第1次格闘技ブーム年表
1971年(昭和46年)

    ○週刊少年マガジンで「空手バカ一代」−原作:梶原一騎/画つのだじろうが連載開始。 極真会館総裁の大山倍達が広く世間に紹介され、極真空手が一躍有名になる。


1973年(昭和48年)

   ブルース・リー主演「燃えよドラゴン」が大ヒット。「空手バカ一代」人気と相まって空前の空手ブームが巻き起こる。


1975年(昭和50年)

 2月 ○ニューヨークの新聞がプロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリ(カシアス・クレイ)の「東洋の格闘家の挑戦を受ける」という談話を掲載した。それを見た猪木が激怒する。
 3月 ○猪木がアリに対戦要望書を送付
 6月 ○猪木が、マレーシアでの防衛戦のため日本に立ち寄ったアリに挑戦状を叩きつける。
○大木金太郎が大山倍達に挑戦表明するも、実現せず。
12月 ○極真会館によるフルコンタクトの「第1回世界大会」で、佐藤勝昭が優勝する。ウイリー・ウイリアムスも出場。


1976年(昭和51年)

 1月 ○ミュンヘン・オリンピック柔道無差別級金メダリスト、ウイリエム・ルスカが猪木への挑戦を表明する。
 2月 ○猪木とルスカによる「格闘技世界一決定戦」が行われ猪木がTKO勝ち。
○アリがベルギーでの防衛戦後、猪木との対戦を受諾。
 3月 ○テリー・ファンクがプロボクシング世界ヘビー級4位のスミスと対戦。フォール勝ち。
○ニューヨーク・プラザホテルで猪木vsアリの調印式。オープン・ルール採用が発表される。
 4月 ○全日本ボクシング協会がコミッショナーに、猪木vsアリ戦撤回要望書を提出。
 5月 ○アリがリチャード・ダンにKO勝ちし、7連続防衛に成功の後、サ・シークを招き、プロレス特訓を行う。
 6月 ○柴田国明が、アリが猪木に敗れれば、自分が挑戦すると表明。
○アリが来日し、記者会見。猪木がアリに松葉杖を贈り、挑発。
○猪木、アリが公開スパーリングを行う。猪木のスパーリングを見たアリ側が急遽ルール変更を主張。受け入れなければ試合拒否という強行姿勢で、あの変則ルールが採用されるに至った。
○猪木、アリによる「格闘技世界一決定戦」は15R引き分けに終わる。
 8月 ○ブラジルでルスカが、9年間不敗のバーリ・トゥード王者イワン・ゴメスと対戦し勝利する。
12月 ○猪木がパキスタンで当地の英雄アクラム・ペールワンと対戦。アクラムの腕を折った猪木が勝利。


1977年(昭和52年)

 2月 ○猪木が、ニューヨーク・タイムス紙上でアリとの再戦をアピール。
 4月 ○アンドレ・ザ・ジャイアントがアリに挑戦を表明。
 6月 ○猪木とアリが再戦に合意。アリが再戦を受ける付帯条件を提示。
 1.マーシャルアーツ世界スーパーヘビー級王者ザ・モンスターマン・エベレット・エディの
   挑戦を受けること
 2.10月にヘビー級プロボクサーと対戦し試合VTRを提出すること
○マーシャルアーツ世界ライト級王者ベニー・ユキーデが日本の格闘家の挑戦を受けると表明。
 7月 ○目白ジムのキックボクサー、国尾国光がユキーデへの挑戦を表明。
 8月 ○猪木とモンスターマンが対戦、猪木のKO勝ち。同日、ユキーデが代打出場の鈴木勝幸にKO 勝ちし、一躍有名に。
○猪木の対戦相手にプロボクシング前ヘビー級世界王者のジョージ・フォアマンが内定。
○世界格闘技協会(WMAの前身)が発足。スター候補生として佐山サトル(初代タイガーマスク)が 目白ジムでトレーニングを開始。
 9月 ○モントリオール・オリンピック柔道銅メダリスト、アレン・J・コージ(バットニュース・アレン )がプロ転向。坂口征二との対戦が決定。
10月 ○猪木が、ギャラの問題でフォアマンから変更になったプロボクサーのチャック・ウエップナーに勝利。同日、柔道ジャケットマッチで坂口がアレンに勝利。
11月 ○世界格闘技協会設立記念試合として、全日本キックと全米マーシャルアーツの全面対抗戦が開催される。全日本キックの圧勝。この大会で佐山が全米マーシャルアーツのマーク・コステロと対戦。無理な減量とキックルールのために一方的な判定負け。
12月 ○極真会館ニューヨーク支部のウイリー・ウイリアムスが「30秒で猪木をKOする」と発言し、非公式に猪木への挑戦を表明。
○ルスカとアレンが「格闘技プロ柔道世界一戦」を行い、ルスカが勝利。


