道中帳 青字は、「旅へのいざない」による注釈です。 赤字は、私が付け足した注釈です。 |
道中帳 買物覚、金払口 (巻頭・巻末に記載されたものを日付順に示す) |
解説(新暦で記載) |
同時期の出来事 |
3/1 次ニ宿より安内頼 十弐人て百六十四文定 外ニ酒くれ大坂見物 しばい(芝居)町 次四ツ橋きせるのめい物(名物)也 よど(淀川)大ミなと(大湊)是ハ日本一のみなとなれバ 一日ニ大舟出入千つゝ也 次大坂中町見物 次ニ東御門関(跡)西御門関(跡)見物 次ニ御城見物 御城之内ニ堀二通有ト安内咄合ニ候 又御門ハ惣身なんばん鉄(南蛮鉄)ニ候ト申事也 やぐらノ数ハ四十八有之日本一ノ御城也ト咄申候 次ニ寺町通り寺ノ数寺町ニ計六百ケ寺有 わきわき(脇々)大阪中ニハ弐千ケ寺ほど御座候ト咄合候 次ニかくふぢ天王見物 此所より大坂中見ル也 次ニハ明神大社有 但シ大坂中家数廿七万軒ほど有ト宿手衆咄合ニ御座候 大坂白米四十弐文より五十八文迄 金六〆四百五十文
一 大坂宿より四天王寺へ 六丁 一 四天王寺よりひらの(平野)へ 二里 一 ひらのより五ばん(番)ノ藤井寺へ 三里 次ニやまと(大和)川板はしなれ共大水ニ而舟越ちん三十弐文 (※ 藤井寺=西国三十三所第五番である藤井寺のこと。後に八番長谷寺が登場する。)
一 ふぢい寺より上太子(上ノ太子)へ 二里 次ニかすが(春日)トいふ村あり 又小村有次ニ坂あり 坂中ニたいま(当麻)寺ト竹ノ内ノおいわけあり 但シたいま寺へ廻れば八丁廻りなんぜう(難渋)也 竹ノ内ハすぐ(直)道也 一 上ノ太子より竹ノ内へ 壱り十丁 一 たけのうちより新所(新庄)へ 一里 一 しんぜうより御所(ごせ)へ 一り
三月一日 一 ごせう(御所)泊り おし屋源八 木銭三十五文 米六十弐文 |
一 三百弐文 大坂四ツ橋 きせる三本 |
1866/4/15 河内屋からガイドを出してもらい大阪見物。芝居町、四ツ橋、大湊、中町。東西の本願寺、大阪城、寺町通、大阪の四ツ橋周辺は煙管屋が多かったようで、栄太も三本ご購入。また、大湊は当時、坂本竜馬等を乗せた薩摩藩の船が大坂で補給中だった。 「かくふぢ天王」不明。「此所より大坂中見ル也」とあるので小高い所である。江戸時代の大阪見物では、高津宮から大阪を展望するのが定番コースのようである。 次の明神大社も不明。
四天王寺、平野(大阪市平野区)、大和川を渡り、藤井寺(藤井寺市)、上ノ太子(太子町)、春日(太子町)、奈良県に入り、竹内(奈良県葛城市)、新庄(葛城市)、御所(御所市)。竹内の手前に当麻寺(葛城市)との分かれ道がある。当麻寺は中将姫伝説で有名だが、当麻寺を回ると新庄へ行くには遠回りになるため当麻寺には回らず、竹内へ向った。
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3/2 一 御所よりとさ(土佐)へ 壱里半 此所右の方ニこんがう(金剛)山見る也 一 とさよりつぼ(壷)坂へ 半り 一 六番大和国高市郡つぼ坂寺@ @ つぼ坂寺=壷坂山南法華寺、奈良時代歴代天皇の帰依をうけて栄えた。西国三十三所の六番札所、俗称壷坂寺観音。
