道中帳 

青字は、「旅へのいざない」による注釈です。

赤字は、私が付け足した注釈です。

道中帳

買物覚、金払口

(巻頭・巻末に記載されたものを日付順に示す)

解説(新暦で記載)

同時期の出来事

3/21

一 しろいしよりたにぐみへ 九十丁

此間ニ上り下り十三丁ノ坂あり

一 卅三番谷汲(※卅三番=華厳寺は両国三十三所満願寺)

仁王門次右ニねんぶついけ(念仏池)堂橋あり 石だん七十七丁 らかん堂 本社ハ大間四面・内身()堂二間四面 はいでんノ柱ニたい()ノうを()あり 是せうちん(精進)ひらきしるし()なり 左り方ニおゆちり堂(笈摺堂)あり 本社ノうしろへめぐり石地蔵あり内身()堂三度めぐり可申侯 次ニおゆちりせん(笈摺銭)三十三文 合ケ四十六文出し所なり

又本社より四丁もどり をいわけあり是より左りへ行くなり

一 たにぐみよりかのう(加納)へ 五り半

かのう前ニぎふ(岐阜)町宜敷町なり 是へ廻れバ十五丁ノ廻り ぎふ・かのうハ並町なり 又たにぐみより卅丁行バ女川舟渡しちん十弐文 是より四り行バぐぜ川(久瀬川)舟渡しちん十文 これより廿丁計行きながら(長良)川舟わたしちん廿二文 次ハぎふ町・かの町 たにぐみ・ぎふ間ニ在家おふぐ(多く)有之候得共宿ニ而も致候家無御座候

三月廿一日

一 かのう泊り なくらや儀兵衛

 木せん三十弐文 米六十文

一 二百七十文 ぎふニ而 はさみ壱丁

 こがたな一本 馬はり一本

1866/5/5

白石(揖斐川町三輪)から西国三十三ヶ所巡礼の33番、谷汲山華厳寺へ。参拝後、道をもどり追分(揖斐郡揖斐川町、旧谷汲村の新田か?)を左に曲がる。30(3.3km)で「女川」を渡る。この女川とは根尾川の事か?。そして4(16km)進んで「ぐぜ川」を渡り、20(2.2km)で長良川を渡るとある。距離や位置から見て、この「ぐぜ川」は「久瀬川(揖斐川)」ではなく、「伊自良川」の間違いか?

長良川を舟で越えて岐阜(岐阜市)、そして加納(岐阜市)へ。加納で宿泊。

3/21

3/22

一 かのうよりうぬま(鵜沼)へ 四り八丁

 うぬまノ町より右ニ六万石ノ城下あり 是は尾州様ノ一老中なり

一 うぬまより太田へ 二り

 此間ニ岩むろくわんおん(岩室観音)あり 大ニふしぎなる旧せぎなり 次ニ小村あり 又太田村入ロニ小川あり常ハはしなり 此せつ大水ニ而はしおぢ(橋落)いがだニのりちん十弐文出し

一 太田よりふしミ(伏見)へ 二里

 おふだより十三丁行きそ(木曽)川 大川なり舟越ちん四十五文

一 ふしみより身竹(御嵩)ヘ 一里

三月廿二日

一 みたけ泊り 松ばや惣吉

 木銭廿八文 米六十文

 金六〆五百文

1866/5/6

加納(岐阜市)から鵜沼(各務原市)へ。鵜沼の町の右手、木曽川の対岸には犬山市がある。ここはの尾張藩の附家老、成瀬正肥の犬山城があり、栄太が鵜沼を訪れた翌年の慶応3年に、王政復古後により、尾張藩から独立し犬山藩となる。

鵜沼から太田(美濃加茂市)へ。途中にある岩屋観音(加茂郡坂祝町)は、木曽川右岸の岩山の上にある。「大に不思議なる旧跡なり」とあるが、何が不思議だったのだろう?。太田の入口に加茂川があり、筏で渡る。洪水により橋が流されたようで、普段は橋があるため、舟が無く、地元の人が臨時に筏を用意したのだろうか。それとも舟はあるが、運賃が高く、栄太が筏を選んだのだろうか?。太田から木曽川を渡り伏見(可児郡御嵩町)、御嵩(可児郡御嵩町)

