1964.1.12のザンジバル革命まで(1/2)

---1964年のザンジバル革命は、ルンペンのものか前衛のものか?---

A.M.Babu


荒井真一訳


From
A.M.Babu "The 1964 Revolution:Lumpen or Vanguard?"
in Chapter 8,"Zanzibar Under Colonial Rule",
edited by Abdul Sheriff&Ed Ferguson,
The Historical Association of Tanzania&Ohio University Press,1991

*A.M.Babuはウンマ党議長であり、タンザニア連合共和国元大臣。ザンジバル革命の理論的指導者。

1964.1.12のザンジバル革命まで(2/2)へ
1964年1月12日のザンジバル革命はアフリカに嵐を巻き起こし、それまで上手くいっていた資本主義陣営の植民地撤退以後の戦略に大きな打撃を与えた。そして、この革命はアフリカ政治の幅広い範囲での可能性を持った新しい時代を告知した。それは、草原に燃え広がる前のたった一つの火花のようだった。

敵、味方いずれもがそれによって引き起こされた事柄や、継続して示される熟練さ、そしてこの二つのちっぽけな島の人々が横柄で威張り散らしている帝国主義者に、断固とした態度をとる要因となっている堅固な革命精神に圧倒された。そして、ザンジバル革命が自分たちの革命に火をつけた感じた抑圧された人々、東、南アフリカ、そしてアフリカ全て、あるいはその他の地域の人々をも鼓舞した。

奴隷商人、オマーンの植民地、そして70年に亙るイギリスの植民地と、いつも外国人に攻撃され圧迫されてきた人々の2世紀にわたる戦いの最高の到達点がこの革命だった。この戦いは肯定的にも否定的にも当事者自身によって、的確な指導力に依存したと言われることが多い。しかし、植民地的、封建的地主制度の屈辱と、奴隷制の手錠から逃れて自由な社会を作ろうとする人々の忍耐と断固とした決意こそが、この長い間の一貫した闘争の全てだ。人々を分割し暴虐的状態に置くことが出来た反動的地主の力が弱まったとき、この闘争が消極的に自らの姿を現したことを、のちに述べることにする。一方で、圧制に対して堅固な前線を作り人々の団結を作り出そうと努力した革命的で進歩的な指導に導かれたとき、この闘争ははっきりと姿を現した。これらの 上昇と下降(進歩と退却)は革命で劇的に達した政治的発展の実体である。

Vita vya Ngombe(牛闘争)
この結論的章の目的からいって、他の章がそうであるように、長年の闘争を逐一辿る必要はない。その「始まり」をつきとめる事で、ザンジバルの中の近代的な政治的闘争の精神を捉えるのは十分である。人はその「始まり」を、1951年に起こった「炭疸(anthrax )反抗」または 「牛闘争(Vita vya Ngombe)」と呼ぶ。この反乱は植民地主義者の自惚れを粉砕し、大衆の組織化の始まりの記念碑となり、そしてこれから始まる「政党の時代」を予見した。もっと重要なことは、それが東アフリカでは他に類を見ない、労働者、小作農、革命的プチブルの革命的同盟の先駆けであったことだ。

そしてザンジバルの小作農の初めてのイギリスの植民地政府への反抗だった点が、この「牛闘争(vita vya ngonbe)」の画期的な点だ。そして、植民地主義によって助長された民族的な対立を無効にした、明確な階級的視点を持った運動としても初めてのものだった。この反乱は、かつての運動が持ったことがなかった決定的な打撃をこの国の政治の核心に与えた。だから革命を導くことになるこの状況と、その後の影響力を理解するのは重要なことである。小作農の反乱は政府の全ての牛に対する牛疫、炭疸熱、足と口の感染症への予防接種に対する計画への反対であった。朝鮮戦争景気で牛の値段が高騰している、この時期に「植民地主義者の真の目的は牛を生かすことではなく一度に殺すことだ」という噂が駆けめぐった。1950年からこの景気までに、この国の主要輸出産物のクローブの価格もかつてなく暴騰した。朝鮮戦争前の1948-49には1ポンドたったの64Tsh(タンザニア・シリング)だったものが、52-53年には900Tsh以上に暴騰した。このことは、この国を繁栄させ、それにつれ牛の価格も上がっていった。それゆえに小作農にとって牛の生死に対する脅迫は、とりもなおさず彼らの生活への脅威となったのである。

