道中帳 

青字は、「旅へのいざない」による注釈です。

赤字は、私が付け足した注釈です。

道中帳

買物覚、金払口

(巻頭・巻末に記載されたものを日付順に示す)

解説(新暦で記載)

同時期の出来事

3/11

一 明石より長池へ 二り半

 此所ニたかさご(高砂)へ左りへ行道あり

一 長池よりの口(野口)へ 二里

 是よりはりま(播磨)名所沢山あり

一 の口よりおのい(尾上)へ 廿丁

 此所おのヘ(尾上)ノ松あり 又おのヘノ金()あり かねハしやくどう(赤銅)也 此金にんのう(人皇)十五代ニりうぐう(竜宮)より上る金つり(釣鐘) 本ニあなあり

 又みやこ()こよ()しさノ片枝ノ松あり 此ゑだみやこノ方へ計むき()居なり 本社ハすみよし也

一 おのへよりたがさごへ 十二丁

 たかさご舟付ニ而宜敷町なり 次二半道行バ川あり 舟渡シちん六文

一 高砂より石ノほでん(宝殿)へ 三十丁

 石ノほでんはゞハ三間ニ二間半ほどニ見ルなり 立サ壱丈五尺ほとニ見ル いけ()ノ中より生付卜御座候 三方ハ岩なり石ノ上ニ 松七本あり 至て名石也

一 石ノほでんよりそね(曽根)ノ松へ 十八丁

一 そねよりまめざぎ(豆崎)へ 十八丁

一 まめざきよりひめぢ(姫路)へ 二里

 ひめぢ入ロニ川あり 舟渡シちん十弐文

 はりまノくにひめぢノ城下

 十五万石 酒井うだ(雅楽)ノかみ()

 大ニ宜敷町なり かわ()細工名物なり

三月十二(十一カ)

一 姫路泊り 古手屋藤兵衛

 木せん三十弐文 米六十四文

 金六〆五百六十文

 ひめぢはかわ細工日本一なり

一 二百六十文 ひめぢ たばこ入壱ツ

1866/4/25

明石から長池(兵庫県明石市)、野口(兵庫県加古川市野口町)、尾上(加古川市尾上町)へ。尾上の尾上神社にある「尾上の松」は謡曲「高砂」に謡われた霊松で、現在あるのは五代目。栄太の時代にあったのは三代目か?。「尾上の鐘」は新羅時代に作られた朝鮮鐘で国の重要文化財。元々龍宮にあった釣鐘を神功皇后が三韓従伐から持ち帰り、尾上神社に納めたという伝説がある。「片枝の松」は神功皇后のみあとをしたって枝葉ことごとく東に向って張ったといわれる。現在あるのは三代目、栄太の時代にあったのは二代目か?。尾上から舟で加古川を渡り高砂(兵庫県高砂市)へ。高砂市内の「石の宝殿」に立ち寄る。「石の宝殿」は生石神社に祭られている巨石建造物で、日本三奇のひとつ。生石神社から曽根(高砂市)へ。曽根天満宮にある「曽根の松」は菅原道真が手植えした松であるが、寛政10年枯死、栄太が見たのは二代目。現在あるのは五代目という。曽根から豆崎(高砂市)、姫路(姫路市)へ。姫路で宿泊。姫路は姫路藩15万石の城下町で、当時の藩主は酒井忠績(慶応元年まで幕府の大老だった)

3/11

3/12

一 ひめぢより廿七番しよしや(書写※)へ 二り半

 此間ニ川あり板はし 橋銭四文

(※ しょしゃ=姫路市にある書写山円教寺)

又しよしや村よりくわんおん(観音)迄廿五丁坂なり 此坂すぐニ村迄もどり 左りへ行なり

一 書写よりほつけ(法華※)寺へ 四里半

(※ ほつけ寺=加西市にある法華山一乗寺)

 此間ニ川あり板はし ちん四文 次ニひめぢノ大川あり舟渡ちん八文 此間ハ小村多し

一 ほつけ寺よりはん上(繁昌)へ 二り

三月十二日

一 はん上泊り 大国屋左兵衛

 木銭廿八文 米六十文

 金八百廿五文 弐朱ニ而

1866/4/26

姫路から夢前川を渡り西国三十三ヶ所巡礼の27番の書寫山圓教寺へ。

書写の村から観音まで坂道を進み、参拝後は書写の村まで戻り、左()へ進む。夢前川と「ひめぢノ大川」(=市川)を渡り、西国三十三ヶ所巡礼の26番の法華山一乗寺へ。その後に繁昌(兵庫県加西市)へ進み、繁昌で宿泊。

