができます。それぞれをどこ、と名指してしまうと、いまだいろいろ差し障りのあるところもあるので、ここで書くのは困難です。それでも、一つはわずか一年の予備校生活を送った、千代田区お茶の水・神田界隈であると記してもかまわないでしょう。予備校時代もこれまた余計なことばかりやっていた私には、単に校舎だけが記憶にとどまっているのではありません。かつては学生街と言われたこのまちで、まだ大学生でもない私は、近辺のいくつかの大学構内に潜り込んでもいました。多くの時間を過ごした喫茶店の数々も、忘れられないところです(いまは大部分なくなってしまいましたが)。

 
 皮肉にも、私は大学教員としての関わりで、このまちをたまに訪れるだけではなく、週一回、これも非常勤の担当で通ってもおりました。神田界隈というのも、50年経過しての変貌は著しいところなのですが、幸か不幸か私にはそれは、ほぼ同時進行形でつきあってきている空間なのです。隣接する秋葉原となると、別に仕事やらで参るところでは一度もありませんでしたが、正真正銘、ほぼ50年間通っております。シュミの世界です。ですから私にとっては、ほとんど昔日の面影なし、なのですが。

 
 
 あげていけば、このほかにも、都心部、東部、南部、北部、いろいろなところに色濃い思い出が染みついています。おそらく、よほどの偶然の作用でもなければ、二度と訪れることもないだろう、完全に私の過去の記憶にとどまっているだけのまちもいくつかありそうです。その記憶をよみがえらせるには、恥ずかしきこと、つらいこと、未熟を思い知らされること、数限りないほどのものがあるし、文字通り墓場まで胸に抱いていくしかないんだろうな、と自分に言い聞かさせるしかありません。私は太宰でも作家でもないので、人目にさらすべきおのれ自身と人生経験を磨き上げる力もなく、ひとさまに迷惑をかけるだけになること間違いなしですから、ここまで、です。

 
 どうあろうと、また口にできようがなかろうが、東京のまち、そこで過ごした過去の時間、それらはやはりどこまでいっても、決して「ふるさと」ではありません。遠い過去の化石としてのみ、私の脳裏に残っている「まち」は、決して現在にはそのままつながってはいないうえ、そこには心のよりどころも、出会える人間もいないからです。いま、なにかの偶然でウン十年ぶりにそのまちを訪れる機会があったとしても、「景色」への「懐かしさ」以上のものは探しようもないでしょう。「帰る」ところでは毛頭ありません。

 
 
 ですから、私にはやはり、「故郷」はないのです。

 そういう人間が「地域」を語ることには、うえにも記したように非常な後ろめたさがあるのですが、いまさら自分の力でどうなるものでもありません。運命と悟るしかないでしょう。

 

 それでも、「正月には帰省する」故郷はなくたって、じゃああんたは終焉の地をどこにするんですか、これは誰にも避けられない選択でしょう、こう迫られると困ることは困ります。父は、生まれ故郷である長野県の山村の墓地で、八ヶ岳を前にして眠っています(*17年後に後を追った母もいまは)。でも、そこは記したように私にとっての「ふるさと」ではありません。父は後年、ふるさとの高原に山荘を造り、私もそこで夏を過ごしたこともあるので、「故郷の追体験」もどきをしたこともないことはないのですが、それだからといって、いまさら「この村の仲間に入れてちょうだい」なんて申したって、親戚近隣、先祖代々のみなさまも歓迎はしてくれないでしょう。だいいち、言語系でまず壁にぶつかりそうです。

 
 それならいま住んでいる横浜こそ、と申したいところですが、ここでも30年近く過ごしてきても、私にはいまだエトランゼです。自分が「ハマの人間です」とはどうも胸を張っては申しにくいところです。うえに書いたように、あいにく妻は横浜生まれの横浜育ち、ほとんど出たこともないのを誇りにしていて、親兄弟はじめ多くが市内にいるので、横浜こそふるさと、帰るべきところというのになんの疑いももっていません(先祖は加賀藩金沢の下級武士なのですが)。どうも私はいまもよそ者的です。私のは40年以上京都に住み、最近は自宅を新築したりしているので、そこに「落ち着く」気なのかも知れません(その間には、他の都市の大学に長期間勤務し、「単身赴任」をしていたのですが、あくまで京都が自宅で、すっかり住み慣れたようです)。容易に「よそ者」を受け入れないと言われる京都に腰を据えてしまう、これは兄の能力ゆえなのか、あるいは「些事にこだわらない」性格からなのかとも想像をします。