二万五千石 植村出羽守 是より吉野へ廻れバ七りノ廻り也 懸ケ越也 又おか(岡)寺へすぐ道ハ壱り十四丁 町迄もどり 一 つぼ坂よりおか寺へ 一り半 此間ニなんば(灘波)京ノ名所有 一 おか寺より八ばんノはけ(長谷)寺へ すぐ道三り 又とふ(塔)ノミね(峰)(多武峰)へ廻り四り 此間おいわけ(追分)トいふ町有 此所荷物頼置 はせ(長谷)へ参詣致 はせ寺入口ニ木ノ鳥居有 まわりハ壱丈計廻る也たか(高)さも是迄見内ノ鳥居也 宣敷町也 次ニ石だん二切ニ而四十二丁 次ニ仁王門 次ニおミ坂本社迄八十二間ろうか(廊下)也 此内ハ三ツまが(曲)る又此内本社前石だん百五十九丁あり 又石だんあがりしまいニ大つり金(釣鐘)あり 本社はいでん共ニ大間九間四め(面)ふ 又前ニ六間ニ十間ノさし懸ケ出し 是より町見物也 本社よりはいでん白ノつなはり(綱張)七堂がらん也 ぐるりハ惣切石也 龍王ノ池あり 八ばん(番)ノはせい(長谷)寺ハ是迄見ル内ノ名所也 ぜひ参加申候 一 はせいよりおいわけ迄一里もどり 一 おいわけよりミわ(三輪)へ 十八丁
三月二日 一 ミわ泊り 丹波市屋利兵衛 木銭三十弐文 米六十五文 金六〆四百八十文
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1866/4/16 御所から土佐(高市郡高取町)。右の方(西側)に金剛山(1125m)が見えたようだ。土佐から南へ山を上り壷坂寺へ。ここから山を越えて南へ進めば吉野であるが、そちらには行かずに町(土佐?)まで戻り、岡寺(高市郡明日香村)へ 岡寺に行く途中に難波・京の名所があるという。何?。 岡寺から多武峰(桜井市南部)を通り長谷寺へ。長谷追分(桜井市外山(とび)付近)で荷物を預けて長谷寺を参拝し、参拝後に長谷追分まで戻り荷物を受け取って三輪(桜井市)へ。 三輪で宿泊。 |
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3/3 ミわ明神 一 みわより柳元(柳本)へ 一里 一 柳元より丹波市へ 一里 此所ニ三条ノかうかぢ(小鍛冶)有 次ニ帯とぎ村(帯解村)あり 此所ニも同かぢあり 一 丹波市よりなら(奈良)へ 三り なら町六十四丁あり 町中右ノ方ニ五ケいノとう(五重塔)あり是ハ上迄あがるとう(塔)也 次ニ町三丁計行バかるさハ(猿沢)池あり并ニ九ばん(番)ノなんゑん堂(南円堂)あり六角也(八角の間違い) 次ニ山ノ下迄十丁計上れバ春日大明神大社也 次ニとうろう(灯篭)ト鹿ハ何ニほど有之候も不知数 此数をし(知)るものあるならバ 何ニ事も願事為叶可申ト春日様ノ御せうがん(誓願)也 次ニ日本一ノ大つり金(釣鐘)あり かねノたけハ壱丈三尺六寸さし渡シ九尺六寸いぼら(螺)ノ数百四十四也 次ニ大仏日本一也 御堂ハ十六丈 大仏御丈五丈八尺かたはし(肩端)二丈五尺 こゝニ十六らかん(羅漢)ありわき立有仁王門 仁王丈三丈五尺也 門たが(高)さ廿五間ニ十五間 中門あり なら大仏堂ノ下タニかぢわら(梶原)ノ金重ト云かぢあり是よりすぐニ右へ懸越 う治(宇治)道たちね参り申候 一 ならよりきづ(木津)へ 一り半 次ニきづ川舟渡ちん廿文 大川也 一 きづ(木津)よりたま水(玉水)へ 二里
三月三日 一 玉水泊り 佐岡屋作左衛門 木せん廿八文 米七十文 金ハ二朱八百文也
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1866/4/17 三輪から柳本(天理市)、丹波市(天理市)、帯解(奈良市今市町)、奈良(奈良市)へ。丹波市や帯解には三条小鍛冶ブランドの鍛冶屋がいたようだ。 奈良市内見物。南円堂六角という記載は八角の間違い。
大仏堂の近くで宇治への道を尋ね、奈良から北上し、木津(京都府相楽郡木津町)、玉水(綴喜郡井手町)へ。玉水に宿泊。
