UNPO使節団の95年10月22日のザンジバル選挙監視報告書(1/2)

荒井真一訳


目次

1章 はじめに

1章-1 UNPOとその目的
1章-2 UNPO使節のザンジバル派遣まで
1章-3 UNPO使節の目的
1章-4 UNPO使節の構成員
1章-5 日程

2章 観察されたこと

2章-1 ザンジバルの(選挙を見る上での)背景

2章-1A はじめに
2章-1B 政治的な歴史
2章-1C (ザンジバルの人々の)自己決定への希求
2章-1D 最近(選挙前)までの社会状況

2章-2 1995年10月22日の選挙

2章-2A 投票当日
2章-2B 投票日前の不正行為
2章-2C 投票日後の展開
2章-2D 他の監視団の反応
2章-2E UNPO使節による結論
2章-2F ザンジバルの選挙へのUNPO使節団からの勧告

3章 今日のザンジバルの状況への考察と提言

   ザンジバル政府とザンジバルの人々へ
   国際社会に対して

UNPO使節のザンジバルへの派遣

1章 はじめに

1章-1 UNPOとその目的

(国際社会に)代表権を持てない国と民族の組織(The Unrepresented Nations and Peoples Organization =UNPO)は1991年結成された。占領された国、先住民族、少数派、その他公民権を持てない人々、彼らは文化的自己同一性を守り、基本的人権を守り、環境を保全し、搾取された彼ら固有の国家を回復しようとしている。UNPOは彼らの国際社会に対する発言の権利に基礎をおく。彼らが、国連のような国際的なフォーラムで代表権を持てないでいる事は、不適切である。UNPOの重要な目的の一つは、いろいろと議論がなされる国際紛争を非暴力で解決することを促進し、平和的、外交的方法で、彼らの合法的な権利と念願を達成させていくことにある。UNPOは、少数派の、というより人間の政治、文化、経済的な権利にかかわる議論の余地のある事柄の当事者達と関わっているので、緊張や潜在的な混乱の兆候を発見するのに敏な立場にある。

UNPOは(国際社会に)代表権を持てない国や人々のために合法的な国際フォーラムを準備する。また以下のサービスを提供する。つまり国連への仲介を援助する、紛争の予防と紛争の解決、戦略計画の援助、選挙と国民投票の監視、教育者の研修制度、文化の保存と継承の援助。それから、外交、法律相談、人権を尊重する援助と訓練、民主主義、メディアとの関わり方、非暴力戦術の、訓練カリキュラムを組織する。

その下に集う国や人々にとって、UNPOは国際社会へ発言する重要な窓口である。つまり、UNPO事務局は、組織員が各国、国際機関、非政府機関、報道機関に、彼らのおかれている状態を知らせる手助けをする。同様に、UNPOは各国、国際連合、そして他の組織に、彼らがなかなか連絡を取れない、合法的な代表権を持てない少数派や、人々の考え方を知り、実際に話し合う希有な機会を作り出す。

UNPOは財政的にも、他の事でも小さい組織なので、所期の目的を全うできない恨みがある。それゆえに、現在はメンバーからの要請で、事件の起こっている地域に使節を送り、各国、世界的な組織に対して暴力的混乱の危険性を広く知らしめることに、この領域での活動は制限されている。
我々の使節は以下の地域へ赴いた;
1992年3月タタルスタン、5月イラク・クルディスタン、5月コソバの選挙監視。92年11月と93年12月調停と外交の使節としてアブカジアと北コカーサス。94年1月、8月、旧ユーゴ・マケドニアとアルバニア。94年10月-12月調停使節として、ルワンダと近隣地区のルワンダ先住民のバツワ族の調査。94年12月と95年7月チェチェンとイングシェティアへの使節。94年12月と95年12月の台湾の選挙監視使節。95年2月調停使節としてオゴニランド、ナイジェリア。そして、オーストラリア、フィリッピンのコーディレラ、チュバッシュ、クリミア、サクハ共和国。

1章-2 UNPO使節のザンジバル派遣まで

UNPOに参加しザンジバルを代表する、ザンジバル民主主義オルタナティヴ(the Zanzibar Democratic Alternative =ZADA)からの要請で、UNPOは1995年10月22日の選挙に監視団を送ることにした。

組織の憲章である、UNPO契約には、この組織に参加する団体の発展しつつある民主主義国での国民投票や選挙での監視団の派遣を認めている。ザンジバルは1991年8月UNPOのメンバーになった。

