1964.1.12のザンジバル革命まで(2/2)

---1964年のザンジバル革命は、ルンペンのものか前衛のものか?---

A.M.Babu


荒井真一訳


From
A.M.Babu "The 1964 Revolution:Lumpen or Vanguard?"
in Chapter 8,"Zanzibar Under Colonial Rule",
edited by Abdul Sheriff&Ed Ferguson,
The Historical Association of Tanzania&Ohio University Press,1991


1964.1.12のザンジバル革命まで(1/2)より
大部分の左派はこの具体的な状況についての分析に影響を受けた。ザンジバルの都市労働者は古典的な意味での無産階級ではなかった。彼らは少しの財産を持ったプチブルと言うべきものだった。ほとんどのものは本土に農地を所有していた。そして彼らがザンジバルで得た賃金を、彼らの農地で食料や場合によっては換金作物を栽培する人間の雇用に使っていた。彼らは生活の糧のために彼らの労働を切り売りする古典的な貧しい小作農ではなく、つまり準無産階級でもなかった。彼らは本土の農地を改善しもっとお金を得るためにザンジバルに働きに来ていた。願わくば、小規模な農場主になろうとも考えていた。この熱心に農場主になろうとする連中はとても不安定だったし、無産階級の意識と、階級連帯の向上に何か重要な役割を果たすとは思われていなかった。彼らがASPを支持したのは自己保身のためであり、彼らの民族主義は政治的というよりは、人種的なものであった。彼らは主にTANUに忠実だった。そしてそのついでにASPを支持していた。

例えば、彼らにASPの指導者が属する商人階級が彼らを搾取しているという事を納得させるのは難しかった。彼らはとても従順だったので、ザンジバルの労働者と雇用者の対立の場面では、どんなところでもしばしばスト破りに回った。こういうわけだったから、左派は彼らとの接触で彼らとの全くの同一視を受けることを避けるように用心深くしなければならなかった。しかし同時に労働者の国際連帯と、無産階級の政治思想を説明するよう努力しなければならなかった。左派は彼らに「異なった状態であるため、ザンジバルでの闘争は本土とは違った方針を用いざるを得ないが、労働者階級の闘争は本土も、ここザンジバルも変わらないこと」を説いた。言い換えれば、左派は彼らに階級闘争の理論と実践を教育した。

一方でザンジバル出身の少数派の労働者が存在した。彼らは本土の連中のように農地を所有していたが、彼らは真の準無産階級といえる者たちだった。本土の連中とは違って、彼らは自分たちが雇っている農夫に賃金を払うために、もっとお金を求めて働いているのではなく、彼ら農地では生活できなくなって街中に出てこざる得なくなっていた。そして、絶えず仕事を本土からの労働者に奪われるという脅威にさらされていたから、本土の労働者に対してほとんど病的な憎悪を抱いていた。この敵対は彼らを反動思想家の政治宣伝に言いくるめやすくしていた。左派にとってこの状況は二重に危険なものであった。一方で、労働者が熱狂的な愛国主義によって分断されれば、ザンジバル出身の労働者がZNP/ZPPPの反動指導力になすがままになってしまい、危険な政治的状況を引き起こすだろう。その一方で、本土からの移民労働者がASPと商人の連合にもっと引き寄せられれてしまうだろう。集中的な政治思想の大衆教育のみがこの二つの労働者の集団を上記の政治集団の手から引き離すことを可能にする。

もう一つ、この特別な転機に政治思想上の闘争を重要で緊急なものにした要因は、ZNPを導き、それに堅固な基盤を与えていた小作農大衆のあり方であった。この大多数派は、ZNP党内で起こっていて、左派に問題を突きつけている、党内闘争の重苦しい嵐雲に気づいてはいなかった。彼らがまだ準備できていないところに、党内闘争をぶちまけてしまうことは、その小作農たちを混乱させ、ZNPへの支持基盤を弱くするばかりか、謀略のために全ての問題を全面に押し出されてしまわれ、植民地主義者の思うとおりにされてしまう事になるだろう。しかし同時に小作農に現在起こっていることを隠したままにしておくことも、等しくまずかった。彼らには何が起こっているかを知る権利があっただけではなく、ひとたび必然的な大っぴらな闘争が起こったときに、小作農が驚いて、そこから逃げ出さないようにするのも革命にとって重要なことだったからである。

