上信国境の入山峠に残る古道跡5 地図はこちら

入山峠の頂上付近は標高が1000メートルほどあり、4月半ばだというのに樹木の枝は冬枯れのままです。峠への上り始めの松井田町の山麓では新緑がみずみずしかったのに軽井沢側はまだ真冬の風景です。掘割状遺構には枯れ葉が積もっていて、その枯れ葉の堆積状態からみて、最近ここを人が歩いたけはいは感じられません。

入山峠道は江戸時代には中山道の裏街道として関所破りの旅人がこの峠道を利用することを厳しく取り締まっていたものと思われます。文政8年(1825)に入山道における旅人や牛馬の通行禁止に対して信州に所領や知行所をもつ諸藩や旗本が、道中奉行へ入山道の付通(つけどお)し認可の申請を行ったということです。それにより信州七家に限り廻米と払い米の輸送が許可されたそうです。江戸時代の人にとっても入山峠は物資の輸送に適していた道であったのでしょう。この大きな掘割道は米を積んだ荷車などの走行の跡とも思われます。

掘割状遺構は峠を横切るバイパスの車道脇から始まり、扇平という広い緩斜面を北西方向で浅間山を目指すように下っていきます。大きな屈曲は無くほぼ直線的に進み別荘が建ち並ぶ付近まで約800メートル位の長さで残存しています。堀状の土手上から眺めると城跡や館跡などの空掘そっくりです。鎌倉街道が長掘道などと呼ばれているところがあったように、この掘割状遺構も長堀道のような姿をしています。

掘状の深さは2〜3メートルとかなり深いようです。ところによっては掘状の道跡が二段造りのようになっているところもあります。道跡の幅は私の私見ですが、3〜8メートル位と場所によってかなりの差違がみられます。道跡の形状から判断すると最近までは使用されていたのではないかと思われます。碓氷バイパスができる以前までは道としては機能していたのではないでしょうか。

果たしてこの掘割状遺構が古代の東山道跡なのか、または中世の鎌倉への道跡のかは、それらを裏付ける資料は私はまだ見ていません。またこの掘割状遺構が江戸時代以降の比較的に新しい道跡である可能性も考えられるのです。

道跡は現在の姿を伝えているだけです。その歴史的な背景は語りかけてはくれません。

この付近の地表土は火山灰による粗い砂状のものです。浅間山の噴火の際に堆積したものなのでしょう。降雨による水流は地表を流れる前に地中へと染み込んでしまいそうです。よく丘陵や山地に残る掘割状遺構は傾斜地では水流による浸食を受けやすく、一部が沢のようになっているのを見掛けます。しかしここの掘割状遺構はそのような水流の跡はあまり見られませんでした。

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