 
 
 「帰るべき」ふるさとが思い当たらないというのはいささか寂しいことではあります。無理矢理に、人生懐古的ないし宿命論的に語れば、私は常にあらゆることの「観察者」であり、そこからきた「予言者」でもあったという自己認識にもつながりそうです。「そのまっただなか」に、直接没入し、全力投球の担い手、あるいはうまくいけばリーダーなりカリスマになる、どうもそういうのは私にはふさわしくない、縁遠い人間像らしいのです。世間の表現を借りれば、職業柄、「学界の権威の大先生」、「世の中でうける、影響力を発揮する」、「大学行政などで手腕を振るう」、そしてともかく「人望や人気がある」というのはおよそ私の性格の対極にありそうです。その代わり、「だから言ったでしょう、結局そうなるんですよ」と、あとだしで言える、孤独なる「予言者」を自称するしか売りがなくなるのです。「ふるさと」がない、だからその「地域」と「人間関係」にのめりこみ、かっこよく言えば腰を据え、自分のすべてを賭けて「何事かなさざらん」なんていうのはふさわしくないし、機会さえもない、これはいいことなのか悪いことなのか、この頃自分でもわかりません。ちょっと寂しくはあるけれど、まあその分気楽でもあります。地を這いずるのは好きですが、どこの地を訪れようと、いつも通りすがりの「旅人」気分で済ませられます。

 私の「弟子」たちは、それぞれの任地・勤務先で「地域」に存分にかかわり、信頼を勝ち得、大きな仕事などなしているようです。それはそれで立派なことと思います。まったく「不肖の師」ですな。

 
 
 それでも、まったく白紙状態から、あなたはどこを「終着点に選びますか」と尋ねられることがあったら、あるいはそれは、ロンドンですよと答えるかもしれません。いちばんありえない、無茶苦茶な話しなのですが、またそれほどの人間関係も、生活的文化的つながりも、日本国内のどこより乏しいはずなのですが、ここで過ごした延べ2年半余というのは、私にはそれだけ重く、忘れがたいものなのです。まあ、そんな勝手な「逆転の発想」、想像をいくらしてみても、「地域」自体、向こうの方で「受け入れてくれない」でしょうが。



2012年の回顧

 こんな駄弁に続編ができるとも考えていませんでしたが、2012年度からの身辺変化で、否応なく「思い出の地」を鼻先に突きつけられる生き方になりました。


 2012年度からの勤務先は東京西部、そこに行くには毎度必ず高○馬場というところを通ることになりました。ここはいまの非常勤先にも近いのですが、なんと50年前、毎日通った高校への下車駅なのです。もちろんこの50年間、この駅に降り立った経験は多々あるものの、なにより「通勤経路」ともなれば、感慨新たではあります。
 高校への通学経路は、変貌著しい正面口ではなく、何か寂しげな裏口然とした、南口と言うところであったのですが、このあたりはほとんど変わっていません。どこもかしこも一変した感のある山手線各駅のうちでも、こんなに何も変わっていない出入り口も珍しい方でしょう。


 もちろんそこを一歩出て、街中に向かえば、これはもう50年前の土地勘はまったく役に立たない状況です。駅から高校正門まで、一分一秒を争う朝の登校時、「最短距離」を経るべく、徹底したリサーチと経験蓄積を誇ったもの、神社を突き抜け、ここの坂を上り、この小道を駆け抜ければと、いまも記憶は鮮明なのですが、肝心の町の姿がまるで違ってしまっていましょう。

 いま、50年後にして再び経ることになった高○馬場駅、もちろん乗り換えのみなので、あらためて降り立ち、記憶の糸をたどってみるなどまだ試みてもいないのですが(「途中下車」で郵便局を探し、えらく苦労をさせられたくらい)。