このように左派が大きな政治思想の闘争に気を引き締めている一方で、ZNP内部での彼らの政治的立場は弱いものになっていた。一般的な政治状況は悪化し、そして人々の関係はますますむき出しの人種的区別の調子を帯びてきていた。階級闘争、政治思想といった、政治を構成する基本は問題にされなくなり、人種的憎しみがその代わりになっていった。この悪化はASPに指導者不在だけではなく、絶望感を残した分裂の結果だった。分裂によって動揺させられ、衝撃を受けた指導力の不在は、ASPの方向感覚をなくしてしまった。そして当然党の支持者に対しての積極的な指導は出来なくなっていた。絶望感と無責任さは党内においての影響力のみを問題にしていった。こういった連中は大体が全ての否定的属性を備えたルンペン無産階級であり、彼らは政治的論争と個人的悪口を取り違えて、ASPを最低の政治状況に導いた。これはZNP内部にも同様な反応を引き起こさせ、この時から政治は本当に「汚い」ものになっていった。ZNPの反動勢力は、いまやASP新指導部によって公然と支持された民族的暴動への恐れで、一般ZNP党員を煽ることで党内の位置を優位にした。人種主義は、この状況の中で生き残るための本能のようにますます感じられたので、重大な問題となった。また人種主義を進んだ観点からたいした問題ではないと思っていた人々や、政治思想的な問題は一時的に政治とは無関係なものになってしまった。

この状況は左派を弱めただけでなく、 とても難しい立場にした。アクラ会議以後の結果ということから、左派はASPに同情していたが、今ASPがとりつつある人種的な問題での転換を許すことが出来なかった。同様にZNP内部での反動的傾向も許せなかった。悪化する状況の直接の結果として起きた1961年の血の騒動は、ASPに譲歩する左派というレッテルで、左派の立場をますます悪くした。 そうこうするうち、ZPPPはこの混乱した状況をますます混乱させようとした。ASPへの違約を正当化するために、ZPPPは反-本土移民の厳しい非難をはじめた。1961年の選挙での手詰まりはどのような連合をも望むという彼らの決定的な立場をまたとらせた。そしてZPPPの大部分がZNPとともに立つことを決めたとき、彼らは自分たちの立場を反アフリカ人ではなく、反-本土移民で行こうと企てた。このZPPPの方針をZNPの右派が採用したとき、口汚い罵りあいとともに、非常に緊張した状態が本土出身者とザンジバル出身者の間に形成された。

このZNPとZPPPの同盟は、両党の右派の利害を優先した結合で、両者はお互い利用できるところを利用し自党の支配を確立しようとたんたんとしていた。ASPがアクラ宣言で半ば強制的に独立の方針を認めさせられたとき、植民地主義者がASPを弱めるためにZPPPを作ったのだった。一方でZPPPは、ZNPを弱体化するためにも使われた。ZNPの右派との連合で右派に左派を政治的に無能にさせる力を与えた。植民地主義者のこの動きは、世界的に重要な立場に立ち社会主義国に先導され、世界的な反帝国主義運動の一環の中に明確に自らをおいた東アフリカ唯一の政治的な党(ZNP)を破壊するためのものだった。

