part5:片野城ふたたび

筑波山の麓に抱かれて朝晩の冷え込みはきついが、翌朝もいい天気だった。片野へ戻る予定であったが、その前に真壁町で一ヵ所たずねておきたいところがあった。
「真壁氏累代の墓所」である。昨日の歴史民俗資料館でもらったパンフレットにMAPがついており、これを頼りに石岡下館線をてくてく歩く。「真壁氏累代の墓」はこの道路沿いの山尾地区にある。遍照院というお寺だ。

勾配にさしかかった頃、案内板が見えた。今回の探索ではいちばんあっさり見つかった。民家の間を縫って少し降ると、小さな空き地がある。遍照院の本堂はまるで一昔前の公民館か児童館といったおもむきだ。墓所はその横手の森の中にあった。不ぞろいの石段を登ると、中規模の五輪塔が20〜30基、「コ」の字形に並んでいる。残念ながら銘文はほとんど摩滅して読み取れなかった。この中にあの「鬼真壁」久幹やその子氏幹のものがあるのだろうか。三楽斎のために持ってきた線香を少しおすそわけしながら、そんなことを思った。

ここから真壁城を右手にのぞみながら、ふたたび町の中心へ戻った。幸い、前日にタクシー会社を見つけておいたので、ここからタクシーに乗った。昨日の道を逆戻りすることになる。途中、上曽峠のあたりで事故に遭遇した。
根小屋バス停付近で車を降りた。地図上で見れば、ここからが片野城へのいちばんの近道であるはずだ。

前日は西側から北へまわったが、今回はそのまま城の北側からのアプローチになる。民家の間を縫うように坂道をあがっていくと、間もなく、本丸の輪郭に沿うように凍った水たまりが姿を見せた。昨日も気になった池だが、これは『八郷町誌』にあった「台の池(一名源兵衛堀)と称える五アールほどの池」に違いない。太田資正の五輪塔があるという字「台」とも通じるため、おそらく本丸の山全体が「台」であり、とくに七代天神のあたりを「天神台」としているのだろうか。

洗濯をしているおばあさんがいたので、挨拶して、真壁町でコピーしてきた五輪塔のモノクロ写真を見せた。が、知らないという。よほどわかりにくい場所にあるのだろうか。人気がないため、聞きこみはまったく効果があがらない。

もう一度、本丸跡へ入ってみた。昨日はなかった農機具などが置かれていたが、人影はなかった。藪のほうにも注意したが、石造物のようなものは見当たらなかった。本丸から二の丸へ、七代天神を通過して、片野側の坂の途中に出た。これでは昨日と同じパターンではないか。あまり期待せずに近年造成されたらしいコンクリート塀に沿った道のほうへ行って見ることにした。片野城縄張りからすれば、三の丸に相当する部分だ。が、少し歩くと左手コンクリート塀の上に丸い石造物の一部が目に入った。

急いで回りこむと、墓所への入口がある。どれも新しいものばかりだが、いちばん奥の一画に先ほどの丸い石造物(つまり五輪塔の空輪)がその全容を見せていた。確認するまでもない。紛れもないその形。

時に平成十二年一月三十日午前十時十分。ついに・・・

「太田資正の墓、発見!」


やっと参りました、お屋形さま!!・・・国持ち大名じゃないから「屋形号」は許可されていないだろうけど、幕府相伴衆推挙の話もあった(蹴ったけど)し、所領九〇万石(笑)ともいうし、まあいいだろう。

五輪塔は下から地・水・火・風・空の五大をかたどったものだが、太田資正のものは空と風の部分が少し大きめで、高さは百五十pぐらい。周囲に三〜四基の小型の五輪塔を従えている。資正の縁者かな。あるいは殉死者のものだろうか。それとも何度か建てかえられたものなのだろうか。真壁氏のもの同様、碑銘などはすっかり摩滅してしまって本当にそれが太田資正のものかどうかは確かではない。しかし、片野城内で亡くなった人物といえば、資正以外には考えられない。
そばには真新しい石碑が並列していた。正面にはこう刻まれている。

「太田資正公之墓所」

横には、十三世後裔の方が「太田資正の四百年忌にあたる平成二年十月二十六日に建立した」とある。十月二十六日は陰暦でいうと九月八日。太田資正の命日である。

最近になって修繕された部分もあるし、墓石の前には線香の残りも見られる。今も供養されているに違いない。よかったよかった。さっそく、お線香をあげる。二百本は多すぎかな、と思いつつエーイ!。酒でも持ってくればよかったな。仕方なくライフガードがわりのペットボトルから「お〜い!お茶」を少し捧げた。「チョコは食べないだろうな・・・」あんまり汚してはと思い、それはやめた。

ここは片野城の遺品を伝存していたという浄瑠璃光寺の跡なのであろうか。焼失してしまったことが残念でならない。

というわけで、今回のミッションは無事完了した。しかし、今回の旅を通して新たに次なる目標がわたしの脳裏に。うーむ。しかし、こんな旅行記、たいていの人にはあきれられてしまうに違いないなあ。耐えられる同行者もいるとは思えない。家人からは完全に見放されている。どう思います、お屋形様?


★太田資正と岩付太田氏について調べています。上記の墓所や史跡をはじめ太田資正についてご存じの方、また(まじめに研究している)同好の方、下記までメールをお寄せください。

【太田資正研究会(いつかは)発足準備委員会】代表兼小間使い 三楽堂
framy@mail.goo.ne.jp