旧中山道沿い碓氷峠への尾根に残る古道跡7 尾根道詳細図 地図はこちら

旧道の谷側に残る大規模掘割道跡は旧道が右へ直角に曲がるところから突然なくなっていました。いったいどうしたのでしょうか。これは掘割道跡ではなかったのかと考えてしまいました。霧が出てきてよくはわからないのですが、道跡の先は深い谷になっているようでした。

取り敢えず旧道を直角に曲がって上っていきます。しばらくして左手に墓地があるのが見られます。その墓地の中へ入ってみることにしました。そして何と墓地の裏手には大きな掘割道跡があるのでした。左の写真はその掘割道跡です。私は、先ほどの谷でなくなっていた掘割道跡とこの墓地の裏手の掘割道跡が繋がらないか確かめてみたくなりました。

そこで墓地裏の掘割道跡を下方へ降りていきました。途中から藪がひどくなり、自問自答しながら、誰がこれを道跡と思う人がいるものかと苦笑して下っていきます。やがて大きく崩れた急な下りの地形のところに出ました。底は深い谷のようで落ちたら大変なことになりそうです。引き戻そうかと思いましたが、よく見ると踏み跡のようなものが見られ、それに導かれて恐る恐る進んでみます。急な崖を這うようにトラバースして突然に開けたところにでました。そこは何と先ほどの旧道が直角に曲がっていたところでした。私の予想は的中しました。大きな掘割道跡は崖崩れなどでこの場所だけが崩壊していたものと推測できるのです。

右の写真は墓地裏にある掘割道跡を撮影したものです。

峠に上るにつれ霧が濃くなっていくのが感じられます。ここ碓氷峠の峠名である「うすい」とはどこからきているのか。最も古い文献資料には「うすひ」が多いといいます。「宇須比」や「碓日坂」などと書かれていて、江戸時代の地誌などでは(薄氷)ともあり、寒いところとしての意味にもとれます。また(薄陽)とする説があり濃霧が発生することが多いことから陽が薄いところだともいわれているようです。そして私が訪れた時もご覧のとおりに峠は濃い霧に包まれていて陽が薄かったのでした。

霧が頬を撫でていくと大変冷たいものを感じます。高山を一人で歩いているときのように誰か人影が道の向こうにいるような錯覚に捕らわれます。「誰がそこにいるのだろう」その人影は私に何かを語りかけているようにも感じられるのです。幻覚ではあるとはわかっていながら、人影と古道は私を何処へ誘おうとしているのか。何か目に見えないエネルギーに導かれてここまで来てしまったような思いがありました。

左の写真の道は旧碓氷峠へと向かう道で、写真左の一段上の道が霧積温泉方面への道であり、その道はまた安政遠足や和宮道へと続く道でもあります。

右の写真は安政遠足(和宮道)の道と霧積温泉へ向かう道の分岐です。写真右側の道が旧中山道坂本宿へと下っていく道です。霧積温泉は伝説によると昔から十一歳の子供を連れて行ってはいけないといわれているそうです。十一歳の子供は山の神の神隠しにあうと伝えられているのです。私は山岳会に入っていた時に一度だけ霧積温泉へ泊まったことがありますが、湯がぬるくて同行者の一人が温泉の中で寝てしまい中々戻ってこないので夜中に温泉に様子を見にいった記憶があります。また霧積温泉は森村誠一氏の推理小説である『人間の証明』の舞台としても知られています。

旧中山道と霧積温泉方面(及び和宮道)への道が分岐する地点に仁王門跡、及び思婦石があり、幾つかの石造物が立ち並んでいます。仁王門跡は、もと神宮寺の入口にあり、説明版によると元禄年間に再建されたが、明治維新の時に廃棄されて仁王像は熊野神社の神楽殿に保存されているそうです。思婦石(おもふいし)は群馬郡室田の国学者、関橋守の直筆の歌碑で、安政4年(1857)の建立てあるといいます。

ありし代にかへりみしてふ碓氷山今も恋しき吾妻路のそら

上の写真は碓氷貞光神社へ下りる道です。大きな掘割道は古い道ではないかと想像されますが、写真のこの場所を下ったあとに突然なくなっています。この掘割道は私が確認した限りではここに約70〜80メートルほど存在するだけのようなのです。写真の道を古道と見ることができるのかは私には判断が付きませんでした。霧の日に一度だけ訪れて古道か古道でないとか言える立場ではありません。いつかまた訪れてみて写真の道に繋がる道跡がないか探してみたいと思います。

左の写真は峠近くの道から上の写真の掘割道をやや下ったところにある碓氷貞光神社です。説明版の由緒には、碓氷峠熊野神社の境外社で源頼光の四天王の一人である碓氷貞光とその父、貞兼を祀る神社であるといいます。碓氷貞光はここ碓氷峠の山中で生まれたと伝えられていて、大江山酒呑童子討伐に頼光の従者として使えたといわれます。頼光の四天王とは、渡辺網、坂田金時、ト部季武、そして碓氷貞光です。碓氷貞光という人物と碓氷峠の古道と関連つける資料は見あたりませんが、同じ四天王の中に足柄峠の坂田金時の名があるのは興味深いところがあります。