1995年10月22日ザンジバルでは大統領、国会、地区評議員の選挙が行われた。また、29日にはタンザニア連合共和国の(ザンジバルの人も参加する)大統領と、国会の選挙が行われた。ザンジバルとタンガニーカが合併しタンザニア連合共和国になった1964年以来初めての、複数政党制の下での選挙だった。これらの選挙はタンザニアにおける民主主義化における重要な段階だと判断されたし、複数政党制が導入された1992年以降野党がどのくらい力を持ったかを示すものでもあった。

UNPOのザンジバルへの選挙監視使節は、ノルウェー外務省の資金援助があって可能になった。

1章-3 UNPO使節の目的

使節の目的は以下の通り。
   A:選挙が自由に公正に行われたか、それがザンジバルの人々の思いを十分反映しているかを、公明正大な方法で確かめる。
   B:ザンジバルの状況についての一次情報を地方の人々、政府を代表する人々、地方の権威筋から集めるために積極的に情報収集に務める。
   C:レポートとして、ザンジバルの状況の背景と同じように、選挙の監視結果を公表する。

1章-4 UNPO使節の構成員

使節のメンバーは、 UNPOの運営委員で、ナイジェリアのオゴニ民族の代表Ben Naanen博士と、ハーグのUNPOの国際書記局のアフリカ担当デスクのErica Zwaan女史である。

1章-5 日程

使節は1995年の10月18日から31日までザンジバルで活動した。
投票日には、街と田舎の15の投票所を回った。街ではジャゴンベ、ムェンバ、マクンビ選挙区の、田舎では、南部のムゥエラとディマニを含む選挙区の投票所に行った。

使節は選挙人の登録、投票の手続き、人々の参加の仕方等全ての選挙のプロセスを観察した。また使節は、ザンジバル選挙管理委員会のディレクター、そして地元のザンジバル選挙監視連盟(Zanzibar Election Monitoring Observer Group=ZEMOG)の担当主任のHaroub Othman教授や他の現地の監視団、国連とアフリカ連合機構(OAU)の国際選挙監視団、各政党の選挙担当官、つまり野党大統領候補のSeif Sharif Hamad氏、与党CCMの書記長代理のAli Ameir氏を含む人々、元連合共和国大臣のAbdul Rahman Babu氏、そしてストーンタウンの管理修復委員でパレス美術館館長の、ダルエスサラーム大学歴史学科教授のAbdul Sheriff氏、そして色々な階層のザンジバルの人々に会って話を聞いた。使節は、当然色々な政党の政治集会にも参加した。

2章 観察されたこと

2章-1ザンジバルの(選挙を見る上での)背景

2章-1A はじめに
最初の複数政党制の下でのザンジバル大統領選挙の結果は、50.2%対49.8%という僅差となり、この島に深い政治的断絶を生み出した。この分裂は全く島を真っ二つにしている。そしてこの事はザンジバルの歴史と、本土との関係を考慮に入れないと、正確に理解することが難しいだろう。
だから、先ずはザンジバルの歴史を一般的に見ていくことにする。先ず、前回行われた、といっても革命前の1963年になるが、複数政党制の下での選挙、これは(最終的には)流血の抗争(クーデター=革命)を引き起こし、千人以上の人が命を絶った。

ザンジバルという名前は、アラビア語の「Zinz-bar=黒人の土地」に由来する。だから、かつてはザンジバルというと東アフリカの海岸地帯の広範囲の部分を指したわけだが、今ではインド洋に浮かぶいくつかの島々を指すことになった。つまり現在ではザンジバルとは、先ずウングジャ島、ザンジバルの首都であり、一般にザンジバルと言えばこの島である。次にペンバ島、トゥンバトゥ島、チュンベ島他の小島からなっている。これらの島は珊瑚で形成され、東アフリカの沖合い約40キロメートルのインド洋に位置する。気候は熱帯性で、1650平方キロの面積を占め、78万の人口を擁している。人種はかなり広範囲の亙っている。これは、ザンジバルがかつてインド洋貿易の中心だったため、アフリカ本土、インド亜大陸、アラブからの何世紀にも亙る移民の結果である。スルタンが支配した時期、そして植民地の時代でも経済の中心は奴隷貿易であった。1963年の独立以後はココナッツとクローブ(丁字)が重要な輸出品になった。公用語はスワヒリ語、英語アラビア語も使用される。人口の95%以上はイスラム教徒で、残りがキリスト教徒、ヒンズー教徒、伝統的な自然崇拝をしている人々である。