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3/4 一 玉水より長池へ 一里半 一 長池より宇治へ 二里 次ニ宇治橋八十間也 次二ミむろ(三室)堂 一 十ばん山城宇治ノみむろ※ (※みむろ=三室戸寺) 御堂八間四面 南向 一 ミむろより六地蔵ヘ 一り 一 六地蔵より下ノだいご(醍醐)ヘ 一り 一 下ノだいごより上ノだいごヘ一り 一 十一ばん山城上ノだいご(醍醐)寺 堂九間四面 南向 此所ハ三十六丁坂也 又下十七丁 一 だいご寺よりいわま(岩間)寺へ 五十丁 此間ハ坂ニ而なんじゆう(難渋)也 一 十二ばんいわま(岩間)寺 堂三間四面南向 次ニ下り坂廿五丁 平地廿五丁 一 いわま寺より石山へ 五十丁 一 十三ばんあふみ(近江)石山寺 堂大間八間四面南向 此所ハ仁王門有場所山けいだい共大ニ宜敷所也
三月四日 一 石山泊り ひし屋善兵衛 木銭三十文 米六十八文 金六〆四百四十八文 |
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1866/4/18 玉水から長池(城陽市)、宇治(宇治市)へ。宇治橋により宇治川を渡り、三室戸寺(宇治市)へ。 三室戸寺からから六地蔵(京都市伏見区)、下ノ醍醐から山を上り上ノ醍醐へ(共に京都府伏見区)。そこから山を越えて岩間寺(滋賀県大津市)。岩間寺から山を降りて石山寺(大津市)。石山(大津市)で宿泊。 |
3/4 西郷隆盛・小松清廉・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻らと大坂を出航(Wikipediaより) |
3/5 此所より大津迄舟ニ而参り舟ちん廿四文 一 石山より大ぢへ 二り八丁 石山大津ノ間ニせた(瀬田)ノはし 川中ニ山有山ノ手前ハ三十六間向ハ九十六間 からはし(唐橋)銀ぼし(擬宝珠)也 次ニぜゞ(膳所)の城あり 海ばた大ニ宜敷城也 并ニ大津宜敷町也 一 大津み井寺(三井寺)よりからさき(唐崎)ノ一つ松迄壱里 海ばた参也 此松日本一ノ名木也 東西ハ三十間 南北ハ三十八間 からかさ(唐傘)ノごどぐニさがるなり 一 からさぎより坂本ヘ 一里
此所当照権現ニ坂本さんのふ(山王)権げん 其外様々ノ名所あり 一 坂本よりひゑ山(比叡山)へ 五十丁 ひゑ山本社・奥ノ院大社なり 一 ひゑ山よりすぐ道京へ 三り 又くらま(鞍馬)へ廻れバ六り半也 三月五日着仕候 一 京宿 柳ノばゞ(馬場)せいかん(誓願)寺下ル丁 扇屋正七 二ばん三百六十文 宿払 |
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1866/4/19 石山は瀬田川の下流に位置する。ここから舟で瀬田川を下り、瀬田唐橋の下を通り、琵琶湖に出て膳所城の沖を進み、大津(滋賀県)へ。 大津から三井寺に向い、三井寺から坂本(大津市)へ。途中に唐崎の松を見物。現在あるのは三代目で栄太が見たのは二代目は大正10年に枯れたという。 坂本から比叡山に上り、比叡山から京都へ。京都の扇屋に宿泊。 貞享二年(1685)刊行の「京羽二重」という地誌に巡礼宿として柳馬場蛸薬師上ル町の扇屋正七が記載されているという(6)。 栄太の道中帳に記載されている誓願寺通というのは現在ない。元誓願寺通はあるが、柳馬場通と交差しないまったく違う場所である。誓願寺通とは、現在の六角通の別称である。したがって、道中帳にある扇屋正七の住所は「柳馬場通六角下る」となる。 |
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3/6 一 京六角堂 次かうとう(革堂?)堂 次ニきんり(禁裏)様拝見仕候 次ニさまさま名所京らく中見物 西御門関(跡)・東御門関(跡)・三十三間堂 ちほういん(知恩院) 天下様ノ御たまや(霊屋)也 此寺大つり金あり 此寺前ニ 一 日本宗源吉田宮様 御守頂戴仕候