そしてこの反抗は小さいながら決定的展開点になったのだ。この事件が起こる前までの長い間の 植民地政府の独裁的で抑圧的な政策、それは小作農の生活を不安定化させ、その結果動揺が始まっていた。彼らは自分たちの不満と収入の不安定さの原因を理解していなかった。彼らは上手く組織されていなかったし、彼らの中にくすぶる不満を確認し、それを上手く表現する正式な指導力を持っていなかった。しかしこの突然の明らかな集中的な脅し(牛への予防接種)は、それら全てを準備したのだった。小作農は彼らの指導力を用意し、行動を起こした。

新しい歴史的な状況に直面すると、 大体の植民地主義者は恐慌状態になり、報復行動、そして多くの場合は暴力に訴えるようになる。だから、反抗が突発したとき植民地政府はそれを抑圧するためにきわめて厳しいやり方をした。その結果何人かが死に、多くの小作農の指導者が拘留された。 それに対して小作農は彼らの指導者の釈放を求めて、キイヌマ・ミグー(Kiinua Miguu )の中央刑務所の襲撃を決定した。彼らは、激して、衛兵を打ちひしぎ、彼らの指導者を奪還した。反乱がその後それ以上の力で抑圧されたとき、指導者は暴動を刺激するという理由で、再逮捕され、再び投獄された。彼らはすぐに殉教者となり、引き続き巻き起こる小作農の運動の本物の指導者となった。

マアリム・ザイディ( Maalim Zaidi),Miraj Shaalab,Haji Husein といった人々は、これらの指導者の中でも目立った存在である。大衆的な圧力によって彼らが釈放されるや、彼らは彼らの問題を根本的に解決する唯一の方法として独立を求める政治運動を組織するよう決意した。 しかし、この運動はその大きさにおいては最初の小作農の運動とは言えなかったが、初めての徹底した反植民地的政治運動であった。その数年前「 Ittihadil Watany =National Unity Movement」として知られる、小作農の運動が存在した。それは国内を席巻したが、その目的は全く経済的だった。その目的は仲買人を取り除こうという、協同組合運動だった。初期の精力的活動にも関わらず、その運動は数年で下火になった。それは都市のプチブルがその運動を無視し、指導力を与えなかったことに大きな理由があった。

しかし今度のこの新しい運動は政治的なだけでなく、外国の占領とも戦ったので、自分たち自身の解放に可能性を感じた都市のプチブルにも受け入れられた。小作農の指導者はその運動を「Hizbul Watan liRiaia Sultan=the National Party of the Sultan's Subjects(スルタンの臣民による国民党)」と名付けた。この「スルタンの臣民」というのは重要だった。それは今まで人々を民族的に分断してきたものに統一を与える唯一の政治的カテゴリーだったし、統一ということは、これらの目覚めた小作農の独立への闘争の中で第1の目的でもあった。そして臣民の強調の2番目の理由は、それが運動にペンバ島からケニヤの沿岸までも含めた広い地域の人々を引きつけることになったからだ。というのは、この時期彼らも公式に(ザンジバルの)スルタンの臣民だったからである。第3の目的は、本土からの移民、彼らの政治意識はタンガニーカと結びついていたが、彼らと自分たちとの違いを際だたせることだった。この時期タンガニーカは(近いにもか変わらず)多くのザンジバル人にとって、まったくの外国だったのである。

第4番目には、多くの小作農にとっては、正しいか間違っているかは別にして、全く彼らは君主制のもと(イギリスの保護領=植民地ではあったが、意識的には)にいたし、スルタンに支配されることにはなんの問題も感じていなかった。事実ザンジバルの小作農の間にはスルタンにまつわる色々な物語があった。例えば彼らの祖先が(16世紀のバスコダガマの東アフリカ発見以降の)ポルトガル植民地主義者との戦いの支援を求めて、オマーンのスルタンを訪ねたというものがあった。そしてオマーンはすぐにマスカットでポルトガルと戦い、打ち破った。この勝利はその時期、ポルトガルに支配された東アフリカの沿岸地域で広く祝福された。部分的にはこの理由で、そして同様に「王室」が長い間の異民族間の結婚を経て、純粋なアラブ性を減らし、部分的にはスワヒリ化していたこともあった。小作農はスルタンを外国人とは考えなかったし、彼らは王室を自分たちのものと考えたのである。それだから平均的な小作農にとってはこの「スルタンの臣民による国民統一党」という荘厳な名称は、ぎこちなくは感じられなかったし、多くの小作農はそれに対して誇りを感じていたのである。

しかし洗練された都市のプチブルにとっては、運動を王室と関係させることに気まずく、嫌な感じを持っていた。彼らは国家的統一を望んでいたが、それを君主制と関係させる事を好まなかった。そこで彼らは小作農の指導者に政治的にもっと許容できる「Zanzibar Nationalist Party=ザンジバル国民党」という名称を勧めた。そしてこれが党が1964年の革命後に解散されるまでの公式名称となった。

