道中帳 

青字は、「旅へのいざない」による注釈です。

赤字は、私が付け足した注釈です。

道中帳

買物覚、金払口

(巻頭・巻末に記載されたものを日付順に示す)

解説(新暦で記載)

同時期の出来事

4/1(3/30)

たかだ町出口ニ川あり 板はし五十間なり

一 高田よりかすが(春日)新田へ 二り

 左りニ見るハ今町みなとなり これよりはまべなり

一 かすがしんでんよりくろい(黒井)ヘ 一里

 此間ニ小川あり はしなれ共此節はしを()ぢ 舟越ちん三文

一 くろいよりかだ町(潟町)へ ニり

 此所より右ニ見ル大だげハ米山なり さきさきハ此山の下タ通ルなり

一 片町よりかぎさき(柿崎)へ 二里半

 かぎさぎ入ロニ小川あり 常ハはし此節舟渡シ ちん四文

一 柿さぎよりはす崎(鉢崎)ヘ 一り廿八丁

 はすさぎ出口ニ御番所あり小坂あり 次ニ小村あり

 次ニ小坂あり此坂をかめわり坂トいふなり

一 はすさぎよりあゆわ(上輪)新田村ヘ 一り

 此所ハあい()のしぐ(宿) 茶屋計三四軒あり 此茶屋ニ而べんけい(弁慶)ノカもぢ()あり

四月一日

 あいわ(上輪)しんでん泊り ことぶきや久七

 木せん三十五文 米五十文

1866/5/14

高田(上越市高田)から関川を渡り春日新田(上越市)へ。ここから海岸沿いのルートとなる。春日新田から保倉川を越えて黒井(上越市)、潟町(上越市:旧大潟町)。この付近から東側に米山(992.6m)が見えるという。潟町から柿崎川を渡り柿崎(上越市:旧中頚城郡柿崎町)、鉢崎(はっさき 柏崎市米山)。鉢崎は現在の地図上にはない地名。柏崎市米山町にある郵便局名に残る。また米山駅も昔は鉢崎駅だった。

鉢崎には関所があった。鉢崎から亀割坂を越えて上輪新田へ。当地は鉢崎が宿場町で、上輪新田は「間の宿」だった。

上輪新田に宿泊。

3/30

4/2(4/1)

次ニ小坂四ツあり

一 あいわよりくちらはま(鯨浜)へ 二り

一 くちらはまより柏さき(柏崎)へ 壱り

 柏さぎ入ニ小川ありはし 此町宜敷所なり

一 かしわさぎよりあらはま(荒浜)へ 二り

 此所より長銭なり 此間ニ小川あり舟渡ちん六文

  (※ 長銭=百文を以て百文に通用する習慣)

一 あらはまより宮川ヘ 一り

一 みや川よりしいや(椎谷)ヘ 一り

一 しいやより石地ヘ 一り半

一 いしちよりいぢもさぎ(出雲崎)へ 二り

一 いちもさぎより山田へ 二り

四月二日

一 山田泊り 寺村又右衛門

 木銭四十弐文 米五十七文

此しぐ(宿)宿屋二三軒外無之至て不宜しぐなり 可成ハ二り向へ越 寺とまり(寺泊)へとまり可申候

長銭四月二日

一 山田ニ而うり 八百三十五文

1866/5/15

上輪新田から鯨浜、鵜川を渡り柏崎、鯖石川を渡り荒浜へ(以上柏崎市)、宮川、椎谷(以上刈羽郡刈羽村)、石地(柏崎市:旧刈羽郡西山町)、出雲崎(三島郡出雲崎町)、山田(長岡市:旧三島郡寺泊町)。上輪新田から山田まで、概ね海岸沿いのルート。山田に宿泊。

4/1

4/3(4/2)

一 山田より寺とまりヘ ニり

 寺とまりよりはまベ(浜辺)一り下り山ベニ石ノとうろうあり これより弘智法院()へ行なり 但し十八丁上り

 此所寺ハ方丈ニ役寺あり

 弘智法院御年七十五之時此寺なお()したもふなり 其時ハ 貞治二年癸ノ卯ノ十月二日なり 此年迄四百五十九年なり

一 こちほういんよりやひこ(弥彦)へ 二り

 此間山坂なり 次ニ小村あり次ニやひこ明神大社なり う()の鳥ノす()沢山あり 此宮ハかけこしなり

一 やひこより岩むろ(岩室)ヘ 一り

 此所よりちか道たぢ()ね可申候

一 いわむろよりのゝめ(布目)ヘ ニり

 此間松山トいふ村あり

一 のゝめよりあがつか(赤塚)ヘ 一り

四月三日

一 あがつか泊り 問屋太郎左衛門

  木銭四十文 米五十文

  金長せんニ而六〆六百八十文

1866/5/16

山田から寺泊(以上長岡市:旧三島郡寺泊町)へ。ここから浜辺を進み、海雲山滝泉院西生寺へ。ここは真言宗の古刹で、弘智法印の即身仏で有名。この即身仏は日本最古で、1363(貞治2年)102日入定(御歳66)。「御年七十五之時」というのは間違い。1866年で503年経過しているので、「此年迄四百五十九年なり」も間違い。