この状況において左派は降参しないで、党内での闘争を自らの壊滅を避けるために、先に進んだ。左派は進歩的諸国や国際的な政治組織や人々から党が世界的な信望を得ているのは、党の指導者のへの個人的な人望ではなく、党の反帝国主義的立場が理由だということを強調した。現在のこの地位が政治的妥協によって薄められることになれば、現在の信望は軽蔑に変わってしまうだろう。こう言って、左派はZPPPとの選挙協力を続ける限りは、特にその狂信的な反本土移民的、親帝国主義態度のZPPPの反動性から原則的に距離を置くべきだと主張した。選挙共闘における先輩として、ZNPは政策を最優先することを主張するべきだ、と主張した。

左派は、独立が接近すれば、この明快な立場が何千という好戦的若者を鼓舞し、彼らは党を成功させ、党の利益を守るために再び党の元に結集するだろうと、強調した。古き進歩的な党の立場を復活させる気概を見せるためには、1963年の独立直前選挙の前までに残っている短い期間に、党が大衆の支持を得ていることをはっきり示すために、よく知られた革新的な候補者を安全な選挙区で任命するべきである。そして、党は自党の全ての重要な問題についての立場を曖昧ではなく述べた選挙方針を出版すべきである。その重要な問題とは、土地問題、新国家における経済の優先、労働者階級の役割、労働者階級の新国家での位置づけ、党の社会的哲学の提示である。そして以下の公約を掲げるべきである。来るべき選挙でZNP/ZPPPの同盟が勝利した暁には、直ちにASPを招いて、PAFMECAで宣言されアクラ宣言に添う形で、反帝国主義の国民政府を形成するだろう。

この左派の状況への査定が右派によって論争された。「ZPPPとの同盟はザンジバルの政治の歴史にとって重要な意味がある。というのはそれが本当のザンジバル人の初めての集結である」という事の賛否の議論を左派に勧告されても右派は拒否していた。この近視眼的な考えによれば、選挙が終わりZNP/ZPPPの連立政権の勝利が確定すれば、ASPの一般党員の大部分、特に本当のザンジバル人はZNP/ZPPPの同盟に渡ってきて、結果的にASPは崩壊するだろうということだった。右派は勝利してしまったようだった。左派は党がすでに右派が元に戻ることはないところまで来てしまったと感じた。

左派にとって、こういう党と関わりを持ち続けることは国際的にも国内的にも信用をなくすことだった。ロンドンのランカスターハウスで行われる来るべき憲法会議への委任を見出す目的もあった、選挙前の党大会で、左派は自らが党内でなんの影響力も持ち得なくなったので、党を辞めるという公式宣言をすることに決めた。

その同じ午後、ウンマ党(Umma=大衆)は結成され、かつてない反響を起こした。全ての既成政党に意気消沈しはじめ、政治状況にうんざりし魔法を解かれはじめていた若者は即座に新しい熱狂に満たされた。結成の次の日に行われた政治集会には何千人もの若者が集まった。党結成の一週間で多くの若者が党員章を持つために登録を行った。三大政党は若者たちが脱党し、彼らの支持を失ったので、この出来事に動揺した。状況はとんでもない変革の予感に満たされた。

ウンマ党とザンジバル革命
1963年の選挙とその結果としての自治政府の憲法の後で、ZNP/ZPPPは完全な独立を除いたほとんどの権限を持った政府を作った(植民地主義者はまだ防衛、外交問題、財政問題といった基本方針を握っていたが)。この新政府こそが多くの活動家、左翼を拘留し、刑務所にぶち込んだ。その中にはZNP書記長も含まれていた。

国が独立を得たとき、新しい法律のもと抑圧への欲望がどんどん増えていった。新政府のはじめてのこの兆候は議会に提出された2議案だった。それはどのような政党をも非合法化し、国家にとって厄介で危険だと思われる新聞を禁止する力を目指していた。この議案が明らかに狙っていたのはウンマ党であり、その新聞であった。

この議案が成立しないように、議会内での公式の野党だったASPとウンマ党は戦術的同盟をくんだ。そして党はザンジバル報道者連盟の結成を促した。これは主にこの議案への議会外の大衆を結集し活発な反対を仕掛けるためだった。この動きは党とASPとの間に、特に両党の若者の中に密接な関係を作り出した。