側面的な発展、しかし「牛闘争」が起因した同様に重要な運動は、初期の独立闘争でのアラブ協会の急進的な青年会員の運動への連帯である。アラブ協会の公式週刊紙「Al-Falaq=夜明け」は、小作農の反乱を強く支持し、イギリス植民地政府の野蛮さを攻撃した。1954年イギリス植民地政府は、こういった強い民族主義者の動きに対して、Ahmed Lemky編集者やアラブ協会の全ての中央委員を煽動という容疑で告発することで、反発した。

Lemkyは地主階級であった。彼のエジプトでの教育、そこで彼は政治活動のため拘留されたし、反逆者Anwar Sadatと一緒に拘留されたとも言われている、そしてロンドンでの経験、これらが彼を急進的民族主義者にしたし、ザンジバルの独立の提唱者に変えたのだった。
煽動に対するこの裁判がザンジバルの政治の流れを変えた。この裁判が以前は保守的だったアラブ協会に、植民地政府への全ての繋がりに対するボイコットを行うような急進性を持たせた。彼らはこのころ(設置されていた)立法諮問委員会から全ての代表を引き上げた。そして彼らの一人がこのボイコットに反対したとき、彼は暗殺された。

このころ全ての市民は民族的組織で認識されていた。このような組織は23あった。アラブ協会はオマーン出身のアラブ人で構成されていた。そして他のアラブ人は、多くは南イエメンの出身者だったが、彼ら自身の指導力を持った別の組織を作っていた。民族的差異は、こうして国の政治に影響を与える、一般的な意識になっていた。

アラブ協会の指導者層は地主階級だった。しかし一般メンバーは小地主、政府事務員、教師、労働者、小作農、そしてプチブルインテリゲンチャと雑多だった。大多数はずっと以前にアラブ人とは言えなくなっていた。彼ら「アラブ人」は実は奴隷出身の母や祖母から生まれていた。異民族間の婚姻の結果、私たちは彼らをアラブ人か、アフリカ人かと区別することが難しくなってきていたのだ。

だから時間が経つにつれ、民族的相違は意味がなくなり、たくさんのプチブルインテリ層は民族性で判断されるのを拒絶するようになった。彼らは単純にザンジバル人と自分たちを考えるのを好んだ。そしてMaalim Zam-Ali Abbas によって、率いられた「ザンジバル協会」も結成されたし、一人のカリフ(イスラム教指導者)の編集による「ザンジバル人」という週刊紙もできた。

しかし、これらの動きは一般的な関心を引きつけるほど長く続かなかった。というのは、それらを指導したインテリ層がどんな社会階級の願望も反映していなかったからである。彼らは彼らの個人的な意見と、理想を表明したに過ぎなかった。二番目には、彼らは筋の通った政治・経済的政策を持たなかったし、彼らのザンジバルナショナリズムの概念は大体が抽象的だったからだ。彼らは、学習会、討論サークル、実際的な政党作りといった、重要な組織作りに着手する努力をしなかった。それ以上に彼らは、植民地主義、帝国主義に対する疑問の声を上げようとしなかった。彼らは、彼らにとって不公平に思えるような、常軌を逸した植民地政策に対してのみ争った。

しかしながら、このザンジバルナショナリズムの先駆者が、大衆の支持を得られなかったといえども、彼らは少しずつ発生をはじめた教育を受けた層に対して、ナショナリズムの概念と、圧力団体や民族的組織を通しては何事も成就しないことを訴えることには成功した。全てのザンジバルの人間は一つであり、その観点から彼らの権利を主張することに、今でも通用する解決案があると彼らが議論したことに意義はあった。

このように「牛闘争=炭疸反抗」が反植民地の立場で起こったとき、それはすぐに都市のプチブル、アラブ協会の急進的会員や、労働者、貧乏人、職人達の支持を集めた。

こういったアラブ急進派では後にZNPの指導者になった Ali Muhsin が有名である。小作農の運動へのインテリの参加は歓迎された。小作農は彼らの求めることと、不満を明確にすることをインテリに求めた。一方でインテリは大衆的な社会基盤を小作農から与えられた。今やこの基盤には、小さいけれども発生をはじめた無産階級と、膨大なルンペン無産階級が含まれていた。これが始まりの始まりの時期のZNPの社会的構成であった。それは血気盛んな解放闘争に必要な全ての要素を含んでいた。