2章-1B  政治的な歴史
ザンジバルは、その歴史を通して、ペルシャ、オマーンを中心としたアラブ諸国、そしてポルトガルの政治的影響をその時々に被ってきた。19世紀に入って、ザンジバルはスルタン制になった。1832年オマーンのスルタンのサイイド=Seyyid Said (1791-1856)が、オマーンの首都をマスカットからザンジバルに移した。スルタンはいくつかの列強と通商和親条約を結び、アフリカ本土からの象牙とアフリカ人奴隷を中心とした貿易を行った。19世紀はじめにスルタンによって導入されたクローブは、世界最大の生産地を誇るようになった。1890年になって、ザンジバルはイギリスの保護領となりスルタンの力は形式的なものになっていった。イギリス政府はオマーン出身のザンジバル在住のアラブ人を使い、スルタン制を利用しながら、ザンジバルを支配していった。

クローブの農園では奴隷が使われていたが、奴隷貿易は植民地の終わりの時期には行われなくなった。植民地政府はザンジバルの経済の多様化など全く考えていなかったから、ザンジバル経済はクローブ一色になっていく。クローブ栽培では普段はそんなに労働力は必要ではないが、収穫時には一時的に膨大な労働力が必要になる。だからクローブ栽培は季節労働者を必要とした。19世紀の終わりになると、奴隷を使うよりも、クローブの収穫時に日雇いの収穫労働者を使う方が、経済的だというのが一般的になった。そして、本土の人間は、割合継続した労働者として雇われ、ザンジバルの人間は臨時雇いという、ケースが多くなった。ザンジバルの人々が予備労働力となっていく、この課程は長い時間かかって、形成された。そして大地主が小作農を押しやって、肥沃な土地を専有するようになった。ペンバ島では小作農は農業で生活が出来たが、ザンジバル本島(ウングジャ島)では肥沃な土地が少なく、小作農は労働者になって収入を得るほかなくなっていく。このことは、ペンバの比較的裕福な小作農階級と、ウングジャの半ば労働者階級化した小作農という、違いになっていった。だから、クローブ収穫労働者の多くはウングジャ島から来た。そして、特にウングジャ島ではその土地の小作農は食料に困り、農地を捨て街に出てくるようになった。この結果仕事の奪い合いを本土からの労働者と演ずることになる。本土からの人間はよそ者と見られ、この違いは民族間で発生をはじめた労働者階級に区別を生じさせた。その人口を支えるに十分な肥沃な土地があったウングジャ島で、飢饉が起こったというのは信じられないことである。この食料不足=飢饉はクローブの単一耕作の結果であった。土地はクローブ栽培のために強制収容された。植民地政府はザンジバルの食糧自給になんの努力も払わなかったのである。当然ザンジバルの食料は輸入に頼られることになった。クローブ収穫労働者として現金収入に頼る小作農は、自分の畑の面倒を見られなくなったし、自分の畑を耕作する時間がなかった。

18世紀と19世紀の世界貿易の発展の頂点の時、ザンジバルの社会構造は土地所有者階級を大いに富ませた、大方の奴隷を利用していたアラブ(オマーン)人系の土地所有者、大方はインド人系だった金持ちの商人階級、そしてその影響でザンジバルの労働者、小作農も富んでいった。しかしイギリスの植民地支配の下で、こういった社会の構造に変革が起こっていった。奴隷制の廃止が、奴隷を利用していた土地所有者階級の没落を促し、労働者階級を作り出した。

イギリスは経済の停滞を口実に、ザンジバルを自由貿易港にした。これは商人階級を崩壊させた。こういった土地所有者と商人階級の没落は、町に住む労働者、貧しい小作農、貧乏人の困窮をいっそう引き起こした。

そして、これらの階級間の相違は当然経済的要因によるものだったが、イギリスの植民地主義者はその民族的違いの側面を強調するように策動した。何世紀にもよる異民族間の混合が進み、社会的に統合されていたのに、ここに来てそれぞれの民族性が政治的な側面を持ちはじめた。1930年代にたくさんの(民族的)団体が出来、イギリス政府がこれを承認していったことが、(民族的相違の強調の)原因になっている。1950年代になってこういった民族性に基礎を置く団体が、政治団体として認められるに至り、ザンジバルでは政治団体と民族団体は一緒だという考え方になっていった。この時期に、ザンジバル民族主義という考えが根付き始めてもいた。1951年多数の労働者に支援された初めての半植民地反乱が起こった。「牛の検疫反対闘争(The Anthrax Revolt)」はウングジャの小作農が、イギリス政府の全ての牛に対して予防接種をするという計画に対する、初めてのイギリス政府への反抗としてしるしづけられる。牛の値が最高値を記録していたその時期、この予防接種について、これは牛を生かすためのものではなく、殺そうとしているのだという噂が立った。

