part1:柿岡にて

今回のターゲットは、嫡男氏資によって岩付城を追放された太田資正と二男梶原政景が常陸へ移った時に拠点としたふたつの城である。
上野駅から水戸行きの特急に乗りこみ、石岡駅で下車。ここからはバスになる。幸いバスターミナルには柿岡行きのバスが停まっていた。地方に行ってバスのタイミングがいいことは、非常にラッキーなのだ。発車時には3人しかいなかった車内も次第に増えてきた。40分ほど乗ったであろうか、手持ちの茨城県地図帳のバス停名を確認しながら、このあたり・・・と見当をつけて柿岡の中心部で降りる。中心部といってもまばらに商店がならぶ程度。
とりあえず八郷町役場までテクテク歩くと、およそ場違いな立派な建物が見えてきた。観光課でイラストマップを入手。あまり参考にはなりそうもない。
梶原政景が拠った柿岡城は、現在、柿岡小学校になってしまっている。とりあえず小学校を目指した。一般に城跡は山林のままか、何がしかの敷地になってしまっているケースが多い。寺や公園はまだいいほうだが、幼稚園や学校が建てられていると厄介だ。中学・高校などだと、カメラを手にうろうろしていると不審人物と間違えられるからだ。幼稚園や小学校はもっと厄介である。有名な観光名所ならばともかく、学校関係者でさえほとんど知られていない史跡を見に来るような輩がいること自体、変だと思うのだろう。史跡にかこつけた誘拐犯と思われたら致命的である。
この日は平日だった(仕事はどうしたという突っ込み厳禁)ので、小学校はまだ授業中。まずいことに運動場では体育の授業の真っ最中。これは敷地内に入りこめないかもしれない、と半分あきらめつつ校門をくぐると、すぐそこに「史跡柿岡城址」碑がたっていた。横の案内板には次のように書かれている。


八郷町指定柿岡城址
指定年月日 昭和四十七年四月十九日
柿岡の西南館地内の高台にある。三方を田園にかこまれ西北の一戦が善慶寺を境として町家に接し残塁空壕四辺をめぐってその間に民家が軒をつらねている。源頼朝が幕府を開いたころ、常陸守護職に補せられた八田知家がその子小田時知(時家ともいう)をここにおいたといわれ、それからのち代々柿岡氏を称え、東西三キロの片野城とともにこの地方を支配していた。戦国末期には梶原美濃守政景の居城となったが、天正元年小田天庵氏治が太田三楽父子に攻められて敗退するや、柿岡城には真壁房幹が入った。文禄四年(一五九五年)の秋から長倉義興が居住すること六年、慶長五年(一六〇〇年)に急死した。その後国分盛重に代ったが、徳川になってから後、九州柳川の立花氏の領地となり、稲葉正勝の領地を経て徳川氏の直領として代官の支配となり、明治維新まで続いた。

part2「片野城へのみち」