本名=金 達寿(キム・タルス/キムダルス)
大正8年11月27日(太陰暦)・大正9年1月17日(新暦)—平成9年5月24日
享年77歳
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園文學者之墓
小説家。朝鮮慶尚南道生。日本大学卒。昭和5年日本に移住。戦後日本語雑誌『民主朝鮮』の編集などを経て作家活動に入り、雑誌『新日本文学』などに拠って在日朝鮮人文学の第一人者となった。『後裔の街』『玄界灘』『故国の人』『密航者』などがある。


公子。——彼女にとっては、そういうことは夢にさえ想像もできないであろう。そして出身校をきかれて、「N大学です」とこともなくいった自分。もし〝告白〟というものをするのであったら、彼の告白はそこまでゆかなけれはならないはずのものであった。しかし彼は、そのことにある反発をももっていたから、とうていそこまでの〝勇気〟はでないのであった。で、彼は、彼女がその天性の明るさをもって明るくなればなるほど、それに比例して、彼の方はますます暗く、彼女を美しいと思えば、また、それだけ卑屈になっていった。
「朝鮮の人だって、いまはもう日本人でしょう」
と不用意に、しかしまったく好意のためにのみいった彼女の一言のために、彼は三日も四日も苦しんだ。〈おれは日本人か?>
それはたとい何人であってもいい。かりに日本人となったっていい。しかし、その出身をしめす民族の、おかれた位眞が間題なのだ。それは一対一の結合ではない。何よりもその証拠には、それはすでに同情ではないか。そうでなければ、彼女から、そんなことばはでないのだ。
やがて、破綻がきた。それは一方にとっては、まったく破綻などを予想したものではないだけに、それだけまた、さけることのできない破綻であった。
(玄界灘)
日本統治下の南部朝鮮慶尚南道で生まれた金達寿。昭和5年、10歳のとき兄声寿につれられて日本に渡航、品川駅に降り立ってからの人生は差別の道、苦難の連続であった。納豆売り、電球染色工場、風呂屋の釜焚き、映写技師見習い、屑屋などを生活の糧として悪戦苦闘、苦学を続け、『文藝首都』同人にもなった。本格的な文学活動は戦後、『民主朝鮮』に連載した『後裔の街』からで、一貫して在日朝鮮人とはなんであるかをテーマにしていた。そうしてそれは朝鮮人とはなにか、人間とはなにであるのかという問いにまで徹底していくのだったが、平成9年1月17日、腹痛で阿佐ヶ谷河北病院に入院、腎盂炎、肝硬変と診断され2月に退院したものの4月29日、中野の共立病院に再入院、5月24日、肝不全のため死去した。
金達寿、大沢達雄、金光淳、金山忠太郎、朴永泰、孫仁章、金文殊、白仁、これらはすべて彼の名前であり、ペンネームでもある。激動の時代に生きた在日朝鮮人であるが故、時と場合によって日本社会で生きて行くための智恵でもあったのだろうが、孤独な闘いの中から生まれてきた金達寿という在日朝鮮人作家の根源的な問題を含んでいるにちがいないと思いながら、春まだ浅い霊園の大路を上り上り、最奥の白樺林の中を歩いていてようやくここまできた。日本文藝家協会によって建立され、小さな石柱を屏風状に巡らせた「文學者之墓」は第一期から第八期まで九百名近くの文学者がそれぞれに筆名、代表作、没年月日、享年を刻して納まっていて、金達寿の名も『玄界灘』を代表作として第六期に刻まれている。
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