しかしながら政府はこの2案を押し通し、法律は成立した。1964年の1月6日をもってウンマ党は非合法化されることになった。党の日刊紙は禁止され、党の全ての資産、タイプライター、複写機等は政府によって没収された。別の言葉で言えば、ZNP/ZPPPの指導層は彼らが席を譲ってもらい、人々が長い間勇敢に闘い続けてきた植民地主義者よりもいっそう無情だということを証明した。また反植民地主義を戦った人々の一番の目的であったものにも関わらず、政府は公正さをもとにもどす気も、民主主義を導入する気もないことを明らかにした。新政府は人々を植民地主義の呪縛から解放するのではなく、ますます人々への束縛を広げ、それを強化していった。

党を禁止することに加えて、新政府は指導者に対する「反逆罪」の適用を準備していた。それは死刑も含んでいた。こういった新政府の抑圧的な体制は即座に国中に知れわたり、ASP支持者を中心にして、人々の間に失望感と危機感が広まった。

自らの反-本土的な支持者をなだめるために、新政府は全ての本土出身の警官は可能な限り早くその職務を解かれるべきだという、命令を出した。この不当な出来事が、人々の中に蔓延していた危険だという気持ちをますます激化させた。そして、政府に忠誠を誓うべき警察官の間にも蔓延をはじめた。警官たちは政府を信じなくなったばかりか、政府に対して潜在的に敵対するようになった。これが独立前、独立後を通してZNPが犯した三番目の、そして最後の主要な誤りで、これが致命的なものになった。

彼らが治める人々の半分が疎外され、反対しているような政府は長い期間上手くいくはずはないものだ。特に新しく独立し、緊急の課題が国の統一を目指すような国にとっては。政府が、国家の調和に近づくような、植民地後の状況を模索せずに、自分の権力を人々の解放にではなく抑圧に使っているように見える国はまずい。政府は自らの脆弱な立場を強くするために国中を恐怖におとしめているように見えた。こうしてウンマ党の非合法化のたった1週間後に政府は転倒された。その時多くの人はその政府の支持者までもが、その転倒を「それに値することがなされた」と思ったのだった。古い格言曰く、「力をもって制するものは、力によって破られる」だった。

1964年のZNP/ZPPPの連立政権を転覆させたザンジバルの反乱は失業し、失望した都市の青年ASP党員によって、まさに構想され、計画され、実行されたのであった。彼らはASPの指導力の脆弱化と、彼らが自分たちの正当な勝利を盗んだ不正な選挙と考えた選挙に怒っていた。というのは連立した党の合計の得票数はASPを下回るのに、議会では逆に多くの議席を得ていたためである。この事は、全ての党が係わったランカスター・ハウスでの憲法会議の合意であらかじめ予想されていた。というのは、この合意での投票のやり方は選挙民の意思に比例するというよりは、選挙区が優先されていたからであった。

言い換えれば、この反乱はルンペン・プロレタリアートのものであり、その限界と否定的側面を持っていた。ルンペンたちの頭目であるジョン・オケロ(John Okello)は最初単にザンジバルの街に放火し、最大限の社会的動揺を与えようと考えていた。彼はASPの青年連盟の怒り、失望し、大胆になった連中を率いていた。しかし、後に賢い助言を聞き入れ、その騒動を、現体制を転覆することを第一に目的とする政治的反乱へと変えていった。反乱を行うのはたった一日だけであった。合意よりも専政を選んだ、尊大で横柄すぎる政府に対して。

何人かのウンマ党の党員は事前に何かが起こりつつあることに気づいていたし、国家の機密機関を含む多くの人も当然気づいていた。しかし、多くの人は差し迫った出来事についてそっと知らされただけだった。しかしながらウンマ党もその指導者も、反乱組織に対しても、その実行についても何も関与していなかった。彼らはこの混乱し、まずくなっている状況を激化させないために、この反乱への傾向に関与しようと考えた。