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京三月五日着 一 壱歩 はかま 一 三〆三百問 風呂敷大小廿枚 一 二朱 せうせう代壱ツ ぶつき(仏器)四ツ 一 三百文 せんす 一 百文 くす(櫛)九枚 一 百廿四文 ひも 一 百七十文 かけず 四ふく 一 百四十文 釘百本 一 百文 笹へり 一 五百廿四文 柳こり 内弐百十九文篭代引 三百五文出し |
1866/4/20 京都見物・買い物もこの日か?。
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3/7 一 同七日京出立 二条ノ御城通り 次ニ北野ノ天神 次二おむろ(御室A) 一 京宿よりあだご(愛宕)へ 二り半 あだこ坂上り五十丁あり 下り五十丁 一 あだこよりほづ(保津)村へ 二里 あだごよりほづ(保津)村迄二りノ内 家壱軒も無之候 A おむろ=京都右京区御室にある仁和寺の異称、御室御所。
三月八日 一 ほつ(保津)村泊り 大和屋宗兵衛 木銭三十弐文 米七十文 |
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1866/4/21 扇屋を出て二条城近く、北野天満宮・仁和寺を通り京都市西側の山地を進み愛宕へ。栄太が記載した愛宕が、どこなのかは不明。愛宕山の事か?。愛宕山(924m)の山頂には愛宕神社(全国の愛宕神社の総本社)がある。山地を下り、保津渓谷の上流側にある保津(亀岡市保津町)へ。保津で宿泊。 |
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3/8 一 ほつ村よりかめ山(亀山)城下へ 三十丁 此間ニ川舟渡シちん六文
なんば(丹波)国御高五万石 一 かめ山ノ城下 松平紀伊守
一 かめ山より廿一番あなう(穴太)寺へ 廿丁 一 穴太寺より廿番ノよしみね(善峰)へ 四り半 此間ハ在家所々ニ少々有之候得共山道計 坂ハ無之候得共大ニ不宣所也 一 善峰よりやわた(八幡)八まんへ 二り半 やわだ八まんより八丁手前ニよど川舟渡シあり ちん十六文 大川なり 次ニやわだ八まん大社也 おたびそ(御旅所)ハ御堂ニツ大社なり それより本社迄五丁計坂上り 本社ハ廿四間四め 惣切石壱丈計たかき候 大門ハ三方ニあり 外わき堂とうろう沢山あり 山之内ハ壱りほどあり 町ハ宜敷所なり町前ニほりあり此ほりニ宜橋三ツあり おたびそあとさきニ石ノ鳥居二ツあり 一 八まんより山ざき(崎)へ 一り 又八まん山ざきノ間ニよど川舟渡シちん十六文 やわた八まんよりなら(奈良)見るなり よど(淀)ノ城見ル 三月八日 一 山ざき村泊り 鍵屋安兵衛 木銭三十弐文 米六十四文 弐朱金八百拾文 |
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1866/4/22 保津の横を流れる桂川を渡り、亀山城下(亀岡市)へ。ここは三重県の亀山と区別するため明治二年に亀岡に改称したという。丹波亀山藩は松平(形原)家が治める5万石の譜代大名で、当時の藩主は松平信正。先代の松平信義は四位下、紀伊守・侍従、信正は従五位下、図書守。 亀山から西国三十三箇所第21番札所、穴太寺(亀岡市曽我部町)、20番善峯寺(京都市西京区)。山を下り、淀川を渡り、八幡(京都府八幡市)の岩清水八幡宮へ。引き返すように再び淀川を渡り、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)へ進み、山崎で宿泊。 |
