旧中山道沿い碓氷峠への尾根に残る古道跡3 尾根道詳細図 地図はこちら

戦のために道が造り変えられている。この説明書きからは、私自身の古道探索の視点変更を余儀無くさせられる内容のものでした。今まで足柄峠や箱根の湯坂道を何回か歩いていたのですが、中世古道や古代の道跡らしきものがほとんど見られず、フィールドワークの限界を感じ失望していたところでした。道の造り変えという視点から考えると、先ほどの大きな掘割地形が、突然崖でなくなっていたことにも説明が付きます。それは古い道が尾根ごとそっくり削られ、谷に変えられていたということです。しかも400年も前に人手によってなされたことなのです。道跡の突然の消滅は予想さっれる範囲内のこととして観察しなければならないようです。

掘り切りから先はしばらく狭い道が続きます。やがて右手の尾根中腹に石仏が現れます。それは南向馬頭観音と呼ばれている石仏で、寛政3年(1791)のものです。説明版によると昔、この付近は山賊が出たところだそうです。この辺りは南側が絶壁になっています。その先で旧道は尾根を切通しで越えて、尾根の北側に出たところにも石仏があり、そちらは北向馬頭観音と呼ばれていて、文化15年(1808)のもどであるそうです。上の写真がその北向馬頭観音の石像です。

上の写真は北向馬頭観音からしばらく進んだところに立つ説明版で、一里塚について書かれています。「座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。その途中に小山を切り開き『一里塚』がつくられている。」
説明版の付近から上っていく旧道があるということのようです。そこで私は迷うことなく、上の写真の説明版の裏側左手尾根に上がって行きました。尾根上に上がり少し進んだところに右写真のような素晴らしい掘割道跡が現れたのです。

左の写真のモッコリした小山が説明板でいう一里塚跡なのか?。掘割道脇の土塁状のようにも見えます。

とうとう有りました、こんなに素晴らしい中世的な古道跡が。これぞ紛れもない掘割状道路遺構です。しかもかなり規模が大きいようです。幅だけを見ても入山峠に残る掘割状遺構より広いようでっす。そうなると「堀り切り」前で見た突然崖で切れていた掘割地形は、この掘割状遺構に続いていたと考えられ、やはり道跡であったものと確信めいてきました。

これだけ大きな掘割状遺構が残っているなど予想外で、私は思わず童心になって喜んでしまいました。道跡の地形の古さも十分過ぎるくらい感じられ、とにかく立派なものです。苦労して刎石坂を上った甲斐がありました。しかしこの道跡はその大きさから中世古道というよりは、古代東山道と言った方が良いのかも知れません。

文句の付けようがない掘割状遺構ですが、旧中山道の陰に隠れてあまり知られていないのは残念です。道跡の地表は火山灰土のようで、発掘調査などはしずらい土のようです。文化財に値するほどの道跡と思われますが土地開発による破壊は、山の中であることから考え、よほどのことが無い限りはあり得ないとは思います。

上の写真は掘割状遺構が旧中山道の横断によって切られているところを撮影したものです。お椀の底のような滑らかな曲線を描く掘割状遺構ですが、手前で遺構は切られて崩れています。左の写真はその掘割状遺構が切られている底をのぞき込んで撮影したものです。この下の旧中山道の道端に説明版があり「座頭ころがし」とあります。もしも碓氷峠の旧中山道を歩かれていて、座頭ころがしの説明版のところに出たら、そこの尾根の上には掘割状遺構があります。興味のある方は尾根に上がって見てください。掘割状遺構を拝見することができます。

座頭ころがし(釜場)の説明版には「急なさ坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているのですべりやすい所ろである」と書かれています。そういえば箱根の石畳の旧道を歩いていたときも、確か座頭ころがしと言うところがあったのを思い出しました。座頭ころがしとは古い街道にはよくある名前なのかも知れません。

右の写真は旧中山道により切られた掘割状遺構の反対側に上って振り向いて撮影したものです。凹字型の掘割地形がわかりますが、更に写真の右にも別の掘割地形があるようです。この右側の掘割地形は家に帰ってから写真を見て気が付いたものです。ここは2本の古道が並行して通っていたのかも知れません。

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