金太郎冨士見ラインに沿って・・・2
足柄峠西坂地図 

不思議な地層
左の写真は金太郎富士見ラインが石尊松の付近で大きく数度カーブする途中のもので、舗装道路脇の削られた山側壁に不思議な地層が見られます。何が不思議かといいますと、地層に掘割底のような曲線を描いた堆積層が見られ、そこには富士山の火山灰なのか黒い土が多く見られます。地層上部は芝生状に整形されていますが、おそらくその地中にも同種の地層が埋もれているものと思われます。

写真の地層のところに見られる掘割形の部分は、大変に大きなもので、おそらく10メートル以上はあるものと思われます。この地層を発見したところは舗装道路が横切っていますが、地形的に考えて尾根の一番高いところと思われます。掘割形の地層が道のように続いているものなら、真横に削られた地層なのか、或いは斜めに削られた地層なのか、ここだけでは判断はできないようです。尾根の稜線上ということで、道路遺構の可能性もないわけではないとホームページ作者は考えました。もしかりに道路遺構であったとすれば、その規模から古代足柄路を予感させるものがあります。

地層の黒ずんだあたりを手で触ってみて硬化などしていないかを確認してみたかったのですが、腕をいっぱいに伸ばしてみてもそこまで手が届かず、地層を崩して上ってみようかとも考えましたが、それはやめました。この地層を発見したのは3年前(平成14年)のことで、現在はどのようになっているかといいますと左の写真の通りで、コンクリートの壁にすっかり覆われてしまっています。果たしてこの地層は本当に道跡なのか? 何故この場所にだけ見られたのか? もし道跡ならば峠までの尾根上の地中にはこのようなものが続いて埋もれているのか? 今は謎だけが残っているのでした。

石尊松付近からの富士山の眺望

右の写真は金太郎富士見ラインに滝沢林道(小山へ下る道)が接続するところの少し北西側で「カザフキ」(カザフキの正確な位置は地元の方に聞いてもわかりませんでした)と呼ばれる付近のものです。舗装道路脇の林の中で、古道跡に似た掘割地形を見つけ撮影したものです。この地形はかなり古そうな道跡を予感させまが、途中で消えてしまっているので道跡であるのかは何ともいえません。ただこの掘割地形のすぐ近くに別の廃道が同じ方向に延びているのが確認できるのです。もしこの写真が古道跡であるとすれば、向方ルートか矢台ルートのどちらかではないかと考えます。

大沢伝いの廃道
左の写真は金太郎富士見ラインが大沢林道に接続したところを、大沢側へしばらく進んで行き、植林記念碑が建つ付近から舗装道路と分かれた廃道を撮影したものです。これは明治期に陸軍工兵隊が敷設した道の跡と思われます。敷設された当時は竹之下から足柄山を越えて相模側へ抜ける一番広い道であったようです。現在の足柄峠の県道が開通して以後は、この道を利用する人も減り、やがて廃道になったものと思われます。谷沿いの道は尾根道と違って自然災害などによる崩壊が激しいのです。

遠見
右の写真は金太郎富士見ラインが東名富士ゴルフ場の中を通り抜けた付近の「遠見(とおみ)」と呼ばれるところです。この場所に建つ説明版によると、二条為冬卿が尊良親王の行手を望見し、無事に落ち延びた様子を確かめたところとあります。この場所では、舗装道路を挟んで道跡があることを確認できます。舗装道路の北側は藪がひどくて道跡はわかりずらいのですが確かに掘割道跡が残っています。舗装道路の南側には写真のような道跡を見ることができます。

この道跡は資料などによると足柄古道とは分類されていないようですが、麓近くの白旗神社付近から足柄峠へ向かう道の一つであったと思われます。

箱根・竹ノ下合戦の勝敗について
ここでちょっと、箱根・竹ノ下合戦の勝敗について触れてみたいと思います。作家新田次郎氏はその著書『新田義貞』の中で次のように書いています。
「その史家たちに、新田義貞を、戦さが下手な大将だと言わしめる原因の一つは箱根・竹ノ下の合戦で、箱根で勝ちながら、竹ノ下で大敗したことを指している場合が多い。結果から見ると、そういうことになるかもしれないが、実際にはどうなっているか私は真相を知りたかった。」

続けて、官軍敗北の原因を暗示させる言葉が『太平記』にあると「箱根竹下合戦ノ事」の一文を引用して
「公卿たちが武士に先を越されまいとして出過ぎた行動に出たのが敗因の一つであると指摘している。佐々木道誉と大友貞載の裏切りが最大の敗因ではあったろうが、それにしても錦の御旗の威力を過信する公卿たちの考え方は武士たちとはかなりかけ離れていたようである。」
このように語る新田次郎氏は、その公卿の一人として二条為冬卿をあげ、為冬卿は小説の中で脇屋義助が引き止めるのを押し切って地蔵堂川の中に軍を進めるシーンを描いています。

あくまでも小説なので実際の為冬卿とは違うとは思います。官軍の竹ノ下での敗戦は歴史の流れの必然なのかも知れないと考えます。

鎌倉幕府成立以降は日本の歴史は武家が主導権をにぎってきました。公卿方に荷担してしまった新田義貞はその時点で負ける運命であったのかも知れません。武士達の多くは武家を中心とした世の中を望んでいたようです。箱根・竹ノ下合戦は足利尊氏と新田義貞の最初の合戦であって、以後南北朝の動乱へと時代は進んで行きました。

白旗神社
足柄峠からの金太郎富士見ラインが麓に下りたところは所領というところです。竹之下合戦では官軍の二条為冬卿は戦に敗れ戦利あらずと見て、尊良親王を西に落ち延びさせます。自らは刀折れ矢つきた軍勢七十四名と共に自刃して果てたと伝えます。里人達は為冬卿以下の屍を手厚く埋葬し弔いました。のちに長享年間(1487)に至り為冬卿の誠忠を慕い社殿を建立したのが白旗神社であるといいます。毎年九月二十八の祭祀には為冬卿の最後の古事にならい、米粉を水にて掻き(オカラコと云う)、また粟の赤飯に萩の箸を添えて奉納するそうです。

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