 それでも、50年前に毎日毎日眺めた、山手線の車窓風景をいままた、そのまま目にしていくのは、この歳にして誠に僥倖、有り難き幸せです。「東京八景」の追憶と、大きな時間差の自覚とが、日々飽きさせてくれません。



 もうひとつの経験は、長野の大学に行くことになったという事実です。行くと申しても、前年度とあわせ、のべで6、7回程度のことなのですが、なんのかんの申しても、やはり私には長野は生誕の地です。


 さりながら、私の生まれた南信とはまるで離れた長野市です。この北信に足を踏み入れたことは、生まれてこの方、つい最近まで遊びや校務(学生と合宿など)を含めても、のべ10回にも満たなかったでしょう。ですから、「懐かしき地に再び立てり」と感激するほどのこともないのですが、やはりなんとなく、「信州だよねーー」という思いはします。


 このことからも、最近信州の地での私の「売り」は、「信濃は山国じゃなく谷国」というのでありまして、どっかにネタの著作権登録でもしておきましょうか。よく「信濃は山国で」という枕詞がありますが、これはまちがい、だって山の上に人は住んでいません、住めません、住んでいるのはその麓の谷です、そしてそれだから、谷ごとに「違ったクニ」だったんですと、こう説くわけです。谷ですから、山を隔ててそれぞれの谷に、暮らし方や習慣はもちろん、異なる文化、それどころか異なる言語さえあった、これが信州の真の姿なんですよ、と。

 実際、正直このように北信の中心長野市に行くようになって、南信との違いを実感すること数々です。いちばんわかりやすいのは「おやき」でして、きょうびは信州を代表する食品の扱いを受けるのに、私など唖然としています。南信出身の私の両親の暮らしや言い伝えの中に、そんなもの出てきたためしがありません、聞いたこともありません。どう見ても、北信の、しかも一部農村の食生活の産物と思うのに、いつのまにやら誠にメジャーな存在になり、長野駅や善光寺周辺のお土産屋はおやきばっかし、これでもかこれでもかです。「大信州展」の目玉、人気商品代表です。かくして信州人がなんでおやきを知らんのかと、怪訝な顔をされるが落ち、私からすれば、「お好み焼き」がパリあたりで日本食の代表扱いをされているような違和感を覚えるのですが。


 まあこれは、「ローカルフーズの全国化」マーケティング戦略の大成功の例なんでしょう。つまらぬケチをつけずに、黙々と頂くことにしましょう。近ごろはさらに、「信州サーモン」なんていうのがメジャーな地域ブランド商品になってきているそうですから、「海のない信州に鮭がいるかよ、信濃川をさかのぼってきたのかい」と突っ込みを入れたくなる私の方が間違っているのでしょう。
 ただ、このように「谷を越えた」食文化生活文化の拡散と普遍化がすすみますと、もちろん新たな発見もあります。私にとってその最大のものは、「北信にはホスピタリティがある!!」でした。これは相当にやばい話でもあるので、ちょっと取っておきましょう。



うーん、南信にもおやきが?


 若干まずいことになりました。南信でもおやきを食することがあったという「証言」を貰ってしまいました。

 私の叔父が他界し、諏訪の方に葬儀参列に参りました。

 その席、よくあることながら、普段顔を合わすことのない親戚同士が久方ぶりに再会する場にもなりました。私の亡き父は10人兄弟でもあったので、私の従兄弟も大勢いるのですが、その「最長老」、本家の農業を継いでいる従兄に、この「おやき談義」を持ちかけたところ、「確かに、いまのはやりは北信のものと思うけれど、自分もおやきを小さい頃食べたことがある」というのです。米が貴重だった時代、節約のためにおやきを親がつくり、食べさせられたと。
 おそらく、そう頻繁ではなかったのでしょうが、南信の地でも食物としてのおやきというものがあったことは事実のようです。代々田畑を継いできた農家のお話しですから、間違いありません。私の父は、この農家で育ちながらも、早くに家を出て、東京で学業に専念したので、おやき食生活経験はほとんどなかった可能性大です。家を継いだ長兄の伯父の一家では、当然食生活や習慣は相当違っていたのでしょう。