ウンマ党は必要とされた指導力と、技能、訓練されたプロの革命家たち、国家の非常事態にいつでも対応できる党の綱領を持っていた。反乱はそういう状況(国家の非常事態)だった。党は幹部を万一の場合に備えさせ、油断がないようにさせていた。攻撃であれ防御であれ。抵抗であれ、攻撃であれ。しかし、それよりもウンマ党はプロレタリアートの世界的な革命の見通しを持った政治思想をもとに活動していた。党はザンジバルの政治の「広範な左翼」を代表していた。そしてこの国の全ての抑圧された人々の信用を得ていた。彼らの中には、ASPはもちろんの事、ZNP、ZPPPの一般党員もいた。だからウンマ党はこのようにして、「人民の自然な指導者」と考えられていた。ウンマ党は人民自身の指導力の象徴になっていた。

このようにウンマ党が反乱の決定的瞬間に関与したとき、それまでのたんなる反乱が、革命的な反乱へと変容していった。それは反乱の目的を、狭く、ルンペン的で、反アラブ、反特権、これが嫌だ、あれが嫌だ的な事から、広範囲の政治・経済・社会的目的を持った真に革命的なものへと推し広げた。これらの目的はそのころこの国の客観的状況という与えられた狭い地平という、不十分な部分に限られてはいたものの、ウンマ党が係わった後に革命が採用した反帝国主義的立場は革命的社会的改革の巨大な展望を開いた。ウンマ党の戦闘員の関与はすぐにこの革命を大衆化し、ZPPP/ZNPの一般党員までも含んだ全ての党の人民からの圧倒的な支持を得た。

この自然発生的大衆の支持はこの反乱から、1962年の暴動以来常に存在した脅威、民族間、政党間の流血の抗争を最小限に抑えた。この重要なときに民族間の抗争が起これば、永続する人種の緊張を作り出し、ほとんど壊滅的な結果を引き起こしたことだっただろう。ウンマ党の関与はこの出来事が引き起こしたかもしれない、壊滅的状況を回避するのに役立った。この反乱は西側諸国の報道や、アラブ王国によって、広範囲な「アラブ人の大虐殺」という事で、敵対的な大がかりな政治宣伝がなされたが、オケロのローカルラジオでの荒っぽい数千人の犠牲者が出たという報告は、彼が聴取者を恐怖におとしめようとしてやったというのが、真実なのだ。本当の犠牲者は最小限に抑えられた。ペンバ島ではどんな暴力沙汰も起きなかった。ザンジバル本島でのほとんどの犠牲者は個人的報復によって起こった。そして、報復した犯人は捕まえられれば革命の権威によって、厳しく罰せられた。

ASPとウンマ党の指導者からなる新しい革命政府がすぐに作られた。革命評議会が国を指導する機関になった。ASPは自前の経済・政治計画を持っていなかったので、評議会はウンマ党の最小限の計画を採用した。健康、教育、土地改良、社会福祉等についての党の政策がすぐに実行された。それらは今でも、ザンジバル政府の政策の中で輝かしく一般的な部分である。

ウンマ党の関与が反乱を社会的な革命に転換するのを手伝ったといっても、当時の客観的情勢は、重大で必然的な社会革命にたいして十分成熟していたとは言えなかった。言葉を換えれば、革命の物質的な基盤は未だ成立していなかった。革命それ自身は自然で混沌としており、中央で調整されることもなく、革命後の目的もなかった。評議会の指導的メンバーだったオケロはラジオと「恋に落ち」、国中に向かってひっきりなしに政府が何を計画し、やろうとしているのかについて、混乱を増やすだけの発言を繰り返した。そして混乱を増幅する脅迫をいくつか作り出した。ASPは1963年の選挙の敗北以後自信をなくし、指導力を失っていたが、今や政策や権威ある指導力の欠如だけでなく、カルメ派閥と知識人派との間に全てが熱狂し、軋轢を生じさせる、重大な党内抗争を行っていることも、露呈させていた。この事は、国家の問題と、状況が今いっそう混沌としたものになることを回避する事への責任を、全てウンマ党とその指導者の手に委ねた 。