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3/9 一 山ざきより廿二番そうちじ(総持寺)へ 三り 此間ニ小村おふし(多) 一 廿二番より廿三番かつを(勝尾)※ヘ ニり半 (※ かつを=箕面市にある勝尾寺) 此間ニ小村多し 一 廿三番より廿四番中山※へ 四り (※ 中山=宝塚市にある中山寺) 此所より半り行バ大坂見ル 大坂へ五り 此間小村あり 又中山五十丁手前ニ池田ト申宜敷町あり 是ハいけだ諸白Bト申て酒ノ名物なり 酒屋多し
B 諸白(もろはく)=上等白米を用いた麹と蒸米で醸した酒。片白に対していう。濁酒の一種、
三月九日 一 中山泊り 鶴屋辰蔵 木銭三十弐文 米六十五文 金六〆五百六十四文
此所茶や宿そうおふ(相応)ニ有之候 廿四ばんくわんおん(観音)宜敷所 仁王門あり又左り方ニ石のからどあり |
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1866/4/23 山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から西国三十三ヶ所巡礼の22番の補陀洛山 總持寺(大阪府茨木市)。次に23番の応頂山勝尾寺(大阪府箕面市)。次に24番の紫雲山中山寺(兵庫県宝塚市)へ。中山手前の池田(大阪府池田市)は酒造りが盛んな地域。中山に宿泊。 |
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3/10 一 中山より小ばま(小浜)へ 十二丁 次ニす本川舟渡ちん廿七文 一 小ばまより西ノ宮へ 二り半 西宮宜敷町也 此所ニ西ノ宮大神宮大社なり 奥院八ツみね(峰)作なり 前ニはす池あり 池ニこい・ふな.かめ沢山御座候 一 西ノ宮より住吉ヘ ニ里 住吉宮あり宜敷町也 此所より明石迄はまべなり 平地至て宜敷所也舟付小村も多し 一 すみよし(住吉)よりひやうご(兵庫)へ 二里 又すみよしよりま屋山(摩那山)(摩耶山)へ行道ありまや山へ五十丁ノ廻りなり往来より見ルなり 又ひやうごよりあかし(明石)へ五り 此間ハあい(間)ノしく(宿)計ニ而宿なし 右ノ内 一 兵後よりすま(須磨)へ 五十丁 次ニすま寺へ三丁 此所二一ノ谷ゆらい(由来)沢山あり 次ニあつもり(敦盛)ノくびつか(首塚)あり 次ニ一ノ谷がんちぎ 一 すまより一ノ谷ヘ 一里 此所大道ノわきニあつもりノ石とう(塔)あり 又并ニ茶屋あり そばノあつもり名物ト申ていろいろすゝめるなり 一 一ノ谷よりあかしへ 三里
三月十日 一 明石泊り 茶屋久右衛門 木銭三十弐文 米六十五文 此所明石城下なり 六万石 松平左兵衛守 |
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1866/4/24 中山(兵庫県宝塚市)から小浜(宝塚市)、武庫川を渡り、西宮(西宮市)の西宮神社に立ち寄る。西宮から住吉(神戸市東灘区)、兵庫(神戸市兵庫区)、須磨(神戸市須磨区)へ。須磨寺は源平合戦ゆかりの寺で、敦盛の墓(首塚)があり、胴体が祀られているという。「一ノ谷がんちぎ」不明。須磨寺から一ノ谷(神戸市須磨区一ノ谷町)へ。「あつもりノ石とう」とは、街道沿いにあった敦盛塚のこと。ここには茶屋があり、「敦盛名物」をいろいろ勧めたという。 一ノ谷から明石に進み、明石城下に宿泊。明石藩は元々6万石であったが、天保13年(1842年)に加増され8万石(10万石格)になっている。当時の藩主は松平慶憲(従三位・兵部大輔、左中将) |
3/10 坂本龍馬、鹿児島に到着(a) |