上信国境の入山峠に残る古道跡6 | ![]() |
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この堀状の道跡は人為的に堀込まれたものなのか、あるいは人馬の走行により地面が削られてできたものなのか。表土や凹形の地表観察だけでは中世まで遡れる道跡かどうかは判断は付けられません。やはり専門家が調査してみないことにはどれだけ古い道跡かはわからないのではないでしょうか。専門家の方でも道跡の時代測定は難しいものだと聞きます。 |
入山峠頂上の祭祀遺跡の発掘は古い東山道の通過地点としての調査でしたので、実際に「道」としての遺構などが発見されているわけではないのです。入山峠が古い峠越えの道であったのかは、道そのものの調査が必要ではないかと素人ながらも考えます。私が調べた資料には入山峠の東西に残る掘割道跡について、古道の紹介として触れられたものはまだ見ていません。
右の写真は大きな掘割道跡の南側に20メートル位離れて並行して残る別の道跡です。この辺りには道跡が何本か並行して通っているようなのです。 |
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左の写真と下の写真は上の写真同様に大きな掘割道に並行するように残る別の道跡で、大きな掘割道の測道などの跡ではないかと思われます。
現在残る入山峠の道跡は古道研究の対象にはならないものなのでしょうか。古道は歴史的遺産として捉えることの少ないのが現状です。この道跡も何れは開発の手が入って消滅してしまう運命なのではないかという心配があります。 |
下の写真は古い道跡が別荘の建ち並ぶ付近まで下りてきたところです。ここから先は入山峠西側の掘割状遺構も終わっていました。
ここまで紹介してきた入山峠古道は、果たして鎌倉街道と呼べるものなのでしょうか。入山峠が鎌倉時代の道として関連付けられる資料は何かないものかと作者なりに調べてみました。少しだけ資料を見つけられ、中世の入山峠として触れておきたいと思います。 『群馬県歴史の道調査報告書鎌倉街道』によると藤岡から吉井・富岡・下仁田と続く鎌倉街道の伝承があることが記述されています。 |
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下仁田から西は県道下仁田・臼田線に沿った鎌倉街道があり佐久へ抜けていたようです。また下仁田から塩之沢峠・檜沢峠を越え上野村に連絡していた鎌倉街道もあったということです。これらのルートは南に寄りすぎていて碓氷坂越えと呼ぶにはいささか無理があるようです。しかし源頼朝に仕えた信濃の御家人の平賀・志賀・小諸・望月氏等は東山道より南側の、より鎌倉へと近い志賀越え、内山峠、田口峠などを利用していたと思われているようです。 |
軽井沢町教育委員会の『入山峠・長野県北佐久郡軽井沢町入山峠祭祀遺跡発掘調査報告書』では古代碓氷坂考(一志茂樹氏)の項に鎌倉街道と関連がありそうな記事が載っています。
『神道集』八巻「四十八上野国那波八郎大明神事」の中に「都より金の使として奥州へ下った」との記事と昔は「毛無通が奥の大道」であったとの記事で、「奥の大道」の称呼は、鎌倉時代に入っても使用されている(建長8年6月2日附北条時頼下知状に奥大道夜討強盗事とある)が、東山道のことである。 |
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毛無通は碓氷坂越えのことであるとして、『安中志』入山村の項に、「軽井沢の方より入には、少し登りて、嶺といえり、夫より七曲とか云て、毛無谷へ下り、田畑いささか見ゆ」とあることとあわせて考え、それが入山峠越えを指してのものであろうこともおよそ推考に難くない。 更に『唐糸草紙』の次の文を引用しています。「万寿の姫は、雨の宮を立出て、通るところはどこどこそ、親子の契りは、深志の里こそめでたけれ。浅間の嶽に立つ煙、身にはあまれる思ひにや、いま入山をうち過ぎて、上野国に隠れなき常盤の宿をもうちこえて、一の御宮をふし拝み、二のたまはらに出しかば、」。『唐糸草紙』は『御伽草子』の中の一話で史実とは考えられませんが、万寿姫が母の唐糸に会いに信濃から鎌倉へ向かう道程中で入山の名が登場するのは興味深いものがあります。 |
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熊野神社がある旧中山道の旧碓氷峠とここ入山峠は古来の碓氷坂の道がどちらかを通っていたと考えられていることは前にも触れてみました。旧中山道が有名なために入山峠はあまり知られていませんが、旧中山道は標高が1200メートル近くあり尾根の嶮しい道であるの対して、入山峠は標高が1030メートルほどで低く、峠東直下の急坂以外は歩きやすい道です。入山峠道が古来より断続的に使われてきたことは現在碓氷バイパスがこの峠を越えていることからも判断が付きます。ここは人が越えやすい峠なのです。 |
上と右の写真は別荘地の中へ消えていく峠道を撮影したものです。
入山峠の古道は東山道の長倉駅の存在した地点へと西へ向かいます。長倉駅(古代駅制の駅家)は軽井沢町の長倉にあったと考えられています。更にその西は信濃国分寺から保福寺峠をへて信濃国府(松本市?上田市?)へ向かう官制下の東山道と佐久から雨境峠(北佐久群立科町)を経て諏訪方面に向かう古東山道のルートが推定されています。 最後に私個人の意見として、この入山峠の古道跡が誰もが散策できるように復元再生されることを願ってやみません。 |
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参考資料 碓氷峠:足柄峠への古道 蜂矢敬啓 高文堂出版社 歴史と風土 碓氷峠 萩原 進 有峰書店新社 碓氷峠の歴史物語 小林 收 櫟 入山峠 ・長野県北佐久郡軽井沢町入山峠祭祀遺跡発掘調査報告書 軽井沢町教育委員会 歴史の道調査報告書東山道 群馬県教育委員会文化財保護課/編 群馬県教育委員会 歴史の道調査報告書鎌倉街道 群馬県教育委員会文化財保護課/編 群馬県教育委員会 その他各市町村史等 |
昔のままの鎌倉街道 | ![]() |
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