党は政府の省庁を作り、怯えている官僚を安心させ、外国政府に新政府を承認させた。他のアフリカ諸国が西ドイツ政府に押しつけられた、いわゆるホルスタイン教書で脅迫されていたにもかかわらず、ザンジバルはドイツ民主共和国(旧東ドイツ)に完全な外交的立場を与えたアフリカで最初の国になった。また他の国がアメリカの脅威のために北朝鮮の承認をためらっているときに、北朝鮮を承認した。ウンマ党は社会主義国やいわゆる非同盟諸国だけではなく、西側の「今までの」貿易相手国とも、新しい貿易戦略を持って貿易を行った。また1964年ジュネーブでの初の UNCATAD会議でもザンジバルの代表がキューバと協力して指導的役割を担った。そしてそれは「77グループ」の結成に寄与した。

内政面では、ウンマ党は警察権力をタンガニーカ政府との協力で再組織した。また人民解放軍を組織し、革命の新兵を訓練した。党は国家予算を使うような特権を廃止した。つまり、上級公務員や大臣のファーストクラス使用の旅行の禁止、いかなる政府高官といえどもどんな特権も得られなかった(カルメでさえも自分の車を自分で運転し、護衛をつけなかったし、車に旗もつけていなかったし、独立した植民地諸国ではよく見られた壮麗な装飾品も身に着けなかった)。全ては平等で「戦友」なだけだった。

国営ラジオはオケロから結局解放された。ラジオ報道の専門家のウンマ党幹部は、政治的で専門家的な指導をラジオ局で引き継いだ。ウンマ党の軍の幹部が秩序の維持のために街を巡回した。彼らは銀行や商店で略奪を働いたオケロ派の武装ギャング団と戦うことさえあった。彼らは無防備な女性や、攻撃されやすい人々に嫌がらせを行っていた。学校はすぐに再開され、ウンマ党の幹部は学校から遠くに住んでいる学生を学校まで護衛した。

国営ラジオは、市民の中心的教育機関となった。つまり、市民の責任と革命の成熟化を図るための、大衆と国家の関係に対する疑問に答え、特に地方のレベルでの人民自身の指導力の強化、外国の侵略への防衛、そして自警団の形成と、人民防衛軍の創設を奨励した。国際問題ではラジオは徹底した反帝国主義の立場をとった。ラジオは近隣諸国のいくつかと共謀したアメリカ合衆国の迫りつつある干渉を警告した。東アフリカ諸国政府に猜疑心と恐れをもたらす、帝国主義者の陰謀を暴露して人民に示した。

ウンマ党は革命評議会で代理権を持ち、発言権が大きくなった。そして革命憲法を作るために法律の専門家を呼び、助言を求めたり、経済の専門家を呼び短期的・長期的経済戦略の助言を求めた。当然植民地経済から独立国家経済への脱皮計画もそれは含んでいた。貿易を通じて経済の構造を変革する貿易戦略を工夫し、経済発展の新しいあり方を、特に国内の市場を拡大、発展することで求めた。 革命政府は進歩的国家との同盟と、反動諸国からの隔絶というウンマ党の「革命外交」政策を支持した。つまり、社会主義国との友愛的な関係と、帝国主義陣営との用心深い関係を採用した。政府は解放運動の支持を明確にし、それは軍隊の訓練にも及んだ。それはアフリカ内での運動だけではなく、全ての解放運動を射程に入れていた。例えば南イエメン、Dhufar、ベトナム、パレスチナ、アラブの闘いを当然支持した。