西生寺から東へ進み山を越えて弥彦(新潟県西蒲原郡弥彦村)へ。ここには弥彦神社がある。弥彦から岩室(新潟市:旧西蒲原郡岩室村)へ行き、道を尋ね、布目(新潟市:旧西蒲原郡巻町)、松山新田(新潟市:旧西蒲原郡巻町)と進み、赤塚(新潟市)で宿泊。

4/2

4/4(4/3)

一 あがつかよりうちのへ 二り

一 内野よりにいがだ(新潟)へ 三り

 此間ハはまべ計家も宿も無之候 又にいがだより松がさぎ(松ヶ崎)へ舟ニのる所なり 尤此みなと() 川数八千八川合るなり 右之川おち合を松がさぎへ舟ニのる場所なり にいがだより松がさぎへ舟道三り

舟ちん壱入ニ付七十五文なり せんど(船頭)ハ ニノ町ふじや善助ト申者頼申候

尤 木ざき付(木崎着)可申トいろいろすゝめ候得共 ぜひぜひ松がさぎへ付()ト可申候てぜひぜひ松ケさぎへ付可申候 左様無之候て木ざきへ付バ 半り廻り其上大川舟越無之候

一 松がさき(松ヶ崎)よりしまみはまヘ 一り半

一 嶋見浜より次第浜へ 三り

四月四日

一 しだいはま泊り 舛屋卯之助

 米五十文 木せん四十五文

1866/5/17

赤塚(新潟市)から内野(新潟市)を通り新潟(新潟市)

新潟から信濃川・阿賀野川河口を通る水路(通船川)を舟で移動し松崎へ。松崎から島見町(以上新潟市)、次第浜(新潟県北蒲原郡聖籠町)

次第浜で宿泊。

4/3

4/5(4/4)

しだいはまより右ノ方へ松山を壱り計行バ いなりば(稲荷岡)トいふ村あり 次ニ小川あり板はし

一 次第浜よりついぢ(築地)  三り

 次ニ小松原行次ニ川あり 此川右て下るなり 次小村あり

一 ついぢよりきのと()へ 二里

 此所きのとノ大日堂大社なり 村より一丁計左りなり 入ロニ左右ニ石とうろうあり 小ばし次ニ左右ニはすいけ(蓮池)なり これより本社迄切石なり仁王門あり次ニ右ニ三ケへとう(三重塔)あり左りニつりがね堂あり次ニ石とうろうあり 本社大間七間四めあしかや(葦萱)ぶぎなり

一 きのとよりもゝざき(桃崎)ヘ 一り

 次ニもゝざきみなと川 舟渡シちん三十文

一 もゝざきよりしをや(塩谷)へ 十八丁

一 しをやより岩舟ヘ 一り半

 岩舟町出口ニみなと川あり 板はし五十間なり これ迄はまべなり これよりおか()地なり

一 いわふねより村上ヘ 一り

村上城下 五万石 内藤上野守

 次ニ町出口ニ川ありかち(徒行)渡し 次ニ小村あり 次ニせなみ(瀬波)川舟渡ちん廿七文 次ニ小村あり

一 村上よりさる沢(猿沢)ヘ ニり

四月五日

一 さる沢泊り 熊野屋久兵衛

 此宿ハあいぢ(会津)家中ノ定宿なり

 木銭四十三文 米五十文

 金長せんニ而六〆六百文

1866/5/18

次第浜(聖籠町)から内陸側に進み、稲荷岡(新発田市:旧北蒲原郡紫雲寺町)、落堀川にかかる橋を渡り、築地(胎内市:旧中条町)、胎内川を渡り乙(胎内市:旧中条町)へ。

乙の大日堂とは真言宗智山派の乙宝寺。三重塔は国の重要文化財。

乙から荒川河口近くの桃崎浜(胎内市:旧中条町)に行き、舟で荒川を渡り塩谷(岩船郡神林村)に上陸。海岸線沿いに岩船(村上市)、岩船から内陸側に進み、村上城下(村上市)へ。

