上信国境の入山峠に残る古道跡4 | ![]() |
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左の写真は入山峠の頂上付近を撮影したものです。今まで上ってきた道が完全な廃道でしたが、峠の頂き付近には石畳みが敷かれていて人の往来が最近まであったことを窺わせます。碓氷バイパスの完成後には徒歩でしか通れないこの峠道は、歩いて通る人もほとんどいなくなり、今では峠の東直下の急坂は、見るも無惨な廃道となっていたのです。太古の昔から人々が越えて行った歴史ある峠の古道は、車社会の現在に至っては全く無益な道となってしまったようです。この古道は現在人から忘れ去られた淋しい峠道なのであります。 |
右の写真は峠頂上にある馬頭観音の石碑です。石碑には文化15年(1818)7月10日の日付が見られ江戸時代の後期にもこの峠の古道を越える人の往来があったことを窺わせます。写真の後方の白いガードは入山峠古道を東と西に分断して造られた旧町道と碓氷バイパスの境をなすものです。写真の石碑の下を通る石畳の古道の対面には、入山峠祭祀遺跡の説明版が立っています。 | ![]() |
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左の写真は入山峠の頂きにある古代祭祀遺跡地でご覧の説明版が立っています。この遺跡は昭和30年(1955)に道路工事と並行して最初に発掘調査が行われていて、その後の昭和44年(1969)にも軽井沢教育委員会などによって調査されています。調査の結果「さぬ」と呼ばれる古代人が峠の神に奉る石像模祭器(剣、曲玉、管玉等)及び土器片などがこの付近から多数発見されています。 |
入山峠の頂上で古墳などから出土する玉類に似た石製模造品が出土していたことは江戸時代から知られていたようで、入山峠は珠数石峠とも呼ばれていたようです。これを古代の祭祀遺跡ではないかと発表したのが群馬県文化財専門委員の山崎義雄氏でした。 現在までに峠の祭祀遺跡として信濃国を通る推定東山道上の神坂峠(岐阜県中津川市)・雨境峠(北佐久群立科町)とここ入山峠の三つがよく知られています。 右の写真は峠から群馬県側を眺めたものです。 |
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祭祀遺跡とはいかなるものなのかと初めて聞いたという人も多い事と思いますので、ここでは軽く触れて置きたいと思います。
昔の日本人は山や海、川や湖沼、岩や大きな樹木などの自然物に神霊を感じて祀る習慣ありました。日本の神道はそのような自然崇拝から始まっているといわれます。 昔の旅人にとっては、山越えの峠や河越などの難所には、荒ぶる神がいて何時そのような神が怒りをあらわにして旅人に難を投げかけるかと恐をいだきながら旅をしていたようです。現在のような高速交通の時代では、旅人は乗物の切符を買ってしまえば後は乗物に乗って目的地へと運んでもらうだけですが、昔は旅といえば自分自身の徒歩に頼るしかなかったのです。 峠越えは旅人にとっては難関であり人々は峠の神の怒りを恐れたものです。転落や落石、気象条件が悪化したりする自然災害は、峠の神のなす事と信じていたのです。人々はそのような峠の神の怒りを鎮めるために、宝物であった玉類や剣そして鏡などの石製模造品を造り峠の神に捧げ旅の安全を祈念したのです。その跡の遺跡が祭祀遺跡というわけです。峠の語源として「手向け(たむけ)」とする説があります。手向けとは神仏に捧げることで、そのように考えると祭祀遺跡とは峠そのものの遺跡とも言えそうです。 旅先で出会う自然物には全て神が宿り道端や辻、追分け、橋、峠等には神や仏に似たてた石像物が近年(戦前頃)までは造られ祀られてきたものです。日本の長い歴史をみると太古の昔がら数千年と続けられて来た行為ですが、戦後50年のほんの短い間にそのような行為は随分廃れてしまいました。自然に対する日本人の謙虚さが失われてしまったのではないでしょうか。 |
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入山峠の祭祀遺跡は出土した土師器から古墳時代のものと考えられていて、東山道が造られた時代よりも古いことから、奈良時代よりも更に古い東山道の前身の古東山道がこの峠を越えていたとも思われています。或いはこの遺跡は峠や道と関連付けずに浅間山の山岳信仰と見る説などもあるようです。
左の写真は峠の頂上付近にある碓氷バイパスを渡る旧町道の橋上から撮影した浅間山の眺めです。 |
ここで一息入れて碓氷峠に関連した万葉歌を二首紹介します。
万葉集第十四巻 3402 日暮れ時なのに、あの方が碓氷の山を越えていかれた日に、あの方がお振りになられた袖がはっきりと見えた。 万葉集第二十巻 4407 日が曇り、薄日がさすという碓氷の坂を越えるにつれ、後に残して来た妻が恋しくて忘れられない。 この東歌、防人歌の碓氷が入山峠か旧碓氷峠かはわかりませんんが、関東の古代人が碓氷坂を越えることは故郷を隔てることであり、碓氷坂は一つの地理的境界線であったのでしょう。旅人がここを越えることによって旅人を送る側、故郷に妻を置いて旅をする者の側双方に感慨深いものがあったことでしょう。 関東の南の表玄関が東海道の足柄坂で、そこからは富士山が望まれ、北の表玄関の東山道は碓氷坂を越え、ここでは浅間山が望まれ、それぞれの坂には象徴的な山が望まれるのは偶然の一致なのでしょうか。 |
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峠の頂上部を横切る碓氷バイパスを渡って峠の西側(軽井沢町)へ下り始めるとそこには上の写真のような掘割状遺構が続いているのでした。あまりにも大きく見事な掘割状遺構に感激するというよりも驚きの一言です。
この鎌倉街道のホームページを見ていて「掘割状遺構」という言葉を初めて聞き、それがどんなものなのかと思われていた方も多いのではないかと思います。掘割状遺構とは上の写真のような椀底のカーブを描いた掘割状の道跡のことなのです。実際には道跡以外でも写真のような地形の遺構を掘割状遺構ということもありますが基本的は道跡のことと考えてもよいと思われます。掘割状遺構は薄暗い山林の中に残ることが多いので写真を撮影しづらいのですが、この付近では4月の後半だというのに樹木の葉はまだ出ていなく、冬枯れのような風景で視界が良く掘割状遺構が大きく見渡せました。 |
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ここの峠に訪れるにあたって、事前に資料で峠の西側には古い道跡が残っているらしいという情報は得ていたのですが、これほど見事な掘割状遺構とは思ってはいませんでした。道跡の幅といい、堀状の深さといい、視界の良さも手伝って、大変に大きく迫力があるものです。
掘割状遺構は傾斜地によく見られるものなので、切通と同じような意味合いと考えてしまいます。しかしこれは堀状の道跡と考えるべきだと思います。当然ながら切通の跡と考えることもできるのです。(ややこしい) |
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