党幹部はまた、人民が自らの指導力を持てるようになるための教育の革命的闘いにほとんど独力で着手した。そして革命的連帯の重要な要素として政治思想上での同盟を促進し、対人関係上の対立を最小限にするようにしてASPの党内権力闘争を終結させようとした。革命評議会は東及び中央アフリカの革命の高まりの灯台のようになった。そして反動的で親帝国主義的陣営からはこの地域で「もっとも危険で破壊的な」影響力を持つものとみなされた。ウンマ党は全ての背後に存在する「悪魔の精神」とみなされた。

ウンマ党が(革命で)行ったことによって、敵からも味方からもザンジバル革命がキューバ革命と同じ重要性と衝撃力を持つ社会主義革命と受けとめられるようになった。ザンジバルは「アフリカのキューバ」といわれ、そのように扱われるようになった。帝国主義陣営はザンジバルの「赤さ加減」を査定する際に、意見が分かれた。あるものはザンジバルは「親モスクワ」と言い、あるものは「親北京」だと言った。しかし、その時期ソマリアのモガデシオを訪れた周恩来は、彼の有名な「アフリカ革命の時期が成熟した」という演説の後で、「中国はザンジバル革命に全幅の信頼を置きたいとは思っていない」と語った。

東アフリカの政治的指導者も「共産主義は怖い」キャンペーンに影響された。そして彼らの多くはASPとウンマ党の間に楔を打ち込もうとするアメリカ合衆国の謀略に荷担した。ASPの副党首のAbdulla Kassim Hangaに率いられる何人かは「親モスクワ」派ではあったけれども、カルメは真性の「アフリカ民族主義者」、「非同盟」の人として選び出されたのだった。アメリカ合衆国に影響を受けた東アフリカの政治家たちはある委員会を作った。その委員会はその頃ケニヤの副大統領Oginga Odingaを議長にし、タンガニーカの外務大臣代理のWalwaを書記官とし、特にカルメを共産主義陣営から取り戻すために組織された。この委員会はザンジバル革命の兵列を分断するためにとても反動的な報告を公表した。

革命評議会がアメリカ合衆国大使を国内問題に干渉する工作をしていたとして、国外追放したときに、全ての東アフリカ諸国は驚き、この事をもってザンジバルが共産主義の影響を受けていることの証拠と考えた。このように「ザンジバル活動計画」の中でアメリカ合衆国との周辺諸国の協力は確立されていった。この協力関係の確立はザンジバル革命を転覆させるための干渉の基盤を米国、英国軍に準備するものだった。これは20年もたった現在、西インド諸島のグラナダを周辺の反動的諸国の支持を得て転覆させる干渉を行う米国と全く同じ構図である。最近明らかにされた米国の秘密文書によれば、米国政府によってザンジバル革命に否定的な立場をとるような操作と、圧力をかけられたアフリカ諸国の範囲は面食らうばかりに広範囲に亙ったことが分かった。

タンガニーカとザンジバルの驚くべき連合についてのカルメとニエレレの秘密の合意は、この共産主義への恐れに端を発していた。この合意はウンマ党にも革命評議会にも全く知らされていなかった。まさに連合は革命後のそしてザンジバル人民共和国の設立のたった100日後に行われた。たった100日のザンジバル人民共和国ではあったけれど、その短い歴史にもかかわらず、それ以前にも以後にもその地域で起こった出来事の中で、地域の政治状況に一番深い影響を与えた。1964年1月20日にタンガニーカ、ウガンダ、ケニヤで自然発生的に起こった軍の反抗でさえ、それは結局彼らを抑圧するために英軍を引き戻してしまい、また誤ってザンジバル革命と関連づけられてもいるが、その政治的衝撃力は短命のザンジバル人民共和国には及ばなかった。

