喜連川城

概説 大蔵ヶ崎城、倉ヶ崎城、喜連川陣屋ともいう。喜連川丘陵突端の要害を巧みに利用した中世の代表的な連郭式の山城。塩谷惟広は源義家の孫、頼純を祖とし、源平合戦に源義経の軍に従って出陣、功を立てたので源頼朝から塩谷の里三千町を領地として与えられ、文治2年(1186)ここに大蔵ヶ崎城を築いた。天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を平定したとき、ときの城主惟久は秀吉に従順を誓う機を失った為、秀吉の怒りをおそれて出奔した。およそ400年続いた喜連川塩谷氏も17代惟久で終わり、大蔵ヶ崎城は喜連川足利氏の所管となった。[現地解説板より]
三の城への入口はちょっと派手!
その他の写真
  1. 三の城と二の城の間の堀
  2. 捨郭の先端部
訪問記[2005/06/06]今日は『北総の秘めたる遺跡』のオカちゃんの案内で、千本城神田城黒羽城大田原城佐久山城と回ってきた。最後はここ喜連川城。三の丸の手前の外郭部分と思われるところが駐車場になっていて、土産物屋、旅館がある。さらにスカイタワーなる有料の展望台が建っていていかにも観光地的だ。駐車場からは三の丸へ渡る大蔵ヶ崎橋の派手な橙色が見える上、なにやら異様な鳴き声も聞こえてくる。橋を渡った左手にあるクジャク小屋から聞こえてきたものだった。このアプローチ部分によってその先の城郭部分への期待も下がるところまで下がった。遺構は三の丸、二の丸、本丸、捨郭と並ぶ連郭式城郭。二の郭の前後に掘られた薬研堀は規模が大きい。『余湖くんのホームページ』の余湖さんも指摘しているようにこの二の丸といわれている郭が本来は本丸だったのかもしれない。アプローチ部分で下がるところまで下がった期待でしたが、城址公園の整備としては意外に普通でかえって肩すかしを食らった気分。
所在地栃木県塩谷郡喜連川町本宿字倉ヶ崎
参考書『日本城郭体系4』