上の写真の碓氷貞光神社の傍らに立つ説明版は「一つ家の碑」についてのものです。

八万三千八三六九三三四七一八二四五十三二四六百々四憶四六

上の文は「山道は寒く淋しな一つ家に夜ごと身にしむ百夜置く霜」と読み、この碑は昔は、ここより下ったところにあって、弁慶が爪で書いたという伝説がありましたが、天明3年(1783)の浅間山の大噴火の降砂のため行方がわからなくなり、その後に再建されたものだそうです。

また左の写真は一つ家の碑にならって、昭和30年に建てられた数字歌碑で「みくにふみの碑」といい熊野神社の近くにあります。

四四八四四七二八憶十百三九二二三四九十四万万四二三四万六一十

「よしやよし何は置くともみ国ぶみよくぞ読まましふみよまむ人」と読むそうです。

右の写真は碓氷峠の県境にある熊野神社の社殿です。三社の建物が並び表面からみて中央が本宮です。向かって右手が群馬県側で新宮、左手が長野県側で那智宮となっています。中央の社殿が県境になるように建てられていて、この神社と古い街道とは密接な関係があるとは思うのですが、果たしていつの時代からここに祀られていたものかは詳しいことはわかっていないようです。古代東山道との係わり合いなども研究者によって諸説があるようです。神社の由緒記に「昔時の当社神領は、東は上野国碓氷郡新堀村鳥居坂、西は信濃国佐久郡鳥居原村、各社に本社の大鳥居建設ありて・・」とあり、鳥居原は軽井沢町沓掛の南で入山峠道との関係が問われているようです。

右の写真は熊野神社境内にある石造の多重塔です。文和3年(1354)の銘が見られます。この多重塔は太平記にいう笛吹峠の戦で戦死した者の供養塔とする説があるようです。また神社には群馬県指定文化財の梵鐘が所蔵されていて、梵鐘には正応5年(1292)に松井田の十二人の結衆によって寄進されたもので、施入臼井到下今熊野神社大鐘事と刻まれています。この多重塔と梵鐘は中世の年号を正確に伝えるもので鎌倉時代中期以降には峠の熊野神社が存在していたことを物語ります。

熊野神社にはその他にも見るものが幾つかあり、追分節にも歌われている石の風車があります。室町時代の作と伝える狛犬はユニークな表情をしています。

左の写真は熊野神社の境内にある「シナノキ」です。長野県指定天然記念物になっていて、樹齢800余年と伝えられているそうです。説明版によると、「信濃にはこの木が多く一説には、信濃は科野なりともいわれる。シナノキは、日本特産の山地にはえる落葉高木で、樹皮はせんいが強いので布・なわなどの料に用いられた。」とあり、続いて、シナは、「結ぶ・しばる・くくるという意味のアイヌ語からきたものである。」と書かれていました。霧の中の大きなシナノキは、霊験あらたかなものの気配が感じられました。

旧碓氷峠への旧中山道と並行して残る東山道と呼ばれる道跡の探検もひとまずここで終わります。今回は大変大きな収穫が私しにはありました。この峠に至る東山道と呼ばれる道跡は幅広の規模が大きなものでした。予想以上の素晴らしい道跡が現在も沢山残されています。この道跡を昔のままの鎌倉街道として紹介するのは分類違いであると思われる方いることでしょう。一般的には碓氷峠の古道は鎌倉街道の分類には入らず、やはり東山道と呼ぶべきかも知れません。しかし鎌倉時代の『善光寺修行』でいうルートは鎌倉街道上道からここ碓氷峠を越え信州に入っているわけで、同じ道の続きと考えても、けしておかしくはないと思うのです。

実際に歩いてみて旧中山道と並行して残る掘割状遺構は関東各地の鎌倉街道(中世道跡)の一つとして十分に考えられと思います。更には古代駅路跡と重複しても考えられる大変大きな道跡でした。南の入山峠古道跡と比較しても現在残る両峠の道跡の規模では旧碓氷峠の尾根道のほうが駅路により近いようにも見えました。

峠の近くには見晴台があるようなのですが、この霧ではなにも見えないことでしょう。峠からは反対の軽井沢方面に下りていく旧中山道の道があるようです。その道も掘割道になっていて中世を偲ぶものがあるかも知れないのですが、次回のお楽しみにとって置きましょう。

峠から軽井沢に下りればそこは現在ではもう古道とは無縁の土地です。賑やかな軽井沢の町中に入る手前には二手橋という沢に架けられた橋があり、その場所は一ノ字山方面からの道と合流するところでもあります。その二手橋から少し一ノ字山方面に上がったところに室生犀星詩碑があり、昭和36年に建てられたものです。

我は張りつめる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張り詰めたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す

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