1978年(昭和53年)

 2月 ○東京オリンピック柔道無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンクがプロ転向。全日本プロレスのジャンボ鶴田と対戦し、鶴田が反則勝ち。
○アリがレオン・スピンクスに敗れ、王座転落。猪木との再戦が白紙に。
○藤原敏男(目白ジム改め新格闘術所属)が本場ムエタイで日本人として初のチャンピオンとなる快挙を達成。
 4月 ○アメリカのフィラデルフィアで「格闘技オリンピック」開催。ストロング小林がアレンに勝利。坂口がモンスターマンにKO負け、猪木はザ・ランバージャックにKO勝ち。
○猪木が世界プロレス統一構想を発表、初めにヨーロッパの帝王ローラン・ボックとの対戦を発表。
 6月 ○猪木がモンスターマンとの再戦に勝利。同日、坂口はザ・ランバージャックにKO勝ち。
○極真会館北米支部長、大山茂が帰国。ウイリーの猪木への挑戦を正式発表する。
 8月 ○新格闘術の大会で、それまで無敗だったユキーデがムエタイのプライユットシーソンポップに判定負け。
 9月 ○アリがスピンクスとの再戦に勝ち、3度目の王座返り咲き。猪木との再戦が再浮上。
○ユキーデが藤原敏男との対戦を発熱のためキャンセル。格闘技ファンを失望させた。
11月 ○猪木、梶原一騎、黒崎健時(新格闘術主宰)による共同記者会見で、翌年4月に後楽園球場で開催予定の「格闘技プレオリンピック」での猪木対ウイリー戦を発表。
猪木が、ローラン・ボックの主催する「欧州世界選手権シリーズ」に参戦 する。
12月 ○ニューヨークで猪木がWWF認定「格闘技世界ヘビー級選手権」のベルトを贈られる。


1979年(昭和54年)

 1月 ○ウガンダ共和国のアミン大統領との異種格闘技戦を発表。
 2月 ○ウガンダで政変が勃発、アミン王朝の崩壊で空前の格闘技戦は実現せず。
○猪木と映画「四角いジャングル」で話題となった謎の空手家ミスターXとの異種格闘技戦。Xのあまりの不甲斐なさに偽物説が流れる。
 4月 ○猪木が、レフトフック・デイトン(カンフー、ボディビル)との「格闘技世界一決定戦」に6RTKO勝ち。
○「キック(ボクシング)なんていうのはシャモのケンカ」と発言したガッツ石松に対して、藤原敏男が挑戦表明。
 5月 ○ウイリー・ウイリアムスが来日。新格闘術黒崎道場で猪木戦に向け特訓。
 6月 ○猪木対ウイリー戦は10月15日、日本武道館で開催と発表される。
○猪木がパキスタンでジュベール・ペールワン(アクラムの甥)と対戦。引き分けに終わる。
 8月 ○猪木、ウイリーが同席による記者会見。試合は翌年2月と発表。
10月 ○猪木に果たし合いを迫っていた空手の水谷征夫が猪木と和解。 寛水流空手が設立さる。
11月 ○ウイリーが極真空手第2回世界大会に出場。準決勝で三瓶啓二に敗れる。
12月 ○猪木がキム・クロケード(空手・現職警官)との「格闘技世界一決定戦」に初公開の延髄斬りで圧勝。同日に行われた坂口とルスカの「プロ柔道世界一戦」は引き分け。


1980年(昭和55年)

 1月 ○雑誌GOROに掲載された極真会館幹部による座談会の記事で「ウイリーのパンチ一発で猪木は死んじゃうよ」「猪木はもうトシ」「猪木のアリキックなど極真と比べたら子供だまし」といった発言に新日本が激怒。謝罪しなければウイリー戦を白紙撤回及び極真空手世界王者の中村誠と藤原喜明、荒川真、山本小鉄の中の1人との対戦を要求。最終的には和解したが、両団体にしこりを残し、猪木対ウイリー戦は新日本対極真といった様相の喧嘩マッチとなった。
 2月 ○猪木対ウイリー戦の実現により極真会館は大山茂北米支部長の禁足処分とウイリーの破門を発表。
○ついに猪木対ウイリーの「格闘技世界一決定戦」が開催。猪木は助骨にひびが入り、ウイリーは左腕靭帯損傷でドクターストップの痛み分け。

猪木の格闘技路線に終止符が打たれ、第1次格闘技ブームも幕を閉じた。