御嵩に宿泊。

3/22

3/23

一 みたけよりほそくで(細久手)へ 三り

 此間ハ小坂多し

一 ほそくでより大くで(大久手)(大湫)へ 壱り半  此間小坂多し

一 大くでよりおい(大井)へ 三り半

 此間ニ十三とうげトいふ小坂多し

一 大井より中つ川(中津川)へ 二り半

 なかつ川入ロニ小川あり土はし也

一 なかつ川よりおちあい(落合)ヘ 一り

 此間ニ小坂三ツあり 中つ川より右ニ見ル山 ゑな(恵那)山なり

三月廿三日

一 をちあい(落合)泊り 泉屋政助

 木せん廿弐文 米七十文

 金六〆五百文

一 大井ニ而半切 八百十五文

1866/5/7

御嵩(岐阜県可児郡御嵩町)から細久手、大湫(以上、瑞浪市)、大井(恵那市)へ。大湫と大井の間は十三峠という山道。

大井から中津川(中津川市)、落合(中津川市)へ。

落合の右手(南南西)には恵那山(2191m)が見えたという。

落合に宿泊。

3/23

3/24

おちあいト申所ハ尾州御領分トすんしう(駿州)ノ境なり

 おちあい町出口ニ小川あり板はしなり これより一り半計上り坂あり

一 をちあいよりまこめ(馬篭)ヘ 一里

 是より木そ海道(木曽街道)トいふなり 又向ニ見ルハこまがだげ(駒ケ岳) 大山ゆき()あり 左りニ木そ川あり 川を左ニ而上るなり

一 まこめよりつまご(妻篭)ヘ ニり半

一 つまごよりみとの(三戸野)(三留野)ヘ 一り半

一 みとのより野尻へ 二り半

一 のじりよりすはら(須原)へ 一り半十丁

 すはら入ロニ小川あり はねはしなり

一 すはらより立町ヘ 一り半

 たち町村ハあい()ノ宿なれバ 道中記ニハ無之侯得共宜敷所なり 此村右ノ山ハこまがだげ(駒ケ岳)なり

三月廿四日

一 立町泊り 松屋茂助

 木銭廿文 米八十文

 金六〆六百文

1866/5/8

落合(岐阜県中津川市)から落合川を渡り、旧県境を越えて馬籠(岐阜県中津川市:旧長野県木曽郡山口村)へ。残雪の駒ヶ岳が前方に見えたようだ。「左ニ木曽川あり」というのは間違い。妻籠を過ぎてからの風景を記載したのか?。現県境を越えて妻籠(長野県木曽郡南木曽町)、三留野(南木曽町)、野尻(木曽郡大桑村)、須原(大桑村)、立町(木曽郡上松町)へ。

須原の次の宿場は上松で、立町は「間ノ宿」のため、(当時出版されていた)道中記には記載されていない所であるが、「宜敷所」で、村の右手に駒ヶ岳が見えたという。

立町に宿泊。

3/24

3/25

一 立町より上ゲ松へ 一り半

 此間ニ小川二ツあり はねはしニ土はしなり

一 あけまちより福嶋へ 二り半

 ふくしま宜敷町也 町出口ニ箱根同様ノ御関所あり

一 ふくしまよりみやのごし(宮野越) (宮ノ越)へ 二里 此町出口ニきそ川ノはしあり

一 みやのごしよりやご原(八五原)(薮原?)へ 二り

 やごはら町家数四百軒計ノ場所 町中みな木のくし()せうばい(商売)なり 日本一くしと始ル町なり これニ而かを(買う)べしもの也 尤くしのいろかぢ(色数)六百しな()ほど有之候 ばんと(番頭)咄合也

一 やご原よりならい(奈良井)