 ただ、実に皮肉な巡り合わせと思いましたのは、この葬儀、父の下の叔父が98歳で他界したからなのですが、その叔父は県の農業試験場で、寒冷地長野での稲作向上に腐心し、画期的な技術を開発、その普及に努め、長野県のみならず東北や北海道での米収穫の飛躍的な増加、戦後食糧事情の改善に大きな貢献をしたひとであったという事実でした。その後、米は「とれすぎ」になり、減反・栽培抑制の国策に転じたというのはなんともはやです。米が貴重であった時代の典型的な副産物たるおやきをめぐって、日本米作農業の功労者たるひとの葬儀の席で従兄弟同士が談義に花を咲かせるという光景、祭壇上から叔父・岡村勝政さんはどう聞いておられたでしょうか。


 ◆兄は2014年3月で職を退きましたので、うえのリンク先が他の人になっていました。
 そこを、今さらながらなおしました(2014.12訂正)。

 訂正ついでに申せば、高○馬場にも近い非常勤先は、2013年度でやめてしまいました。ある不愉快な経験もあって。折しも、非常勤講師の処遇や雇用継続問題などで学園が揺れていたようなので、私が辞めるということで、経営側はさぞ喜んでくれたでしょう。
 そのせいか、なんと「退職金」(?)までもらってしまいました。大学の非常勤講師というのはウン十年やろうが、終わりとなればはいサヨウナラが通常なので、破格の厚遇と感謝申し上げるしかありません。





信州人と商いの記


 信州人はいかに商い、とりわけ客商売に向いていないかという経験を、かなりネタ話で使ってきました。もう相当使い古しであり、そろそろ機会もなくなりそうなので、ここに書いちゃいましょう。


 ずいぶん昔、もう30年くらい前のことです。前前任校の学生諸君と「ゼミ合宿」で、中信だか南信だかのあいだみたいな地に行きました。学生が探してきた、一応「○○旅館」というカンバンのところ、学生たちと到着するなり、そこの主が宣告してくれました。
「あんたたちはねえ、合宿ということで安く泊めてやっているんだから、この玄関から出入りしないでくれよ。ほかのお客さんもいるし」と。


 まあその場では、はいそうですかと言い、ウラの「合宿所」の方に回って出入りすることになりましたが、後々思い返すに、腹の立つことです。要するに、あんたらは客じゃない、という意味ですよね。安い料金で泊まる場所と食事を提供しているんだから、客などと思わず、ありがたく思えということでしょう。別にタダじゃないですよ。


 客商売というのは悩ましいもので、たしかに、かなりの料金を払っているお客さんらからすれば、学生連中がうろうろしている、同じカネ払っているんじゃないだろ、目障りだというクレームもあるかも知れません。そこは客商売の難しさもあるでしょう。

 でもね、同じことでもものの言い様もあるでしょうが。ちょっとちょっとと呼んで、「悪いけどさあ、うちも別料金で旅館のお客さんも泊まっているんで、そのひとたちから文句言われることもあるんだよ、学生合宿で安く泊まっているのと同じ扱いなのか、なんて。そう言われちゃうと立つ瀬ないから、なるべく裏の方に回って合宿所に出入りしてもらえないかなあ、その方が外から戻るときは簡単だし」くらいにね。そう言われれば、「我々も客のはずだ」なんて突っ張ったりしませんよ。



 で、この経験に対比するのは、阪急社長を務めた小林一三翁の、有名な都市伝説的エピソードです。昭和恐慌期、貧しかった学生や若いサラリーマンらが、昼時にデパート食堂に殺到し、そこでライスだけを注文、それにソースをぶっかけ、卓上の漬け物などで済ませてしまう、これではぜんぜん商売にならないし、だいじな昼時にそんなのに食堂を占領されたらたまったものじゃない、というわけで、多くのデパート食堂が張り紙を出しました。「ライスだけのご注文はお断りします」と。ところが阪急デパートだけは、小林社長の命令で、「当店はライスだけのお客様大歓迎」と張り紙し、社長自ら昼時の食堂で客を迎え、ライスだけで食べようという若者たちの席を回り、「よくいらっしゃいました」と挨拶し、自ら漬け物をサービスしたという。