1951年ザンジバル民族主義党(The Zanzibar Nationalist Party=ZNP)が結成される。これはザンジバルの土着の人々がザンジバル・アラブ連盟の助けを借りて結成した、反植民地運動であった。ZNPは国家主義イデオロギーであったため、ザンジバルの裕福な、そして中流の小作農、労働者に支持された。1957年にはアフリカ=シラジ人党(the Afro-Shirazi Party =ASP)が結成される。この党は一般には本土のアフリカ人の党といわれ、半植民地運動に対する反応として結成された。1957年の選挙ではASPは圧勝した。1959年ASPから、ペンバのメンバーが脱退しザンジバル=ペンバ人民党(the Zanzibar and Pemba People's Party =ZPPP)を結成した。ZPPPはウングジャ(ザンジバル本島)に全く支持者を持っていなかった。こう言った政党の間で選挙は1961年、1963年と行われた。1963年6月24日ザンジバルは内政面での自主政府を認められた。そして新しい憲法が施行された。1963年7月の選挙ではZNPとZPPPの連合が勝利した。独立の前にZNPのメンバーが脱退し、ウンマ党を結成した。1963年12月10日ZNPとZPPPの連合政権の下ザンジバルはイギリスから独立を認められた。そして、初めての独立ザンジバル憲法が発布された。ウンマ党は議会での最大野党ASPと戦術上の同盟を始めた。

1963年12月16日にザンジバルは国連の完全なメンバーとして認められた。

しかしこの独立憲法(新国家)は長くは続かなかった。1964年1月12日ZNPとZPPPの連合政権はASPとウンマ党によって組織された反乱によって、転覆された。このクーデター=革命によって、ザンジバル人民共和国が宣言され、革命評議会が、国会にかわって開設され、カルメ(Abeid Karume)が大統領に就任した。カルメ大統領とASP、正確に言えばASP14人委員会は自党以外の政党を禁止し、その指導者達を国外追放した。転覆されたかつての政府首脳は抑留された。(その上味方である)ほとんどの進歩的なASPとウンマ党の指導者さえも、(カルメ大統領とASP14人委員会の圧制を恐れて)本土タンガニーカのニエレレ(Julius K. Nyerere)大統領の力添えもあり本土に移った。1964年から1972年の間にザンジバルの人口の15%が本土に移り住んだと見積もられている。

1964年4月26日、ザンジバルの人々の同意なしに、ザンジバル人民共和国大統領カルメ とタンガニーカ共和国大統領ニエレレは、この2つの独立国を合邦し現在のタンザニア連合共和国にする条約に署名した。ザンジバル革命評議会は政治的反対者の頻繁な留置と拷問と処刑によって特徴づけられた恐怖の統治を始めた。私有財産の国有化を含む圧制にも着手した。政治的反対者は職を奪われ、孤立し、彼らの子弟は教育の機会を制限された。人権の無視や、経済的な困難から多くの知識人は本土へと逃れざるを得なかった。本土の方ではザンジバルからの安い労働力を得たけれども、一方でザンジバル人を二流市民として扱った。

1972年カルメ大統領は暗殺された。ASP14人委員会はニエレレの支持を得られず、解散した。多くのASP14人委員はその後本土へ移り住んだ。これはザンジバルへのニエレレの影響力を強め、ザンジバルの(社会主義的)君主制を弱めることになった。

カルメに変わって、ジュンベ(Aboud Jumbe)が大統領になった。彼はニエレレの友人で本土との連合の推進派であった。本土との関係をよくするためにジュンベは閣僚にザンジバル人よりも本土の専門家を招聘することを好んだ。1977年ザンジバルの唯一の政党ASPは、同じくタンガニーカでの唯一の政党タンガニーカアフリカ人民族同盟(Tanganyika Africa Natinalist Union =TANU)と、合同し革命党(Chama Cha Mapinduzi =CCM)を結成した。ジュンベは1979年の(革命後)初めての新ザンジバル憲法への準備を行い、1984年にはその憲法は改正された。ジュンベはニエレレの後継を狙っていた。しかし、ニエレレが本土の人材を重用しだした頃から、連合政府への方針を変え、ザンジバルナショナリズム的スタンスを取り出した。1984年多くの彼の閣僚とともにジュンベは失脚した。同じ年、連合国の大統領にムゥイニがニエレレのあとを継いだ。この時期がザンジバルでナショナリズム、そして反連合の気分が一番高揚したと考えられている。これに対して連合政府は、ザンジバル人の軍隊に対して本土から6,000人の師団を配置替えし、万が一の反乱を抑えようととした。