政党政治の季節
イギリス植民地政府はすぐに、植民地支配をつぶそうとする新しい政治勢力が、危険な可能性を持って発生しだしたのに気づいた。ZNPはすぐに全ての成人の選挙権、イギリス政府がザンジバルの独立を早く認めるような憲法の制定、そして人種、民族を基準にした代表制(立法諮問委員会)の即刻の廃止を要求した。

典型的な事だが、植民地主義者は第一の要求に対しては、この国がまだ独立に対して準備不足だと反発し、実際にはこういった要求に反対する勢力を、つまり地方のスパイや独立派と意見を異にする者を、国家が信用をおける連中から作ろうとした。

この種の戦いで好ましい状況を作ろうとして、植民地主義者は独立派に反対する有象無象の事実を訴えるのに必死になった。アラブの土地所有者に対しては、ZNPを中心とした独立への動きは、彼らの伝統的特権への脅威であり、彼らの経済上の地位を脅かすだろうと触れ回り、インドの商人階級には、この運動は本質的には反インド的で、イギリスが去れば、インド人もザンジバルを追い出されるだろうと言った。またシラジ系と本土からのアフリカ人のプチブルに対しては、独立派の動きはよく組織されたもので、その目的はイギリスを追い出して、アラブ人の天下のもとにアフリカ人大衆を支配するものだと言った。そして、イギリス人こそがアフリカ人の本当の保護者ではなかったのか? 誰が奴隷制を廃止したのだ? あなた方はあの時代に戻りたいのか? と訴えた(実際19世紀後半、イギリスはスルタンに対して奴隷制の廃止を強要した)。

こういった状況の中で、アフリカ協会とシラジ協会が合併し1957年アフロ-シラジ党(Afro-Shirazi Party=ASP)が結成された。この組織は、小作農の反植民地闘争への反発として生まれた。それの主要な目的は、即刻の独立闘争への反対であった。だから客観的にはその運動はイギリス植民地支配に合致するものであった。

しかし、ASPが結成されたからと言って、今かつてないほどの大衆の支持を受けている独立への動きの高揚を抑えることはできなかった。その結果イギリス政府はHilary Blood閣下に率いられた憲法会議を招集することで、憲法の改正要求に応えざるを得なくなった。後にこの会議は成人の普通選挙権と議会の開催を勧告した。この場に及んでも、この憲法会議に行った覚え書きによればASPはこの国はまだ準備ができていないと言って、即刻の独立に反対していたのであった。

ASPの立場に対する、ZNPの対応もZNPの閉じられたナショナリズムをあらわにした。ZNPはカルメ(Abeid Karume 、ASPの指導者の一人で、革命後の初代大統領)が本当のザンジバル市民ではないと彼を法廷に訴えたのだった。これはカルメをアラブ圧制者の手に掛かった殉教者にし、そして彼への支持を再び集めることに一役買った。特に本土出身者はこの新しいナショナリズムのうねりに何かしら脅威を感じていたのでカルメを支持した。カルメを守るための大衆集会が開かれ多くのお金が集められた。それが、計画されたものだったか偶然だったのか、カルメに対する判決は、カルメ自身が候補者であった選挙の前に行われた。彼は裁判に勝ち、選挙でも圧勝した。この勝利は彼が独立には疑問を抱いているにも関わらず、彼を国家的指導者にしたのであった。ASPの選挙中、そして選挙後のスローガンは「Uhuru Zaidai=独立への動きを牽制しよう」であった。

植民地主義者と不安定な本土からの大衆と田舎の小作農の遅れた部分(ASP)の合同した攻撃に直面して、ZNPは選挙では負けたものの、政治的実力を養っていった。ZNPは独立を勝ち取るためになんの恐れも抱かず、独力でそれを成し遂げようとする唯一の党であることを主張した。海外にいたザンジバル人は政治の流れの反動的な転換に心を痛め、祖国に帰り、全てを政治活動に捧げようとしはじめた。これは、1957年のことである。この年、全てのアフリカ大陸は解放運動の熱気に包まれていた。それはガーナでのエンクルマの勝利やケニヤのマウマウ闘争によって鼓舞されていた。 帰還者達の行動は至って明瞭だった。それは、問題の核心が帝国主義にあることを見抜いているZNPを支援することだった。彼らにとって帝国主義との闘いが最優先課題であった。それは敵対する矛盾であった。人々の間の他の矛盾は二次的なもので、敵対しない矛盾は後回しでよかった。帰還者達はZNPに、党を組織する方法について洗練されたものをもたらした。