 此間ハ町より町迄一り半ノ間大坂なり ならいノ町ハまげ()重さし重ノ外ニも 様々ぬり物出ル所なり

 次ニ相()ノ宿ありこれも右同様

一 ならいよりにゑ川(贄川)へ 一里

 小川あり川ニ付下ルなり

三月廿五日

 にゑ川泊り 吉田屋万平

 木せん三十弐文 米八十文

 弐朱八百五十文

1866/5/9

立町から上松(以上、木曽郡上松町)、木曽福島(木曽郡木曽町:旧木曽福島町)へ。福島宿の北入口に関所があった。木曽福島から宮ノ越(木曽町:旧日義村)、薮原(木曽郡木祖村)へ。ここはお六櫛(おろくぐし)の産地。元禄の頃、頭痛で悩んでいた村娘お六が、御嶽山に詣で願をかけたところ、ミネバリの木で櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた、そのとおりにすると、頭痛が治ったという。そこで、ミネバリの木で作った櫛を売るようになったという。薮原から鳥居峠を越えて奈良井(塩尻市:旧木曽郡楢川村)へ。ここは曲げ物、櫛、漆器などの木工業が盛んで、旅の土産物として人気があったという。奈良井の次「間ノ宿」とは平川(塩尻市:旧楢川村)?

贄川(塩尻市:旧楢川村)まで進み、ここで宿泊。

3/25

3/26

一 にゑ川より山もと(山本)(本山?)へ 二り

 にゑ川町出口ニ御番所あり 次ニ板はし二ツあり

一 山もとよりせば(洗馬)へ 半里

一 せばより松本へ 四り

 此間宜敷相ノ宿三ヶ所あり 次ニ松もど(松本)入口ニ小川あり 板はしト土はしトニツあり

松本城下 六万石 松平丹波守

三月廿六日

 松本泊り 三川屋新右衛門

 きせん廿八文 米六十八文

 弐朱九百文

此所木綿出ル所なり 見屋げ物ニ買てよし

一 松本弐歩半 四〆五百文

松本

一 三百七十弐文 白きぬ六尺

一 五百文 木綿壱反

一 壱歩百文 ひといもの 弐枚

一 弐百五十文 帯壱筋

一 五百五十文 帯壱筋

一 百廿文 風呂敷

一 弐百十文 きやはん

一 三十弐文 日本ゑぢ[絵図]

一 五十文 白ひも

1866/5/10

贄川(塩尻市:旧木曽郡楢川村)から贄川番所(関所)を通り本山、洗馬(以上塩尻市)、以上が中山道。洗馬から北国西街道に沿って松本(松本市)へ。松本は松本藩6万石の城下町。当時の藩主は松平光則。光則も先代の光庸も共に丹波守。

松本で買物・宿泊。

3/26

3/27

一 松本よりかりや原(刈谷原)へ 二里

 此間ニあい()ノしぐ(宿)あり 次ニ大坂あり

一 かりや原よりあいだ(会田)ヘ 一り半

 此間ニあいノしぐあり 小川あり はし

一 あいだよりミや柳(青柳)へ 三り

 此間ニたぢとうけ(立峠)大坂あり あいノしぐあり

一 ミや柳よりをみ(麻績)ヘ 一り半

 ミややなぎ出口ニ小坂あり 此所岩ほりぬき道なり

 岩ノ左右ニ百たいノくわんおん(観音)あり 次ニ小村あり

一 おみよりいなり山(稲荷山)へ 三り

 此間ニさるがばゞ(猿ケ馬場)トいふあい()ノしぐ(宿)あり 次ニさるさ峠大坂あり とうげニのま()あり 此坂下りふ本()ハ中原村あいノしぐあり 次ハいなりやま町也

三月廿七日

 稲荷山泊り 日祢や甚左衛門

 木せん廿八文 米七十弐文

 金七〆弐百文

1866/5/11

松本(松本市)から峠を越えて刈谷原(松本市:旧東筑摩郡四賀村)へ。峠は刈谷原峠か。ちなみに、岡田と刈谷原の間には刈谷原峠の他に馬飼峠と稲倉峠の3つの峠がある。このうち一般的なのが刈谷原峠を越えるルートのようだ。

刈谷原から会田(松本市:旧東筑摩郡四賀村)、立峠を越えて青柳(東筑摩郡筑北村:旧坂北村)、麻積(東筑摩郡麻績村)へ。「岩ほりぬき道」とは青柳の切通しで、周辺には百体の観音と四十体ほどの馬頭観音が安置されているという。

麻績から猿ヶ馬場峠を越えて中原(千曲市:旧更埴市)、稲荷山(千曲市:旧更埴市)へ。「峠ニ沼あり」とは聖湖のこと。

稲荷山に宿泊。

3/27

3/28

一 いなり山よりおいわけ(追分)ヘ 一り

 おいわけよりたんば嶋(丹波島)へ行ハ本みぢ()なれ共此節舟とめニ而 こいぢ(小市)トいふ村をたぢ()ね おいわけより左りへほそ道行也 (※たんば嶋=川中島か?)( 丹波島は長野市に現存する地名。丹波島橋という橋もある)