このタンガニーカとザンジバルの連合は当然その頃のザンジバルでの革命の潮の流れをせき止めることで成功した。活動的なザンジバルの革命家は本土政府に移された。輝くアフリカの革命の星であったザンジバルは、これを契機にアフリカでも最も拙劣で暴君的なプチブル専制国家の一つに落ちていったのであった。それはアフリカ革命の前衛であることをやめた。つまり経済的社会的な再建と変革の指導者ではなくなった。それは最悪な第三世界的な社会、政治、経済の不調、それはいつだってどうしようもなく衰退するしかない状態であったが、そこへ落ち込んでいった。そしてかつては、タブーであり道徳的に忌避されていた政治的な腐敗が当たり前のことになった。ザンジバル革命が特権を作り出す構造を根こそぎしたのに、この連合は新しい特権と政治腐敗の構造を発展させた。

要約すればウンマ党は反乱の第一声には参加しなかったけれども、革命的熱意と技能を伴った機会をたち上げたのだった。ウンマ党は多くの場合無関心だったルンペンの反乱を大衆的で反帝国主義的な革命に変えるのに力を入れた。それ自体の勢いを保ち、かつ引き続き起こった外部からの干渉を拒みつつ、革命は間違いなく新しい道を切り開いた。社会主義への道である。しかしながら、その当時の客観的な社会情勢から必然的に規定されていたルンペンの蜂起は彼らの不適切で、復讐心からの企図により激したのだった。

そしてその蜂起は短い期間の観点で見れば、それでもザンジバルの青年の革命への可能性を、劇的な衝撃によって明らかにさせるような、革命的な雰囲気をもたらしたし、帝国主義者がそれを警戒するだけでなく、実際にその芽を摘むべく軍事的な準備を始めた将来への広大な可能性を見せつけたのだった。この観点から見てルンペンの蜂起は積極的に評価されるべきだ。

その蜂起がまだ民族主義の高まりの途上で、頂点に達していない、歴史的に見て不利な瞬間に起こったのは確かではあったが、社会主義者の介入がこの地域の革命的で当然社会主義的な見通しにとって、素晴らしい状態を作った。

一方で、長い目で見た場合に、この革命はこの地域での将来の革命の発展のための「壮大な稽古」としての可能性を持っていた。たくさんの有用な練習が、そこには肯定的なものも否定的なものもあったわけだが、その革命の経験からなされた。それらの多くはこれからも徹底的に調査、分析、研究されなければならないし、そのことで未来の革命への道筋を照らし出すだろう。新しい革命の経験がアフリカで展開し続け、アフリカの若者が何処であってもますます先頭を切って新植民地主義と帝国主義との新たな革命的な闘いを行っているところでは、ザンジバル革命での練習(経験)、その発展と停滞、裏切りと英雄的な精神は彼らの闘いを富ませ、強力にすることに、とても貢献するだろう。

この決定的な歴史の転換点で、反植民地的民族主義はその可能性と実現性の元気を消耗してしまった。反植民地的民族主義の限定された目的は、経済的な失敗と、政治的な腐敗、一貫性のないもの悲しい王国をそこら中に作り出す冒険となってしまった。その考え方のかつての有用性は今や、かつてアフリカがそうであり、それを克服しようとしてきた全ての否定的なものへと堕落してしまった。ザンジバル革命がその方向性を指し示した社会主義を採用することだけが、新植民地主義や帝国主義と、それらの遺制としての貧乏、飢餓、病気といった呪縛から、反帝国主義的民族主義を再生させることが出来る。社会主義だけがアフリカを今一度活気あふれる道に戻すことが出来るし、今やどこもかしこも冷笑的な態度に変わってしまった、かつての独立後の大衆的熱狂に再び灯をともすことが出来るだろう。社会主義だけが、そのほとんど無限と言ってよい人的、自然的な資源を人々のために使用することで、統一され進歩したアフリカへとこの大陸全体を変えていく道筋を、人々に指し示すことが出来るだろう。社会主義だけがアフリカを他の大国に対抗できる大国にさせるだろう。それこそが、ザンジバル革命の意味と遺産なのである。

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