どうにも太田資正が好きである。時勢をみるに必ずしも敏感ではなく、どちらかというと旧体制にしがみつき、時流に乗り遅れ、あがき続けた男。常に自分より巨大な敵に挑みつづけ、徒手空拳、何度かチャンスを生み出しては戦乱を巻き起こしていった男。彼のことを調べ出してから、数年がたつが、文献調査ははかどらない。調査の過程で抱いた謎の大部分は解けないまま。歴史小説を書いてる知人には「太田三楽? 誰、それ?」と言われる始末。あがきにあがきながら、ハンドルネームに彼の道号をもじって「三楽堂」を称して三年以上たつ。最近、煮詰まった状況をリフレッシュするべく、フィールドワークのようなものを開始した。といえば、聞こえはいいが、要は太田資正の関連史跡をめぐろうというものだ。今回、で第3回をかぞえる。第1回は当然のことながら、岩槻(埼玉県岩槻市)へ行った。まだバイクに乗っていた頃で、松山をもまわった。第2回は、徳尾(福井県福井市)へ行った。資正の次男政景の菩提寺禅林寺がある。前2回の旅については、いずれ紹介するつもりである。
だが、わたしは前2回の旅に満たされることはなかった。江戸時代、近世城下町として発展した岩槻は、もはや「太田資正の岩槻」ではありえない。福井となれば、当の資正は足を踏み入れた記録はない。案の定、資正自身に関連するものは何もなかった。古文書以外の遺品もない・・・・・・となれば、残るはただひとつ。お墓はどこか、ということだ。
というわけで、今回のミッションは決まった。

「太田資正の墓を探せ!」

part1「柿岡にて」
part2「片野城へのみち」
part3「出現!第3の三楽斎」
part4「筑波を越えて」
part5「片野城ふたたび」


太田資正ミニ知識

Q1.太田資正ってどんな人?

戦国時代の武将。初名源五郎、美濃守・民部太輔、三楽斎入道道誉。扇谷上杉朝興・朝定の家臣。太田資頼(知楽斎入道道可)の二男。天文六年および十五年の武蔵河越合戦で北条氏綱・氏康と戦い、敗走。父と兄の死によって岩付(岩槻)城主となる。のち北条氏康と和睦するが、永禄四年、長尾景虎(上杉謙信)の関東進出の呼応。小田原攻めの先鋒を担う。この頃、属城松山城を北条勢に攻められたが、犬を伝令として使用し、素早い後詰めによって敵を駆逐した「三楽犬の入替え」の逸話は有名。永禄七年、国府台の合戦で北条氏に敗れ、さらに嫡男氏資の離反によって居城岩付を失陥。常陸の佐竹義重に招かれ、片野城に拠って二男梶原政景とともに武蔵奪回を画策した。この間、中央の織田信長や豊臣秀吉と結んで「片野の三楽」の名声を高めた。天正十八年、小田原征伐に参陣。翌年、片野城内で没した。正室は難波田弾正の女。側室に大石信濃守の女、継室に月洲長瓊禅定尼などがいる。子女は嫡男源五郎氏資、二男(梶原)源太政景、源三郎資武、五郎左衛門景資、成田氏長の妻、佐竹義重の妻、多賀谷重経の妻などがいたといわれる。法名智正院嶽雲道端大居士。

Q2.「三楽犬の入替え」とは?

太田資正は大変な犬好きであった。永禄年間、居城である岩付城と、属城としていた松山城との二ヵ所に五十匹ずつの犬を飼っていた。この犬は非常に馴れていて、城内でも資正が犬とじゃれあっているのを、家臣たちは「うつけ者」と陰口を叩いていた。
資正はそんなことは気にもとめずに、岩付で飼っていた犬五十匹を松山城に連れて行き、帰りがけにそれまで松山城で飼われていた犬たちを連れて戻って行った。
「何かあったら、犬を放せ」と言い置いて。
それから間もなく、松山城が北条氏康に攻撃された。急なことで援軍要請を岩付城に出す機会を逸してしまった。松山城を預かっていた家臣たちは資正の伝言を思い出して、城中の犬のうち十匹に竹筒を首につけて解き放した。この竹筒には資正への書状が収められている。犬たちは北条方の包囲網をものともせずに突破し、岩付城へ辿りついた。松山城の危急を知った資正の援軍が北条勢を駆逐したことはいうまでもない。本朝における軍用犬の嚆矢と云われている逸話である。

Q3.肖像画は残っているの?

当時のものや没後間もなく描かれたような肖像画は残されていない。資正の父・知楽斎道可の生前のものといわれる寿像が現存している(養竹院所蔵)。資正自身のものは筆者の知るかぎりでは江戸時代の錦絵(多色摺浮世絵版画)のものがある程度。上杉謙信が鶴岡八幡宮社頭で成田長泰を打擲するシーンで、越後の諸将と関東の諸将が相対して居並び、資正は成田の後方に座している。錦絵なのであまり個性が感じられないものだ。小田原城天守閣所蔵。

Q4.遺品などは残っているの?

書状が中心。文書上の初出は天文十八年(一五四九)、慈恩寺に対して発給された判物で「源資正」と署名している。現在までに筆者が確認したところ五十八通の発給文書が原史料あるいは写本等で伝存している。片野城内にあった瑠璃光寺が城主の遺品を伝えていたらしいが、江戸時代の出火で失われてしまった。また千葉県にある太田道灌所用と伝わる軍配は、実は資正所用のものではないかとも云われている。

Q5.戦歴は?
河越城攻防戦(VS北条氏康)、松山城攻め(VS北条氏康)、海老ケ島城攻め(VS小田氏治)、上杉氏・小田原攻め(VS北条氏康)、国府台合戦(VS北条氏政)、手配坂合戦(VS小田氏治)、小田城攻め(VS小田氏治)、豊臣氏・小田原攻め(VS北条氏直)などが史料などで確認できる主要なもの。
杜撰かつ史料性が高いとは云えないが、太田資正の孫が書き記したという「太田三楽斎戦場履歴」(おそらく後世の作)によれば、五十六年間で七十九度の合戦を戦い、一番鑓二十三度、組打ち三十四度、太刀打ちは数え切れない、とある。かなり贔屓目にみているが、国府台合戦に関する軍記では太田資正が組打ちするシーンもあり、陣頭指揮するタイプであったのかもしれない。勝ち戦は三十度というから、勝率37.9パーセント。やはり大国の主ではないので数で相手を威圧することができない分、勝率は低めである。

Q6.武将としての評価は?

同時代には「片野の三楽」として畿内にまで名が知られていた。これは早くから中央政権である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と音信を交わしていたことによる。太田資正の三男安房守資武の書状によれば、弓の名手であったという。
また「天下十三大将」のひとりにも数えられた。江戸時代には「犬の入替え」などの逸話の影響と思われるが、軍学者として知られるようになった。もっともこれは虚構で、問答形式で太田資正(三楽)に仮託された人物が登場する越後流兵法書や、合戦評、人物評などを行う逸話などが散見される。