 これは『暮らしの手帖』に花森安治がのちに書いたことですが、以来ウン十年、関西財界の大物などでは、「うちは阪急以外では買い物はせん」という人がたくさんいたということ。つまりこの教訓は、「いまは貧しい学生などでも、のちにはいいお客さんになるかも知れない」、「それを思い浮かべてやるのが本当の商売というもの」と。


 まあ、いまどきですと貧しい若者はずっと貧しいままかも知れないし、デパート食堂もそんな魅力もなく、若者は来ないし、というところかも知れません。それでも「顧客関係性重視」の商法の見本ではありましょう。あべこべに、「あんたたち学生は表から入らないでくれ」というのは、いかがなものでしょうかね。少なくとも、そこにいた学生たちのうちから、将来「あの宿はよかったなあ、こんど家族揃って泊まりに行こうか」とか、「会社の慰安旅行に」という声は絶対に出てこないでしょう。


 さすがにこれだけの経験をほかの地の宿でしたことはありませんし、信州ノミナリズムの極致(地)かとも思います。「差をつける」ことがだいじなのでしょう。そして、ここまで言うと僻みそのものですが、その「安く泊めた」学生らでも、「ユーメイ校」「名門校」であったらどうだったんだろうな、とも想像します。まあ、おそらく言葉遣いだけでも違ってはいたでしょうね。特に「教育県」信州人の崇拝してやまない旧帝大とか。


 


 もう一つの経験。たまたま、県の行政関係者と泊まりがけの企業調査に回る機会がありました。いまにして思っても、実に貴重な勉強だったと思うのですが、いろいろ「若気の至り」もあって、以来お声がかからないのは反省の限りです。


 それで、泊まっていた宿で皆で朝食を食べていたら、宿の女将が顔を出して、「ねえ、皆さんこのへんの企業の調査をしてるんですって」と声をかけてくるのです。「そうですよ」とこたえるに、女将得意になって、「このへんの企業はねえ」、「経営というものが」などと演説をぶち始めました。困ったですねえ。もちろん、地域の企業者のひとりとしてのご意見伺いに参上したわけじゃあありません。訪問先のプライバシーの問題などもありますから、話しにいちいち応じるわけにもいきません。誠に気まずい朝食になりました。


 これはどう見ても、客商売のタブーを犯すものでしょう。そういったところに、行政機関関係者としては金輪際泊まるわけにいきません。客の立場や仕事関係など尊重配慮しつつ、あくまで旅館として丁寧に接する、それに尽きるのじゃないでしょうか。相手から求められたわけでもないのに、いきなり「客と対等目線」では。


 この教訓は、客商売の立場より、「オレがオレが」(「私が私が」)が優先する、客に対してであろうが、自分の一家言を語らずにはおかない、そういう信州人気質です。「理屈が大好き」の特徴と申しましょうかね。

 もちろん「個人差」もあります。そしてうえにも書いたように、北信での経験から、どうもそこは南信などと違う、「ホスピタリティ」の精神あり、という実感でした。やはり門前町として、長年多くの来客を迎えてきた地の文化なのでしょうか。



(2024.2)

 すべての職も退き、完全年金生活者となって、「ふるさと探し」の旅も寄り道もなくなったいまですが、昨夏には「生まれ故郷」にいく機会を得てしまいました。

 高校同期の仲間たちの「部活」で、思いもかけず、ふるさとの山に登るという計画を貰い、何が何でも、と加わった次第です。もちろんずいぶん前にも登った山ですが、いまでは上の方までゴンドラが運んでくれます(冬はそれなりに賑わうスキー場です)。

 そのために、これでもかなり久しぶりに生まれ故郷を訪れ、両親の墓にも参じ、親不孝を詫びたわけですが(車もないと、なかなか行かれないよねえ)、寂れぶりをあらためて実感せねばなりませんでした。もうだいぶ前にバス路線はなくなってしまいました。「駅前」商店街はいまやほとんど廃墟の街です。
 ひとけの乏しい町に、郭公の鳴き声だけが、鮮やかに響いていました。

  「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」(啄木)



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