足柄峠付近・・・・その2
足柄峠西坂地図 

足柄城跡
ここ足柄峠は平安時代末期頃から戦略上の要地として軍事的な施設が何度か設けられた形跡があるようです。足柄城の創築は明らかではありませんが、現在に見られる城郭遺構は小田原北条氏が甲斐の武田氏に備えて何度も増築・補強を繰り返して出来上がったものであるといいます。右の写真は足柄城跡本曲輪から見た金時山です。

足柄城跡の本曲輪は現在の足柄峠付近の最高地点で記念碑などが建てられています。ここからは西と南側方面の遠望が良く、とりわけ富士山の眺めは最高に素晴らしいところです。足柄峠からの富士山を見るのにホームページ作者は夕暮れ時が気に入っています。
ところで古い文献資料などを見ていると、足柄から見える富士山を書いたものが意外に少ないのでした。

足柄坂を越えた古代官道や中世の鎌倉往還は、『更級日記』の作者がいうように「おそろしげに暗がりわたれり」というところであって、樹林に覆われて富士山の眺めなどはなかったのかも知れません。『万葉集』に次のような歌があります。
巻3-391
鳥総立て 足柄山に舟木切り 木に伐り行きつ あたら船木を
鳥総(とぶさ)を立てて足柄山で、木こりが船に使える良い木を、ただの木として伐していった。船に使える良い木だったのに惜しいものだ。

万葉の時代には足柄山は船材に使う良質の杉の産地だったようです。

右の写真は足柄城二の曲輪から見た本曲輪の玉手ヶ池の林です。

ここでもう一つ、代表的な足柄の万葉歌を一首

巻20-4440
足柄の 八重山越えて いましなば 誰れをか君と 見つつ偲はむ

あなたが足柄の八重山を越えて行ってしまわれたなら、私どもは誰をあなたと思い偲んだらよいのでしょうか。

これは防人の歌の一首です。ここでいう「八重山」は八重に重なった山々という形容詞と捉える見方もあるようですが、しかし峠の北方に続く山波を固有な「八重山」と地名で呼んでいるそうです。その八重山と呼ばれる辺りに遊女の滝というのがあるのですが、その滝にまつわる伝説に金太郎の母であるという八重桐なる人物が出てきます。八重山と八重桐ということで何か関連があるのかと調べてみたいのですが、それらについての資料は見あたりません。

万葉歌に歌われた「足柄の八重山」は「足柄の竹の下道」と並んで後世の歌の名所として知られて行ったようです。

足柄城玉手ヶ池
右の写真は足柄城本曲輪にある「玉手ヶ池」と呼ばれる池です。この池は足柄城の井戸であったともいわれます。池の名は足柄明神姫・玉手姫からつけられたと伝わります。またこの池は日照りの年にも涸れたことがないことから、雨乞い池として干ばつ続きのときには池の水をかきまわせば必ず雨が降ると伝えられていたそうです。現在は峠の切通の工事で水量が減ってしまったようです。

足柄城の城郭遺構
足柄城の遺構は現在の県道に沿うように並ぶ五つの曲輪が中心となっています。峠側から北西に向かって本曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪、五の曲輪と続いています。これらは古道を監視する役目があったと考えられています。左の写真は五の曲輪西端の空堀と土塁です。四〜五の曲輪は一〜三の曲輪にくらべて空堀は幅や深さが大きめで、これは一〜三の曲輪よりも時代が下降するものと考えられているようです。またこの五つの曲輪以外にも人工的に加工して造られた砦や土塁、堀などが周辺に多く見られます。

上の六地蔵
左の写真は足柄城五の曲輪付近より県道を北西へ70〜80メートルほど下ったところにある「上の六地蔵」と呼ばれる石地蔵六体です。この六地蔵は舟形光背を持つ浮彫形で、年銘は見られませんが相模国側の足柄平野に住む住民が造立したものといいます。この六地蔵が並ぶ場所は上六地蔵曲輪といい足柄城の城郭の一部であるようです。そしてこの六地蔵の前の県道の南側の林中に掘割の古道跡が確認できるのです。また上の六地蔵のすぐ南側には自然石と見間違いそうな一切教供養塔が建っています。

下の六地蔵
左の写真は「下の六地蔵」と呼ばれ「上の六地蔵」から更に50〜60メートルほど下ったところにある六地蔵尊です。こちらの地蔵像は光背を持たず丸堀のもので、六体ではなく実は八体あります。以前には全ての像に首が無いときもあったようですが、現在は全ての像にお首はそろっています。台石には江戸本所横網町や本所緑町などが読まれ、年代は享保元年(1716)また同年18年(1733)で、数名の人名が刻まれています。この地蔵像は享保の頃に江戸本所の人々により両親の供養や自分たちの死後の安楽を願って立てられたものであといいます。

下の六地蔵は県道造成以前は古道の西側に東を向いて安置されていたそうです。現在下の六地蔵のすぐ北側には、舗装道路を挟むように大きな石があるのが見られます。

芭蕉句碑
右の写真は下の六地蔵の少し下にある芭蕉の句碑です。
「目にかかる 時やことさら 五月富士」
この碑は嘉永3年か4年(1850)頃に地元の俳人達が立てたたものだそうです。句は元禄7年(1694)の作で『芭蕉翁行状記』に収められているものです。句の内容は、山越えの時に曇り空で富士の姿が見えないと思っていたところ、突然雲が切れてあざやかな富士の姿が現れた。予期もしない時に目に入った山容の美しさはことさらである。という内容のものです。

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