3/12

3/13

一 はん上より野村へ 五十丁

 大川あり舟渡しちん八文

一 の村よりむませ(馬瀬)へ 二り半

一 むませより廿五番清水へ 二里

 此間ニかも(賀茂)(鴨川)村 さかもと(坂本)村あり

          (※ 清水=社町にある御嶽山清水寺)

一 きよみじ(清水寺)より市原ヘ 一り

一 いちわらより古市へ 二り

あじま(味間)村川あり ござ(古佐)村川あり あけの(明野)村川あり 何レも板はし

一 ふるいち(古市)より小沢村ヘ ニり

 小沢村ハあい()の宿也

三月十三日

 小沢村泊り 小物屋左衛門

 木銭三十五文 米五十弐文

 金六〆六百文

1866/4/27

繁昌(兵庫県加西市)から、加古川を渡り、野村、馬瀬、鴨川(以上加東市、旧加東郡社町)を通り西国三十三ヶ所巡礼の25番の御嶽山清水寺へ。「坂本村」は位置不明。

清水から市原、古市、味間、古佐、明野(以上篠山市)を通り「小沢村」(位置不明)へ。「小沢村」に宿泊。「小沢村」は篠山市内で明野より北側に位置すると推定される。大山下付近あるいは北野付近か?

3/13

3/14

次ニ川あり板はし ちん弐文

一 小沢村よりこくりう(国領)ヘ 二り半

 此間坂ありなん所なり 大江山見る

一 国領よりふくち(福知)山へ 四り半

 次大かた(大高)(大多利?)村川あり かぢ()原村川あり 何レも板はし 次大もり(大森)村一万坂

三万二千石 朽木民部(民部少輔)

一 福知山よりかうもり(河守)へ 三り

 かうもりへ大川下り舟あり

三月十四日

一 かうもり泊り たぢまや伊平

 木せん廿八文 米六十三文

一 三百文 さなだ四丈五尺

 右ハ丹波ノ内こぐりうトいう村出ル所なり

1866/4/28

「小沢村」(兵庫県篠山市、詳細位置不明)から瓶割峠を越えて国領(兵庫県丹波市、旧氷上郡春日町)へ。ここから「大かた」、梶原(丹波市、旧氷上郡市島町)、大森(丹波市、旧氷上郡市島町)と北上し、福知山(京都府福知山市)へ。途中の「大かた」は不明。春日町の多利(大多利)?。福知山は福知山藩32千石の城下町。当時の藩主は朽木綱張。

福知山から由良川を船で下り、河守(福知山市、旧加佐郡大江町)へ。河守で宿泊。

3/14

3/15

一 かうもりより外宮へ 半り

外宮伊勢もと()宮なり 四十末社あり

一 外宮より内宮へ 半り

 伊勢内宮本宮なり八十末社なり 次ニふがう(普甲峠)峠上り下り三り坂なり

一 内宮より宮津へ 四り

 此所よりなりあい(成相)へ二り半 左りへはまべ行なり 廿八番なりあい仁王門あり  (※なりあい=成相寺)

 ミやち(宮津)より半り行バ切戸ノもんちう(文殊)大社なり これよりあまノはしだで(天ノ橋立)へ 舟ニのるちん六文行かへり共ニ

一 なりあいより宮ぢへ 二り半もどる也

宮津ノ城下

四万八千石 松並(松平)留之助

一 ミやちより栗田(くんだ)ヘ 一り半

三月十五日

一 くりだ泊り 渕屋長二郎

 木せん三十五文 米六十六文

 弐朱八百廿五文

1866/4/29

河守から外宮、内宮(以上京都府福知山市、旧加佐郡大江町)、普甲峠を越えて宮津(京都府宮津市)へ。宮津から左(北西)方向へ西国三十三ヶ所巡礼の28番の成相山成相寺(宮津市)を目指し海岸線沿いに進む。途中の「切戸ノもんちう」とは天橋山知恩院(天橋立付根にある)。ここの文殊菩薩は日本三文殊の一つ。