彼らは党に一貫した反植民地の路線と、田舎の党支部を通して草の根の組織をもたらした。そして、彼らは党から初期の段階で特徴的だった小児性を取り除いた。そして彼らは世界的な、特にアフリカの、反帝国主義闘争と連帯していった。彼らは、いったんASPが人種差別主義と手を切れば、遅かれ早かれ意味のない党になると考えていた。そしてその反動性は、解放闘争の中で転倒し、ずたずたになっていくだろうと考えた。

こういった立場の結果、ZNPはアフリカでも一番よい政治的運動となっていった。運動に知識とエネルギーを持ち込んだ全ての都市のプチブルを巻き込んだ。都市の労働者を組織し、自由労働組合世界連合(the International Confederation of Free Trade Unions =ICFTU)の手から彼らを守った。ICFTUは、Tom Mboya に支配されたケニヤのケニヤ労働組合連合(Kenya Federation of Trades Union=KFTU)の下にあった。それは東アフリカの労働組合運動に大きな影響力を持っていた。ZNPは田舎の労働者と、多くはダウの乗組員だった船舶労働者を組織した。そして、先進的労働組合連合(the Federation of Progressive Trade Unions =FPTU)の下に彼らを組織した。そして、ICFTUに対立するプラハに本拠地を置く世界連合労働組合(World Federation Trade Unions=WFTU) に加盟した。冷戦は世界規模の反帝国主義闘争を徐々に切り崩そうとしていた。ZNPは小、中学生、そして多くの地方と都市の青年を組織して、独立した組織を作った。それは「若者自身のための連合」と呼ばれた。

他の東アフリカの政党と違って、ZNPは明確な国際的立場があった。だから、マウマウ闘争、タンガニーカのTANU、中央アフリカ連邦への闘争、アルジェリア革命を支持し、アルジェリアでのフランスの拷問への抗議集会を開いた。そして、南アフリカの反アパルトヘイトと解放運動を支持した。それはパレスチナ闘争を支援し、中国の国連加盟と朝鮮とベトナムの統一を支援した。要するにZNPはラテンアメリカ、アジア、アフリカの解放闘争の前衛であったし、カイロに本拠地を置くアジア-アフリカ人民連帯組織でも目立った動きをした。

この活動はザンジバルの人々の政治的立場を超えて、彼らの政治意識を広げることに役立った。東アフリカでは自分たちの国の独立に対してのみ局地的に集中した戦略を戦う事が多かったから、それは大変貴重な経験となった。こういうことだったので、ZNPはイギリス植民地主義者のみならず帝国主義者陣営全てからの怒りをかった。そこでイギリス植民地主義者-帝国主義ブロックは、はじめはZNPをアラブ人主体の組織であると触れ回って、他の東アフリカの運動から孤立させようとした。国内的にはその一番活動的なメンバーに不信感を抱かせるために、ZNPを共産主義者や無神論者が牛耳っていると触れ回った。植民地主義者はZNPにたいして、その青年運動と労働組合運動を妨害し、ついには彼らの政治活動を禁止するという、特別な抑圧政策を持ち出した。一方で対立する労働組合は登録し公式な後ろ盾を与え、ICFTUから資金や色々な援助が与えられた。Irving Brown つまりCIAの元活動員であるJohn Stockwellは、ICFTUを指導するCIA要員として、これらの労働組合を指導するために国内を暗躍した。

しかし、植民地主義者がZNPを抑圧すればするほど、大衆の中でZNPこそ解放闘争の真の指導者だという信望が大きくなっていった。それに対してASPは植民地主義者と同一視され、信望を失っていった。ASPはどんな問題に対しても明確な政策を持っていなかった。彼らは単にZNPが採る政策に否定的に反発しているだけだった。彼らは、ザンジバルへのアメリカのいわゆる人工衛星追跡基地、それに反対するというZNPの立場にまで反対した。

ASPの指導力は国内的にも国際的にも孤立していった。そして1958年の本土のムワンザでの第一回東及び中央アフリカにおける汎アフリカ自由運動の総会(the Pan-African Freedom Movement of East and Central =PAFMECA) で、ASPが親帝国主義的立場をとったとき、その友党であるタンガニーカのTANU(Tanganyika African Nationalist Union、委員長はニエレレ、後にタンザニア初代大統領)は困惑した。ZNPはアフリカならびに世界での反帝国主義闘争の全ての局面について明確な政策を携えて出席した。この総会では、東・中央アフリカでの解放闘争のための共通の戦略を定め、ガーナのアクラで行われる、来るべき第一回全アフリカ人民総会でこれらの政党が採択すべき政策の基本ラインを提案した。そしてこの総会で、ザンジバルでの即刻の独立のために、共通の綱領をもとにZNPとASPが統一戦線を形成することが提案された。