村上藩は5万石の譜代大名で当時の藩主は内藤信民(従五位下、豊前守)、先代の信思は紀伊守)

村上から門前川を渡り、次に瀬波川(三面川)を舟で渡り、猿沢(岩船郡朝日村)へ。猿沢で宿泊。

4/4

4/6(4/5)

一 さる沢よりしほノ(塩野)町ヘ 一り半

一 しほノ町よりぶどう(葡萄)へ 二り

 此間二坂あり

一 ぶどうより大沢へ 二り

 此間山坂なり

一 大沢より中村へ 廿九丁

 大沢より中村ノ間小村あり 下り坂なり

一 中村よりあら川(荒川)へ 十八丁

 此間ニ中村出口ニ小川ありかち渡し 次ニ小村あり 次ニ山坂なり

一 あら川より中つぐ(中継)へ 二丁

中つぐ出口ニ小川ありこい()る所なり 次二山坂なり

一 なかつぐより大まだ(小俣)ヘ 一り

此間山坂なり

一 おまだよりおなべ(小名部)へ 廿八丁

 此間山坂なり 尤越後ト出羽ノ境なり

一 おなべより小国ヘ 一り半

 此間山坂なり 尤おぐにノ町ニ出羽庄内の御関所あり 此所ニ而庄内入切手被下候 此町出口小川あり板はし 此川右てのぼるなり

一 おぐによりきの又(木野俣)へ 一り半

四月六日

一 きのまだ(木野俣)泊り あふみや甚内

 木せん四十文 米五十四文

1866/5/19

猿沢から塩野・葡萄(以上、新潟県岩船郡朝日村)、峠を越えて大沢・中村(北中)・荒川・中継・小俣(以上、新潟県岩船郡山北町)

北中までは概ね現在の国道7号線沿いのルート。

小俣から北へ進み、小名部(山形県鶴岡市:旧西田川郡温海町)へ。小俣・小名部の間にある堀切峠が越後と出羽の国境・新潟県と山形県の県境。ここから更に北へ進み、小国(鶴岡市:旧温海町)へ。小国の町出口に鶴岡藩(庄内藩)の関所があった。小国から小国川沿いに上流側()へ進み、木野俣(鶴岡市:旧温海町)で宿泊。

4/5

4/7(4/6)

一 きの又おつミ川(温海川)ヘ 一り半

 此間山坂なり 小村あり小川あり

一 おつミ川よりゆだ川(湯田川)へ 三り半

 此間ニをにがとうげ(鬼ケ峠)トいふ坂あり

一 ゆだ川よりつるをが(鶴岡)ヘ 一り半

出羽庄内 つるがおがノ城下

拾四万八千石 酒井左衛門丈

 此所五り四方田部 宜敷所なり 次ニぽん字川(梵字川)舟渡ちん廿弐文

一 つるが岡よりはぐろ山(羽黒山)ふ本()迄 二り半

四月七日

一 ふもど()ノ町泊り 正丈坊

 はたご百六十文

尤此宿ハ奥州改役也 外ニ御宿坊ハ有之候得共 御しくぼ(宿坊)へ参候ヘバ三人壱歩前 此改役へ無心致泊ルなり これニ而先々の事ハたぢ()ぬるべし

1866/5/20

木野股・温海川(鶴岡市:旧温海町)・鬼坂峠を越えて湯田川(鶴岡市)、鶴岡(鶴岡市)

鶴岡は鶴岡藩の城下町。148千石とあるが、元々14万石で元治元年に加増され167千石だった。当時の藩主は酒井忠篤(従四位下左衛門尉)

鶴岡から梵字川(赤川)を渡り羽黒山麓の町(羽黒町手向)に行き、正丈坊に宿泊。

正丈坊は奥州改役。他の宿坊は三人で一分の料金、つまり1/4両。16600文とすると、1650文となり、一人当たり550文となる。これに対し、正丈坊は旅篭代160文。

4/6

4/8(4/7)

次ニ一丁行石鳥居あり左り二くわんおん(観音)堂あり これより仁王門迄十八丁町なり 仁王門前左ニぢんめ(神馬)ふあり次ニ仁王門あり これより本社迄十八丁の間惣切石なり 又仁王より一丁下り小川ありそり()橋 次ニ左りニ五ケへノ堂(五重塔)あり 次ニ一ノ坂ニノ坂 次ニ御本坊門前ニいけ()ありそりはし 御門二十五間ニ三間 御家ハ筆紙ニ及兼候 次ニ三ノ坂此坂ハ八まん坂トもいふなり 次ハ御本社十四間四めい()惣丸柱しうぬり(朱塗) わに口(鰐口)九尺ノさし渡し 大つりがね(釣鐘)あり 御本社前いけあり まつ()社ハ筆紙二及兼候 但し本社前ニからがねノ鳥居あり 本社ノてんぢう(天井)ハしんちうなり

