本名=岸田國士(きしだ・くにお)
明治23年11月2日—昭和29年3月5日
享年63歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園18区1種10側1番
劇作家・小説家。東京府生。東京帝国大学中退。大正8年渡仏、演劇研究のためソルボンヌ大学に学ぶ。帰国後、山本有三の『演劇新潮』に戯曲『古い玩具』『チロルの秋』『ぶらんこ』などを発表。昭和12年久保田万太郎らと劇団「文学座」を結成。戯曲『紙風船』『牛山ホテル』の他、小説『落葉日記』『暖流』などがある。

「ね、母さま、生きて行くつてことはそんなにむづかしいことぢやないわ、どんな生き方でもよければ……あたしたちはまさかの場合ぢたばたするのだけはよしませうね。明日から食べられないつていふ日が来ても、ぢつと我慢をして誰にも助けを求めたりなんかしないのよ。二人がある日、乾干しになって死んでゐるのを見て---そんなに困つてたのかつて人が云ふやうにしませうね。母さまだってまだお若いんだし、苦労でやつれておしまひになるのあたしいやだわ。今ならまだ二人とも美しいまま死ねるからいいわ。働きたくないものは生きるなつていふ掟があるとすれば、まつたくそのとおりにしたいわねえ、働かないから死ぬつていふの、なかなか立派だとお思ひにならない?」
(暖 流)
岸田國士には二人の娘があった。長女の詩人で童話作家の岸田衿子、次女で女優の岸田今日子。
——昭和27年3月、脳神経麻痺をおこして入院したことがあったが、その2年後の29年、文学座三月公演『どん底』に全精力を注ぎ込んだ岸田は、3月4日、最後の舞台稽古の幕間に脳卒中で倒れ、娘今日子に軽い調子で言った。〈死ぬ前にはこうなるものさ。ルカのせりふにあるじゃないか。死ぬ前にはこうなるものさ〉——。
冷たい雨の中、寝台車で一ツ橋講堂から運び出された岸田は、翌5日早朝、帰らぬ人となった
。
——岸田の業績をたたえて、若手劇作家の育成を目的に『白水社』が主催、〈演劇界の芥川賞〉という異名がある岸田戯曲賞が設けられている。
昭和29年3月5日午前6時32分に亡くなった岸田國士の告別式は、8日、岸田が創立に関わった『文学座』葬によって無宗教で執り行われ、武蔵野のはずれにある多磨霊園の両親と昭和17年に死別した妻秋子が眠る墓石の下に葬られた。
黒い玉石に影を重ねて、平面的に据えられた矩形石面に穏やかな春の陽は一心に集められている。この虚無的な庭の碑には一刻の文字も見えない。塋域の一隅に樹翳りを置き、背後と右側面を囲んだ大谷石塀に嵌め込まれた石板にその名があるのみであった。
後年、ここに娘の岸田今日子(平成18年12月17日没)と、岸田衿子(平成23年4月7日没)の名も刻み込まれることになった。
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