全ての議案は総会で採択された。そして、ASPはTANUの指導者ニエレレ(Julious Nyerere)の圧力もあり、いやいやながらZNPと統一戦線をつくる事に合意した。1958年12月二党は別々にアクラ会議に出席した。そこではいっそう強くASPに対して ZNPと統一戦線を作り、独立を勝ちとるように圧力がかけられた。圧力をかけたエンクルマ(Nkruma )と George Padmoreは、ザンジバルの戦略的重要性と、その解放闘争における東・中央アフリカへの意味をよく分かっていた。ASPはZNPとの新しい政治的立場の結果、もしASPから分裂するグループが出ても、そのグループをZNPに有利にならないようにすることの保証を求めた。この保証は認められ、エンクルマ、Padmore 、マラウイのKanyama Chiumeらの人々によって認証された。

今独立闘争に弾みがついていた。今や解放闘争はそれまで立ち上がり、参加するのをためらっていたいろいろの人々を引きつけていていた。大部分は役人だったプチブル達は、彼らの未来を政治活動の中に見いだし、未来に対して最善の見通しを与える党に加入しようとした。しかし彼らは彼らの植民地主義者のボス達からたたき込まれた「共産主義」への恐れを運動に持ち込んだ。

この混乱し、矛盾した流入の結果、二つの党では長期的、短期的なそれぞれの関心からグループが形成され、左派と右派に分裂していった。この分裂はZNPではより政治的深みを持っていた。ZNPは(ASP)よりいっそう徹底して政治的であった。だから多少とも明確な政治的立場を持っている人々は、ZNPに引きつけられた。その上独立問題では全ての人々のイニシアティブをとった。このように、色々な階級の人々がZNPに集い支持していたわけだから、遅かれ早かれ階級的利害の衝突は必然的に起こるはずだった。その上ZNPはASPよりもいっそうザンジバルの人々全てを代表していた。それゆえに地域間の、そして地域の中での相違や警戒心が党内の問題として反映されていった。その上最終的にはプチブルの知識層が参入し、党に彼らの政治的不安定さを持ち込んだ。つまりZNPはASPに比べ、より混成状態だったわけである。

ASPといえば、それはほとんどの街に住む本土出身の人々を代表していたのだから、いっそう均質だった。それが田舎に支持者を持っていたといえども、ドンゲや チャアニといった限られた地域に集中していた。だからその支持は広範囲な地域にまたがる矛盾を反映することはなかった。後述するZPPPの分裂以後は、ムコアニの小さい地域を除けばペンバ島には支持基盤がなかった。

ASPには知識層が参加していなかったから、その方針は本土のTANU から感化を受けていた。しかし、TANUが本土で直面している問題とASPがザンジバルで直面している問題は全く異なっていた。だから、ASPがザンジバル特有の問題に正確に反応し対応する、一貫した知的な指導力を発揮するのは無理だった。そして狭いことにしか関心のない運動は、高度な政治的経験から生じる、鋭い党内対立や左右分裂と無縁であるのは、いうまでもなかった。こういうことで、ASPが商業階級と大商人のもっとも反動的な部分を代表するインド人民族協会(the Indian National Association =INA)との同盟に意欲的だったのは、ASPに色々な社会的な力の分析能力がなかったためである。INAとASPの共通の土台は、独立への反対と、労働者や小作農大衆の勃興する政治的意識への恐れだった。しかし、INAはASPに代表権を置かなかったから、彼らの階級的利害がASPの党内闘争に反映されることもなかった。

ASPとZNPの二つの党がある特定の一つの社会階級を代表していたかを問うのは不正確である。この段階では両党とも労働者と、中小小作農の支持を受けていた。そして両党とも財産所有者の支持を持っていた。当然ASPはINAを通して商業階級の支持があった。一方ZNPもASPよりも多くの財産所有者、つまり小作農と同様に土地所有者の支持を集めていた。しかしながら、こういった類似点にも関わらず、両党の政治姿勢は根本的に違っていた。ASPはとても保守的で、閉じられた、反動的な立場をとり、ZNPはとても急進的で、革新的で、ほとんど革命的な立場を国際問題、国内問題に対してとっていた。

これが、ASPがアクラ会議の結果、全アフリカからZNPとの統一戦線を結成するように勧告されたときの、両党の状態だった。植民地主義者はASPとZNPの独立への統一戦線結成をとても脅威に感じ、ASPが裏切ったと考えて激しく反発した。彼らはASPの強さも弱さも知っていたから、彼らを食い物にし損害を与えることができた。