1990年に計画された総選挙と大統領選で、ザンジバルは選挙をボイコットするキャンペーンを始めた。これは国際社会に対してザンジバル人がタンガニーカとの連合についての意思を問う国民投票を求めていることを示そうとするためで、多くのザンジバル人に支持された。

1992年、援助国からの圧力に多くの原因をおって、タンザニアは一党独裁制を止め、複数政党制に移行するために憲法を改正した。初めてのザンジバル、タンザニア本土両方の複数政党制の下での選挙が1995年に行われることになった。しかしながらこれは紙の上での大幅な変更であって、平和に活動する野党の政治活動に対して政府の対応に変化は見られなかった。政治的反対派と政治的な論評は政府によって抑圧され、特にザンジバルではひどかった。国際アムネスティの1995年1月の報告によれば、その抑圧は(それによって問題が大きくならない)少し重要でない地位にある野党指導者に対する、政治活動の妨害に焦点が置かれたということだ。ザンジバルでの最大野党CUF(Civic United Front)の支持者は、扇動的ビラを所持していたとか、非合法集会を開こうとしたといっては逮捕されていた。こういった野党の選挙活動への嫌がらせと妨害は選挙前の運動中ずっと続けられた。

2章-1C (ザンジバルの人々の)自己決定への希求
多くのザンジバル人は現在の連合形態に不満であると言われている。それに、ザンジバルの人々も、本土の人々も1964年の連合宣言の署名前に、そのことを相談されていない。現在の支配政党であるCCMは連合に積極的だが、ザンジバルの野党は、本土の50人の議員と共同で、何回も連合の将来を決定する国民投票を主張している。彼らは現在の連合が本土の人々にもザンジバルの人々にとっても、政治的にも社会的にも経済的にも有益ではなかったと感じている。1964年の連合宣言では3つの管轄権についてカバーすることになっていた。
つまり、連合国としての、本土(タンガニーカ)の、ザンジバルの、の3つである。しかし、実際には最初の2つは一つの政府の下に置かれたのであった。 連合政府についていえば、連合国家の憲法設定のために、ザンジバル、本土(タンガニーカ)双方から、(個別に議員が選ばれ)憲法会議が招集された。だから連合国家にかんすることをザンジバル政府が批准できるということはなかった。その上、ASPとTANUの合併でCCMが結成され、一党独裁制になったため、この3つの管轄を超越する権威(CCM)が出来てしまったのである。

2章-1D 最近(選挙前)までの社会状況
今日のザンジバルの社会状況はとても繊細である。ザンジバルの経済状況は警告を発している。ザンジバル政府は国内の需要に応えるインフラの整備に失敗した。道路、水道、下水設備、定期的な電力供給が十分ではない。特にペンバ島ではそれが顕著である。クローブの需要の低下に伴う国際価格の低落はザンジバルの経済に打撃を与えた。農業と工業が近代化される必要がある。

この経済状態の下、ザンジバルの未来に期待できない若者はどんどん外国に出ていく。その上、大学がないから学生はダルエスサラームに出ていく。そして彼らはザンジバルにはいい仕事がないから、卒業しても戻ってこない。ザンジバル政府の給料は本土のものに比べてとても低い。それは、家族を支えるのに十分といえる額ではないのだ。
  • 2章-2 10月22日の選挙以降へ
  • UNPO election monitoring mission's Report of Zanzibar election 10.22.'95/原文=英語版 
    ザンジバル、タンザニアで95.10月に行われた初の複数政党制での大統領選と総選挙について
  • 何故、荒井真一ザンジバルの総選挙に関心を持つのか?
  • ザンジバルの総選挙(95.10.22)前の情況
  • ザンジバルからの手紙(95.11.2)
  • 11月17日におけるザンジバル、タンザニアの状況
  • 11月23日におけるザンジバル、タンザニアの状況
  • 95.10の総選挙から現在までのザンジバルの状況についての雑感

  • ザンジバル革命(1964.1.12)以後の政治状況

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