旧中山道沿い碓氷峠への尾根に残る古道跡4 | 尾根道詳細図 | 地図はこちら |
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上の写真は一里塚の説明版から少し先に進んだ辺りの旧中山道の道を振り向いて撮影したものです。写真の右手の尾根上に前項で説明させて頂いた大きな掘割状遺構が残っています。写真左手の沢はこの付近が最上部で旧中山道は沢を周り込むようにして進んで行きます。写真を見て頂けるとお解りのとおりに新緑がとても綺麗でした。旧中山道の碓氷峠への道は、山中であることが幸いし、昔のままの姿が残されていて古道歩きの楽しさを満喫させてくれます。皆さんも新緑や紅葉の季節にぜひ一度、歩かれてみるのは如何でしょうか。 |
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一里塚の説明版のところから尾根に上がってしまったために、そこから先、「座頭ころがし」までの旧中山道の道を歩き逃してしまいました。そこでまた一度、一里塚の説明版のところまで戻ってみました。説明版からの旧中山道の道はその先で右へ曲がって行き深い切通しで左に周り込み、座頭ころがしの説明版のところで掘割状遺構を横断しています。結局、旧中山道は北側から入り込む沢の最上部を周り込むように屈曲しているのでした。 |
上の写真と右の写真は、旧中山道の深い切通し道です。切通しの深さは3メートル以上はあるものと思われます。切通しの両壁の傾斜が崩れかけているため、中世古道などの掘割状遺構より新しいことが窺えます。道底はしっかりしていて歩きやすく今も人の往来があることが想像できます。 | ![]() |
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一方、左の写真は座頭ころがし付近の尾根上に残る掘割状遺構です。掘割の両壁は均整のとれた曲線を描いています。これは両壁が長い年月を掛けて崩れた後の姿で、掘割の古さを物語ります。掘割の底は落ち葉や木の枝などが体積していて、今では人が歩いている痕跡は全く感じられません。本来の道底は地中に埋まっているものと思われます。こちらは全くの廃道であるわけです。 |
右の写真は掘割状遺構を横から眺めたものです。表面よりも横、ないしは斜めから見下ろすように見てみると、遠近感が出て、かっての道跡であったことがより一層に実感できます。
私が鎌倉街道に興味を持った切っ掛けはは、今も山林にこのようにして残る道跡を見つけ、中世以来のその後、現在に至る「道」の迫力に魅せられてからでした。各地の主だった古道跡を見てきて、中世以前の道は予想をはるかに上回る幅と規模を持っていたことが実感できました。この碓氷峠の廃道も幾度か大軍勢が駆け抜けて行ったことでしょう。 |
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歴史地理学とか古道研究というのは、歴史全般の視点からはあまり注目されていないところがあるように思えます。歴史は文献からの研究が中心で、それを補足するものとして考古学等があり、歴史学の地理的な研究はあまり進んでいないように感じられます。現在、首都圏などの平地では、次々と古道跡は無慈悲に破壊されています。古道そのものは歴史的・文化財的な価値が低いと思われているようで大変に残念なことです。 左の写真は上の掘割状遺構を更に西へ進んで行った付近で、座頭ころがしの切通しから300メートルほど峠寄りになり、ここからは低木の藪が覆っていました。 |
歴史学と地理学は大いに密接な関係があるのではないかと感じています。歴史の流れの中で古道の果たした役割は大変重要なものだと思うのです。ホームページを作成してから、古城に興味のある数人の方々からよくメールを頂きます。権力の中心である城と城を結ぶものが道であります。また合戦での勝敗などは、地理的なものの影響が大いに左右したのではないかとそう思うところがあるのです。
右の写真は座頭ころがしから先に進んだ付近の旧中山道の道です。こちらは路面幅の狭いV字形の掘割道になっています。 |
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座頭ころがし付近から続いていた掘割状遺構は500メートルほど先で旧中山道に吸収されるように終わっています。座頭ころがしの説明版の少し先に廃車があるのですが、ここまでどうやって車を移動したのか大変不思議に思います。上の写真のような道を車が通れるとは思はれないのですが何故なのか。たかがの廃車ですが、古道解明の鍵が隠されていたりするものです?
道はやがて広く明るいところに出ます。そこには左手の沢から登ってくる別の道が合流してきています。合流してきた道は「御巡幸道路」といい、明治11年に明治天皇の北陸東海御巡幸のときに新たに造られた道であるといわれます。 |
現在ではこの御巡幸道路は通行禁止となっているようです。この道の沢筋を通過するところなどでは道が崩壊しているもようです。登りやすいように新しく造られた道ではありましたが、現在の旧国道18号線が開通するとこの御巡幸道路も役割を終えることになったようです。
御巡幸道路が合流した付近には巡査派出所跡があります。ここにも説明版が立っています。右の写真は巡査派出所跡から少し進んだ付近で道の南側が深い崖になっています。 |
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やがて道の南側が大きく崩れたところに出ます。道幅が極端に狭くなっていて、崖の反対側の山側は崩れた土壁になっています。その土壁をよく見てみると三島市の平安・鎌倉古道を林道が横切る地点で見られたときのような、お椀底形の地層がここにも見られるのでした。平均的に体積した地層と違い不自然な地層の断面です。更に注意して地層を観察すると、ローム層から上部の黒ずんだ地層の堆積はお椀底形に合わせたようにして筋が見られます。黒ずんだ体積層は火山灰のようです。手で体積層の土に触れてみると柔らかい土であることがわかります。道路の長年の使用に伴う硬化層とも違うようです。果たしてこの土壁の上に何があるのか、強行に上がってみることにしました。 |
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するとどうでしょうか。左写真のような見事な掘割状遺構がその上に現れたのです。この掘割状遺構はここでプッツリと切れて崖になっていたのです。そしてそこの崖壁には上の写真のようなお椀底形の地層が見られるのです。これは素人の私が見ても自然の侵食による地形ではないことは確認できます。写真の窪んだ地形は人工的に堀り込まれたものである可能性が大なのです。 |
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