しかしながら、客観的に見てZNPの方がいっそう植民地主義者の挑発とずるい手口に直面する攻撃されやすい位置にいた。ASPはいままでZNPと戦ってきた、だから彼らの仕事はより消極的で(ただZNPに反発すれば)よかった。一方でZNPは植民地主義者ともASPとも戦っていた。だからその戦術はどちらか一方の敵が攻撃方法を変えたら、それに対応して絶えず検討される必要があった。絶えず主導権を保ち、状況の判断を更新しながら、忙しく活動する必要があった。そうしなければ、敵対者達の連合した猛攻撃にやられてしまうのだった。こういうことだったから、ZNPには信頼が置けて、政治的によく訓練され、無私で、規律があり、成熟した社会意識を持った幹部が必要だった。

そういうわけでアクラ会議での統一戦線結成の実現には両党はお互い別の影響ではあったが、深刻な党内問題に直面した。ZNPにとっては、幹部の質によって、発生した問題の取り扱いは、それほど大変ではなかった。支持者たちに「今やASPは革新的になり、実際に心から独立を求めていると説得する必要があった。一般の党員にとってこれを認めるよう説得されること自体、難しいことだった。しかし組織の規律と、草の根の組織によって、党員と支持者に新しい状況を認めてもらうには、そんなに時間はかからなかった。

一方ASPの指導者にとっては、党員に独立支持の考えを認めさせるのは、大変な仕事になった。今まで、イギリスが手を引いて独立になれば、アラブ人がその権力を引き継ぎ、奴隷制を復活すると説明していたのだから、今や党員たちは、その仮定がどうして変更になったのか、全体の戦略的、政治的基盤を尋ねるのだった。この途方に暮れるような質問は、ASPの指導層、普通の党員両方に、重大な混乱をもたらした。この状況はアクラ会議、PAFMECAでの調停者には予見されていたことであった。我々がこれまで見てきたように、統一戦線の合意調印の前にすでにASPはこの混乱を恐れていた。この万が一の状態に対処するために、アクラ会議の調印の前に二つのことが明記された。その二つとは、

(1)両党は独立についての問題を普及するために、相手の党から党員を獲得するような事がないように、互いに協力しあう。

(2)もしこの統一戦線合意の結果、分派ができた場合、両党は協力してそれをとがめ、その分派グループを政治的に孤立させること。これは、両党によって合意された重要な約束であった。
しかし、統一戦線合意の数週間後ASPに分裂グループができたとき、ZNPの指導層は今までの敵対党の困難につけ込もうとする誘惑に耐えることができなかった。丁度そのとき、ZNPの書記長であり、ASP/ZNP統一戦線自由委員会の書記長が外国に行っており、アクラでの両党で交わされた約束の発動が起こされないことで、このことが容易になった。この不正行為はZNPの党の道徳の規準を取り戻すことができないくらい傷つけた。またこの事が、国家的統一への努力に水を差してしまった。そしてこの裏切りは、1961年の選挙、1964年の反乱へと続く血にまみれた道の前触れとなった。この嘆かわしい裏切りは、党への大量で急激なプチブル公務員の流入によって党内に起こった質的変化に党がみまわれていたことに原因があった。党は、党内闘争の激化のために右派と左派に分裂をはじめていた。右派はASPの分派グループと共通する要因を見つけていた。そして特に中心的指導者たちへの恐れを共有した。

このASPの分派は、ZNP右派によって当然支援されていた。ASP分派の指導者Mohamed Shamteは、自らを地主階級といっているが、それをもってこの分派を「地主階級の分派」と呼ぶのは正確ではない。この分派はASPの反動的小作農の分派というべきもので、大部分はペンバ島派閥を代表していた。この分派が起こしたザンジバル-ペンバ人民党(the Zanzibar and Pemba People's Party =ZPPP)は、ASPから地方の知識層と、当然多くの一般党員を引き抜いた。大部分のASPのペンバ、ザンジバル本島(ウングジャ)の地方の知識層は、彼らが言うところの「本土TANUのASP支配」に憤慨し、ZPPPを心から指導したいと思ってZPPPに入党した。

反植民地、そして植民地以後についての長期的視野を持っていたZNP左派とっては、ASPの分裂はもっとも忌まわしき事態であった。というのは分派へのZNPの支援は、とりもなおさずZNPを破局的状態にすると考えていたためである。ZNPの行為がZNPを約束の不履行という非難に直面させたことを離れれば、ASPはこの分裂で知識層を全く失ってしまい、ますます本土の指導力(TANU)に頼るようになっていった。それ以上にこの知識層の流出はASPを全くの弱い指導力に依存させる結果を招いた。それはよく言って、目的がなく、悪く言えば、党を壊滅させるものだった。この状況はZNP内部の類似した勢力を助長させたようだった。小さな喧嘩を減らしていくことで、解放から遠ざかっていく。

