寛水流空手

 「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」という猪木の発言に呼応して、鎖釜の達人であり「最後の武道空手家」「東海の殺人拳」と呼ばれた水谷征夫(故人)がノールールによる死を賭けた果たし合いを挑んだ。
 結局2人は和解し、互いの友情と尊敬の証として名前の一文字づつを取って名付けた「寛水流空手」を設立した。
 寛水流空手は現在も名古屋に本拠地を置き、発展中である。平成維震軍の後藤達俊は、この道場の出身である。