成相寺まで行き、もとの道をもどり宮津城下へ。当時の藩主は松平宗秀で幕府の老中(慶応二年7月免職)。ちなみに、宮津藩は7万石。

宮津から栗田(宮津市)へ。栗田に宿泊。

3/15

3/16

一 くりたよりゆら(由良)へ 一り半

 此間ニ七まがり八とうげ(七曲半峠)(七曲八峠)トいふ坂あり

一 ゆらより中山へ

 此間ニさんせう(山椒)大夫Cノ社あり次ニおとなし川(音無川=由良川)トいふ川あり舟ちん四文 福ち山より出ル川なり

C 山椒太夫=三庄の長者。伝説に基づく森鴎外の小説、安寿と厨子王の姉弟愛を描いた小説がある。

一 中山よりたなべ(田辺)へ 二里

 此間ニながせ峠坂あり (※たなべ=舞鶴)

たなべノ城下ハ

三万五千石 牧野河内守

一 たなべより市ば()へ 二り半

 此間ニ大ふねとうけ(大船峠)小坂あり

一 いぢばより廿九番松尾ヘ ニり

 右之内おみ坂十三丁 仁王門あり御堂五間四面 是より懸こし左りへ下るなり

          (※ 松尾=舞鶴市にある青葉山松尾寺)

一 松尾より高はまへ 二里

三月十六日

一 たがはま泊り たばこ屋善右衛門

 木せん廿六文 米六十八文

1866/4/30

栗田(京都府宮津市)から東に進み、七曲八峠を越えて由良(宮津市)

由良川を舟で渡り中山(舞鶴市)へ。由良川は福知山から流れてきた川。

由良地域は森鴎外の「山椒太夫」の元になった「さんせう太夫」伝説の舞台。

中山から田辺(舞鶴市)へ。ここは田辺藩三万五千石の城下町で、当時の藩主は牧野誠成(豊前守、先代は山城守)。誠成は明治2年に死去し、跡を継いだ弼成が紀伊田辺藩との混同を避けるため田辺を舞鶴に改名したという。田辺から市場(舞鶴市)、西国三十三ヶ所巡礼の29番の青葉山松尾寺(舞鶴市)、福井県に入り、高浜(大井郡高浜町)へ。高浜に宿泊。

中山・田辺間に「ながせ峠」、田辺・市場間に「大ふねとうけ」とあるが、実際には中山・田辺間にあるのが「大船峠」、「ながせ峠」は不明。

3/16

坂本竜馬夫妻塩浸温泉へ(新婚旅行) (a)

3/17

一 たがはまよりほんごう(本郷)へ 二里

一 ほんごうよりおばま(小浜)へ 三里

 此間ニ小坂二ツあり 又百びくに(比丘尼)ノ宮あり

小ばまの城下

拾弐万石 酒井讃岐守

一 おばまよりおにう(遠敷)ヘ 一り

 小村多し

一 おにうよりひがさ(日笠)ヘ 一り

一 ひかさよりくま川(熊川)ヘ ニり半

 次ニ山中村町出口ニわかさ(若狭)トあふみ(近江)の国境あり 御だんせう(番所)あり女を改るなり 次ニほう坂(保坂)あり同村有

一 くま川よりおいわけ(追分)村へ 二り半

 此村合()ノ宿なれバ至て不宜敷所なり なれ共大あめニ而泊

三月十七日

一 おいわけ泊り 三代

 木せん三十弐文 米七十五文

 金弐朱八百五十文

1866/5/1

高浜(福井県大飯郡高浜町)から本郷(大飯郡おおい町:旧大飯町)、小浜(小浜市)へ。小浜市内の空印寺は人魚の肉を食べて八百歳まで生きたという八百比丘尼が入定したという洞窟がある。

小浜から遠敷(小浜市)、日笠(三方上中郡若狭町:旧遠敷郡上中町)、熊川(若狭町:旧上中町)、熊川から1km程進むと若狭と近江の国境、現在の福井県と滋賀県の県境。ここに番所があったという。国境を越えて滋賀県側に進み、保坂(高島市:旧高島郡今津町)、追分(高島市今津町追分:旧高島郡今津町)へ。大雨のため、今津手前の追分に宿泊。

3/17

3/18

一 をいわけより今津ヘ ニり半

三月十八日

今津泊り 杉本や六郎兵衛

 此宿ハさん卅ばん竹生嶋へ舟渡シ宿ニ御座候

 木銭三十八文 米六十八文

 金弐朱八百十五文

 此節大あめふりニ而十八日五ツ時ニ着致候へ共舟出不申とうりう(逗留)致候

1866/5/2

追分(高島市今津町追分:旧高島郡今津町)を早朝出立し朝8:00には今津(高島市:旧高島郡今津町)に到着するが、大雨により竹生嶋への舟が出ないため、今津の宿に逗留する。