一 おいわけよりこいぢヘ 一り半

 こいち村ニ才川(犀川)舟渡ちん五十文 尤たんばじまへ行よりハ半りノ廻りなり

一 こいちよりぜんかうじ(善光寺)ヘ 一り半

 ぜんかうじ入ロニ小川あり かりばしニ而橋せん十弐文つゝ出し

 次ニぜんかうじ町宜敷町なり 木綿・こまもの類・きぬ()るい・ぢうじ(数珠?)ノ類いろいろ有之侯

一 善光寺御本社ハ町より二丁計上り 此間はゞ八尺ほどニ而御本社迄切石す()ぐなり 御堂ハ大間十七間ニ七間なり惣丸柱なり 又りうがわ(両側)ニハ御堂寺沢山あり大つり金(釣鐘)あり 本社ノ中ニ大だいこあり 又からかねとうろう石とうろう沢山あり

又本社より仁王門迄下り左りへ行なり 尤仁王門中門ニツあり

一 ぜんかうじよりあら町(新町)へ 卅丁

 此間村つゞきなり

一 あら町よりむれいへ 二り半

 此間ニ小村多し 又小坂あり

三月廿八日

一 むれい泊り

 木銭廿八文 六十八文

 金七〆百文

一 善光寺半切 九百文

1866/5/12

稲荷山(千曲市:旧更埴市)から街道を進めば犀川の渡し場である丹波島(長野市)にたどり着くが、「此節舟とめニ而」とあるので、何らかの理由で丹波島の渡しがストップしていたようだ(後述する小市で舟で渡っているため、洪水ではないと考えられる)。道を尋ね、街道から左側の細い道を進み、現在の小市橋付近で犀川を渡る。丹波島の渡し場より3km程上流である。対岸の小市に上陸し、善光寺(長野市)へ。

善光寺から新町(長野市)を通り牟礼(長野県上水内郡飯綱町、旧:牟礼村)へ。牟礼に宿泊。宿名不明。

3/28

3/29

一 むれいよりかしわ原(柏原)へ 二り

 此間ニ小川あり板はし 小坂あり

一 かしわ原より野尻ヘ 一り

 のじりより左りニ大だけ()三ツあり この山いちな(飯縄)山・くろひめ(黒姫)山・めうかう(妙高)山なり 又右ニ大のま()ありのま()の中ニ嶋あり (※ 大のま=野尻湖)

一 のじりより関川ヘ 一り

 せき川村入ロニ小川二筋あり土はしニはぬ()はし 次ニハ信州卜越後ノ御境御関所あり

一 せぎ川より関山へ 三り

 此間ニ小川あり土はし

一 せぎ山より二本木へ 二り

一 にほんぎよりあらい(新井)へ 一り

一 あらいより高田へ 二り

 此間小川あり 板はし四十一間なり

高田城下 十五万石

三月廿九日

一 たがた泊り 丸山重兵衛

 木銭四十文 米五十弐文

 金六〆九百六十四文

1866/5/13

牟礼(長野県上水内郡飯綱町、旧:牟礼村)から柏原、野尻(以上、上水内郡信濃町)。野尻を北進する栄太一行の左手(西側)には飯縄(いいづな)(1917.4m)、黒姫山(2053.4m)、妙高山(2454m)が、右手(東側)には野尻湖があった。

野尻から県境を越えて新潟県へ入り関川(妙高市:旧中頸城郡妙高高原町)、関山(妙高市:旧中頸城郡妙高村)、二本木(上越市中郷区: 中頸城郡中郷村)、新井(妙高市:旧新井市)、高田(上越市高田)へ。高田で宿泊。

高田は高田藩15万石の城下町。ただし、15万石は陸奥国にある飛地を含めた石高。元々頸城郡6万石、陸奥国岩城9万石であったが、文化6(1809)に陸奥の52千石と頸城郡の天領同額と交換しているため、当時は、頸城郡112千石、陸奥岩城38千石で計15万石。当時の藩主は榊原政敬。

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