part4:筑波を越えて

片野での探索をあきらめて、次の目的地に向かうことにした。八郷町から筑波山の向こう側の真壁町へ行くには、当然ながらタクシーで峠を越えるか、時間はかかるがバス路線を乗り継いで山際をまわるかのいずれかしかない。時間のロスはあとあと影響する。筑波タクシーで真壁に向かうことにした。
町へ入る前にわき道をそれ、伝正寺に車をつけてもらった。「どっこい真壁の伝正寺」で知られているが、その語源ははっきりしない。境内には関ケ原合戦以後、一時、この地を領した浅野家の廟所がある。寺の向かいは桜井館という温泉宿。今度は泊まってみたいものだ。

寺をあとにして、徒歩で町へ入る。途中に今回、三楽斎の墓が見つからなかった場合の「おさえ」として選んだスポットがある。
真壁城だ。「鬼真壁」こと真壁暗夜軒の居城である。

平城の貴重な遺構をのこす真壁城跡。写真は三の郭の土橋から筑波山方面をのぞんだもの。本丸には霞神道流の剣豪・桜井大隅守の顕彰碑も建っている。国指定史跡。なお真壁城の遺構といわれるものには十九代・真壁房幹が寄進した黒門が雨引山楽法寺に移築されている。

なんだ、天守閣はおろか櫓も石垣もないじゃないか、と興味がわかない人は本質的なところで「真の戦国ファン」とはいえない(売店もないのかと言うのは論外である)。戦国たけなわだった頃の城はおしなべてこんな具合だったのだ。コンクリート造りの復興天守をありがたがるのは、商業主義に毒された自治体の悪しき罠にはまっているようなものだ。(ただし、これは美術品におけるレプリカをばかにするのとは違う。最近はレプリカも精巧にできており、調査目的であれば十分事足りることが多い。また、復興天守の中には江戸期の様式を忠実に「再現」したものもある。復興天守すべてをばかにしているわけではない)

山城で戦国時代の土塁や堀が残っているケースはよくあるが、真壁城は平城なのである。普通ならばとっくに造成されていたはずだ。かたちのよい郭の土橋や、まるで活断層の移動のように土地の高下が顕著にあらわれている堀や土塁。
ともかく中世城郭のモデルといおうか、格好の教材がきわめて良好な状態で残されているのである。

真壁は石の町である。石材店があちこちにあり、墓石などは相当数真壁産のみかげ石を使っているという。その中に真壁町歴史民俗資料館の標識を見つけた。中へ入ると、企画展の会期が終わったばかりで、どうやら常設展などというものはなく、期間外は準備中ということであるらしい。来館者もほかにはいない。仕方なくパンフレットや資料館の発行物の見本などをパラパラめくっていると、学芸員らしい男性の方が出てきた。『真壁城への誘い』というタイトルの城跡発掘調査報告書と『中世の真壁氏』という小冊子を頒けてもらった。前者は2500分の1測量図付きだ。

男性が倉庫へ入り、小冊子を出してくれるのを待っていた時、廊下に置かれた書架に『岩槻市史』が並んでいるのに気づいた。
脈あり、だ。さっそく聞いてみた。
「実はさがしものをしているんですが」
「はあ」
「太田三楽の墓を探しているんですけど。今朝方、片野城のあたりを探していたんですが、見つからなくて。土地の人にも聞いたんですが」
「太田三楽の墓というのは見たことないですねえ」
「そうですか」
「でも、町史がありますから、どうぞ」
町史? 八郷町史のことか?
「こちら、暖かいですからどうぞ」
通されたのは、学習室と表示された部屋。部屋の一面に自治体発行の報告書などが並んでいる。わたしは手渡された『八郷町誌』を繰った。これは・・・・・・見たことがある。失望感。だが、目次の項目を確かめながら、関係ありそうな部分を見ていくうちに、片野城址について説明した次の一文が飛び込んできた。

郭内に七代天神・浄瑠璃光寺・泰寧寺などの社寺があり、また太田三楽の供養塔もある。なお、この城址の北寄りの高台に、台の池(一名源兵衛堀)と称える五アールほどの池があるが、この池はどのような旱りにも涸れることがなく、城の飲料水として重要な存在であったと伝えられている。

文献的裏づけはとれた。だが、これだけでは不充分だ。わたしは書架に並んでいる報告書や市町村史の類を目で追った。配列は市町村別になっている。気ばかりが逸る。台の池は今朝方見たあの水溜りだ・・・・・・。あとひとつ、ダメ押しの物的証拠が欲しい。『八郷町の石造物』という報告書があった。こいつだ。板碑、道祖神、馬頭観音。めくってみたところ、五輪塔の項目には片野のものはない。おかしい。よく見るとそれは第二冊目。第一冊目は・・・・・・。どこだ、どこだ、どこだ。

書架には書籍が前後二列になって配架されている。第一冊目は奥の列に並んでいた。なかったら泣くよ、もう。ページを繰ると、第一番に飛び込んできた五輪塔のモノクロ写真。見覚えがある。こいつだ。解説文には「伝・片野城城主の墓、根小屋字台、年紀不詳、一四八p」とある。「伝」とあるのは、おそらく碑銘が読み取れないほど表面が摩滅してしまっているのだろう。

「見つかりました、ありがとうございます」
事務室に声をかけて出ていきかけると、さきほどの男性が出てきた。やはり答えが気になるらしい。(その気持はわかるよ、わたしも図書館司書。レファレンスの結果に無関心ではいられるものか!)
わたしは学習室に戻って、出典となった報告書と写真について話した。
「根小屋、つまり片野城にあることはわかりました。あとは台という字がどこかということなんですけどねえ」
わたしの地図にはそこまでの情報は記載されていない。七代天神のあたりは「天神台」というのは柿岡の書店で確認してわかっている。「台」はその周辺である可能性が高い。
「役場に聞くと、わかりますよ。詳細な地図がありますから」
男性が言った。そうか、役場かあ。お礼を言って、資料館をあとにする。もう夕陽が沈みかけている。その日は真壁町内のホテルに投宿。あまり流行っていそうもないホテルだ。部屋に落ち着いたあと、表の公衆電話で八郷町役場へ電話をかけた。
「町の字の所在を知りたいんですけど」
「字ァ?・・・・・・わかりませんねえ」
投げやりな男の声。え。おまえ、八郷町民だろうが。今は終業時間ちょっと過ぎている。わたしも悪いが、それだったらそう言ってくれ。「わかりません」はないだろう。そりゃ、わたしは茨城県や八郷町に住民税をおさめてはいないけどさ。当地に来てからけっこうお金を落としているんだ。外来の人間の話を少し聞いてくれたっていいだろう。ただ応対が面倒だからとしか思えない。だったら業務終了をつげる留守電を流して、自分は電話口に出なければいいじゃないか。
「エート。じゃあ、明日うかがいます」
「明日は休みですよ」
電話が切れた。

昼間の郷土資料室が大掃除で閉鎖に続き、わたしと八郷町役場との相性はあまりよくないらしい。その時、つくづく思ったが、観光客はほとんど土・日にやってくるんだ。それなのに、観光課や生涯学習課が土・日に閉まっててどうする?。大掃除なんかお客が来る日にやるなよ。ちゃんとしたところならば、役所の外に観光センターなどがあるのだが、ここでは採算があわないのだろう。おまけに近くには図書館もないときたもんだ。
まあ、史跡探索において、役所が役にたってくれたことなどは、これまで一度もなかったのだが。
夕食後、部屋で地図をひろげて作戦を練った。 残るは・・・・・・ローラー作戦しかない(爆)。

part5「片野城ふたたび」