このASPの指導力の空洞化は、すぐにインド国民協会(INA)によってうめられた。例えば、国内で一番の金持ちの一人であるI.G.Rawel がペンバ党の代表になった。彼は党の政策決定に相当の影響力を持つようになる。ウングジャ(ザンジバル本島)では INAの総裁V.S.Patel と彼の腹心Rustam Sidhwaが党の政策に相当の影響力を与えるようになる。

植民地主義者はこの展開、本土の影響力の増大を喜んで歓迎した。ASPにおける代理人としてのTANUの支配は、TANUの中に積極的な反共産主義影響力を見ていた植民地主義者によって、しきりに支援された。

一方ZNP内の右派と左派の激しい対立が、党のASPへの対応、今や必然性を帯びてきた独立への戦略、そして独立後の計画をめぐって、不可避になってきた。都市や地方のプチブル知識層に指導された左派は、右派のASP分派への日和見的な立場を厳しく批判した。左派はASPとの闘争は根本的なものでも、敵対的なものでもないと考えていた。その闘争は通過点としてあり、ASPが独立闘争に敵対する限りなされるべきだと考えた。ひとたび彼らが、PAFMECAやアクラ会議の合意によって結成された自由委員会を通して、全面的に解放闘争に参加するのならば、ZNPは彼らを支援し、分裂のあとの知識的な指導力の欠如に指導力を与えなければならないと考えた。

左派はまた、ちっぽけな党の利害を優先させる誘惑に身を任せる危険を強調した。実際にこの事で、ASPは深く深く本土(TANU)と商業階級の支配の手の中に入っていった。もしこういった二つの状況がこのまま続くようならば、ザンジバルの独立への闘争は危険な状態になってしまうだろう。左派の中にはZNPを離脱して一括してASPに加入しようと提案するものもいた。しかし多くの左派は、ZNPこそ彼らが選び、作った最後の結論であり、彼らの不屈の活動の賜物だと考えたので、党に残り主導権を握る闘争に参加し党を確かな革命の道筋に戻そうと考えた。

今や政治的成熟は新しい高さに達していたから、彼ら左派のなすすべき仕事は政治思想のレベルを高めることだと多くは感じた。今までは左派の基本的な努力はZNPを大衆組織にするために、大衆を組織することにつぎ込まれていた。だから色々なレベルでの党の支局を作り、婦人と大衆運動を組織し、労働組合を支援し、党が選挙で票を集められるようにしてきた。確かに、政治思想の啓蒙はすでに行われていたし、レーニン主義に基礎を置いた党のパンフ「 Utawala wa Kibeberu=帝国主義の支配 」は広く学習されていた。しかしながら、そのときまでには、広い範囲での政治思想の学校と学習サークルを準備する時間がなかった。優先順位は当然広範囲な連帯であり、反植民地闘争の強調と、恐るべきASPの反解放闘争に対しての選挙での勝利が組織されなければならなかったのだ。

しかしながら、今状況は変化した。1番目にASPの指導層はPAFMECAとアクラ会議の勧告を受け、いやいやながらも独立を目指しはじめた。2番目にはASPとZNP両方の党の中の反動勢力が植民地主義者の積極的な支持を受けて、反社会主義、反革新の政治宣伝をはじめた。3番目にはZNPの右派が党の指導力の掌握のために卑怯で反則的な手段を使うのを厭わなくなり、後退するような政治宣伝を繰り広げた。4番目にはASPから分裂した連中が今や新党ZPPPを結成しとまどいながらも、内部の急進的、社会主義的部分を排除するという条件でZNPの右派との共闘に動き始めていた。
これら全ては数カ月前には全く予期されていなかった進展だった。これらの進展はペンバではなくウングジャ(ザンジバル本島)が歴史的に規定されていた独特の状況によって可能になったことだった。この独特さは当然膨大な本土からの移民によってきている。彼らはある時ははっきりと、ある時は潜在的にザンジバルの内政面で重要な役割を演じた。そして彼らは常に独立に反対するASPの立場を支持してきた。

左派にとってはこの問題はとてもデリケートで、取り扱いには慎重さを要求された。この状況が、左派が党を飛び出すよりも、ZNP内部、ザンジバル中に広く政治思想での 闘争が強く求められている、今がまさにそのときだと感じた理由の一つである。

1964.1.12のザンジバル革命まで(2/2)へ
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