3/18

3/19

同十九日朝四ツ時ニ舟ニのり ちぐふしま迄三り

又竹生嶋よりながはま(長浜)へ四り合ケ(合計)七り之間うんちん七十五文 外ニちくふしまニ而せん人(先立)ニ六文役なり 又長浜ノ間ニ而六文酒代くれ 惣〆八拾七文出し

一 卅ばん竹生嶋大ニ宜敷所 くわんおん(観音)ニべんざいてん(弁財天) 舟よりあがりばニ茶やあり 石とうろうニ石ノ鳥居両方ニ二ツあり 別当坊五六間あり

一 長浜より前原(米原)へ 二里

 ながはまトまいわらノ間ニ小川あり板はし 此せつ大水ニ而板銭壱入ニ付廿五文づゝ

三月十九日

一 前原泊り みぢぼしや善右衛門

 木銭三十弐文 米七十文

1866/5/3

今津(高島市:旧高島郡今津町)の港からAM9:00頃舟に乗り、琵琶湖を東に進み竹生島(滋賀県長浜市)へ。竹生島には西国三十三ヶ所巡礼の30番、宝厳寺があり、ここの弁才天は日本三大弁才天の一つ。

竹生島から長浜(長浜市)へ。今津〜竹生島〜長浜間の船賃は、75文、他に竹生島で6文、長浜までの間にチップ6文で合計87文。

長浜から米原(米原市:旧坂田郡米原町)へ。米原で宿泊。

3/19

3/20

一 まいわらよりばんば(番場)ヘ 一り

一 ばんばよりさめがい(醒ヶ井)へ 一里

 やまゝたけの鴬清水(日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の居醒(いざめ)の清水)あり 是ハあし()をひ()やしなり 又左りニいぶき山(息吹山)(伊吹山)見ル

一 さめがいより柏原ヘ 一り

 長久寺村 此所みの(美濃)あふみ(近江)寝物語

一 かしわはらよりひらす(今須)へ 一里

一 ひらすよりせぎが原(関ヶ原)ヘ 一里

 此所山中ノ宿 ときわ(常盤)御前Dノ石塔あり

D 常磐御前=平安末期、平治の乱後、母子の赦免を条件に清盛の寵を受ける。後、藤原長成に嫁した。生没年不詳。

一 せぎが原よりたるい(垂井)へ 一り半

 此所町出口ニおいわけあり

一 たるいよりあか坂ヘ 一り半

 あがさが(赤坂)町中ニをいわけ(追分)あり みのゝたにぐみ(谷汲)へ左りニ行なり

一 あか坂より白石へ 三り

 此間ニ小村多し 又あほのが原(青野ヶ原)右ニ見ル 又長はん(長範)の物見松 次ニしろいし(白石)村入ロニふぜ川(久瀬川=揖斐川)大川なり 舟わだしちん十八文なり (※ 長はん=盗賊の能坂長範)

三月廿日

一 白石泊り 米屋彦兵衛

 きせん三十五文 米六十文

 金六〆四百文

1866/5/4

米原から番場、醒ヶ井(以上、米原市:旧坂田郡米原町)へ。伊吹山の大蛇との戦いで傷ついた日本武尊が醒ヶ井の清水で傷をいやしたという伝説があり、栄太もこの泉で足を冷やした(足湯の逆バージョン)。伊吹山は醒ヶ井の北東側に見える。

醒ヶ井から柏原、長久寺(以上米原市:旧坂田郡山東町)。長久寺に美濃と近江の国境があり、現在は、滋賀県と岐阜県の県境。昔、国境の細い水路を挟んで近江側と美濃側にそれぞれ宿があり、宿の壁越に寝ながら話ができたという逸話が寝物語。

国境を越えて今須、関ヶ原(以上、岐阜県不破郡関ヶ原町)関ヶ原の手前に山中という集落があり、ここに常盤御前の墓がある。関ヶ原から垂井(不破郡垂井町)、赤坂(岐阜県大垣市)、赤坂から分かれ道を左()に進む。青野ヶ原とは大垣市を中心とする西美濃一帯を示す地名で、垂井・赤坂間に青野町という地名がある。熊坂長範は平安末の盗賊で、金売吉次とともに陸奥に向っていた牛若丸(源義経)に討ち取られたという伝説がある。物見の松とはこの長範が松の木から旅人を見張っていた所で、これも垂井・赤坂間にあるので、青野ヶ原と物見の松は、記載位置を間違えたのか?

揖斐川を渡り白石(岐阜県揖斐川町三輪)へ。白石で宿泊。

3/20