一 御本坊社領千五百石也 尤これニ而御山役せん壱人分百壱文出し 御酒ニ御守頂戴仕候 又庄内出印これニ而申請候 参詣 次ハふもど迄もどる也

一 ふもどよりとがわ(戸川)へ 二り

 此間ニ小村あり小川あり板はし

一 と川よりきよ川(清川)村へ 卅丁

此所ニもがみ川(最上川)大川あり ふろくぢ村(古口村)まで四りノ所のぼり舟ニのりうんちん九十文ノ定方なり 此節八ツ時ニ相成 をそゆへ(遅故)五十文ましせん(増銭)ニ而百四十文つゝ出し申候 尤きよ川村ハ庄内トもがみ境なり

一 きよ川よりふろ口(古口)へ 舟道四り

一 ふろ口よりまがら(真柄)村へ 半り

 あい()ノ宿ニ而無心致泊ルなり

四月八日

一 まがら村泊り 与助

 はたご百文 尤ひるめしもち

 金長せん六〆五百六十文

1866/5/21

羽黒山の麓の町(羽黒町手向)から羽黒山へ。本社まで石の階段がつづく(かなり長い^^;)。羽黒山五重塔は国宝。

羽黒山から麓の町に戻りそこから戸川を通り清川(庄内町:旧立川町)へ。戸川不明。清川の30町手前(3.27km)なので狩川(庄内町:旧立川町)の郊外付近か?

清川から最上川を舟で古口(戸沢村)まで。通常の運賃は90文であるが、清川に到着したのが午後23時で遅い時間のため50文の追加料金となり一人当たり140文の運賃。

古口で上陸し真柄(戸沢村)で宿泊。

4/7

4/9(4/8)

此村出口もがミ川舟渡ちん甘文 次ニ小村あり次ニ小川あり舟渡ちん十文 次ニ小村多し

一 まがら村より新庄へ 三り半

 新庄ノ城下 戸沢大和守(※新庄=出羽の最上地方にある)

 高六万八千弐百石

一 しんぢよ(新庄)よりかね山(金山)へ 三り半十二丁

 此間ハのはら(野原)次ニ小村あり 又かね山出口ニ小川板はし 次ニ小坂あり

一 かね山より中田へ 一里半

 中田入ロニ小川あり板はし

一 中田よりのそぎ(及位)

 中田トのそぎノ間ニ大坂あり 又のそぎ入ロニ小川ありはねはし

四月九日

一 のぞき(及位)泊り 権四郎

 木銭四十文 米三十文

金六〆六百廿文

尤此所ハもがミ(最上)ト秋田ノ境 もがミノ御番所あり 尤もがミノ国出はん()切手城下ニ而取なり はんせん(藩銭)壱人ニ付十文なり

1866/5/22

真柄(戸沢村)から最上川を渡り、「小川」(鮭川か?)を渡り新庄(新庄市)へ。新庄は新庄藩六万八千二百石の城下町で、当時の藩主は戸沢正実(従四位下。上総介)、先代は能登守。

新庄から金山、中田(以上金山町)

及位(真室川町)

及位には新庄藩の番所があるため出藩切手を城下(新庄)で取得したようだ。

及位に宿泊。

4/8

荒神喧嘩(闘)

4/10(4/9)

一 のぞ()きよりいんない(院内)へ 三り

 のそぎトいんないノ間おがち(雄勝)とうげ大坂あり 又いんない入ロニはねはしあり 出口ニハ土はしあり

一 院内よりよこほり(横堀)ヘ 一り

 次ニす川(須川)村あり 入ロニ小川あり板はし

一 よごほりよりゆ沢(湯沢)へ 三り

 ゆ沢迄おがぢ郡

一 ゆ沢よりよごで(横手)へ 四り半

 ゆ沢トよこでノ間ニ川あり舟渡しちん十文 又小村多し

四月十日

一 よごで泊り うちわ源蔵

 木せん四十文 米廿八文

 金長せん七〆文

1866/5/23

及位から雄勝峠を越えて院内(湯沢市:旧雄勝町)へ。雄勝峠は新庄藩と久保田(秋田)藩の境。現在も山形県と秋田県の境。

 院内から横堀(湯沢市:旧雄勝町)、湯沢(湯沢市)、横手(横手市)へ。湯沢と横手の間の川とは皆瀬川と考えられる。

横手で宿泊。

4/9