道中帳 

青字は、「旅へのいざない」による注釈です。

赤字は、私が付け足した注釈です。

道中帳

買物覚、金払口

(巻頭・巻末に記載されたものを日付順に示す)

解説(新暦で記載)

同時期の出来事

2/21(2/20)

此所出口ニ川有舟ちん三文

一 あたわより新宮へ 二里

 新宮入口ニおどなし(音無)川有舟ちん三十文 常ハ廿五文

二月廿一日

一 新宮 石垣牛之助様へ

 朝五ツ時着参

 御山役銭百三十三文出し 御酒・御吸物・御礼頂戴ご()紙三十枚 代九十文

一 新宮よりみわざき(三輪崎)へ 一里

 半り行バひろずみ(広角)村 次ニみだらい(御手洗)のはま

一 みわざきよりうぐひ(宇久井)へ 一里

次ニ此はまニなちぐろ(那智黒)のごいしあり 次ニ二位ノあま石塔(北条政子の宝篋塔)有 きつね嶋稲荷ノ社有

一 うくひよりはま()宮へ 五十丁

 はま宮明神三社有 那智山下馬より本社へ十八丁 仁王門より右へ八丁行バ三国一ノ大だき(那智の滝)有 本社観世音脇立十二社 (※ 本社=西国三十三所第一番 青岸渡寺)

二月廿一日

一 那智山 宿坊 実方院

 おとしもの三人壱歩ニ山役銭百廿四文

一 ごがミ(牛紙) 新宮ニ而三十枚 代九十文

一 〃[牛紙] 那智山廿枚 代四十文

1866/4/5

阿田和で尾呂志川を舟で渡る。

新宮手前で熊野川を渡る。普段は25文の所を30文の費用。二日前の大雨・風の影響か?。ここから和歌山県になる。新宮(和歌山県新宮市)で石垣牛之助(御師か?)の所に行き御山役銭を払い、酒・お吸物・御札・牛紙30枚ゲット

新宮から広角、御手洗海岸近くを峠越えして三輪崎(新宮市)

「御手洗」は熊野に上陸した神武天皇が、熊野の女王丹敷戸畔(にしきとべ)を討った際、手についた血を海水で洗った所とされている。

三輪崎から宇久井(那智勝浦町)へ。

三輪崎と宇久井の間にある佐野の浜辺には那智黒ブランドの碁石用の石が採れたという。(現在は採石場で生産されている)

佐野には2度熊野詣をしたという二位尼(北条政子)の宝篋塔がある。

キツネ島は宇久井駅東側の半島

宇久井から浜ノ宮へ。浜ノ宮から内陸に進み那智山青岸渡寺(西国三十三ヶ所 第1)。本尊は秘仏の如意輪観音。「三国一ノ大だき」は那智の滝の事。

実方院は那智の御師で宿坊を経営していた。「おとしもの」とはお布施(宿代)のことか?

2/20

2/22(2/21)

 那智御山懸ケ越也 是より大くもどり(大雲取)ト云坂也 上り下り四里小ぐぢ(小口)村迄

一 那智山より小ぐぢへ 四り

 こぐぢより三丁計行バ川有舟わたしちん三文 次ニとうゆ坂(堂の坂?)

一 小ぐぢよりうけ()川へ 三り

 小ぐぢトうけ川ノ間ニ小くも取(小雲取)トいふ坂有

二月廿二日

一 請川泊り 受川屋伊平治

 木銭十八文 米七十五文

1866/4/6

那智から熊野古道を北西に進み大雲取越という峠道を通り小口(旧熊野川町 現在新宮市)へ。小口で熊野川支流の赤木川を渡り、小雲取越という峠道を通り請川(旧本宮町 現在田辺市)へ。赤木川を渡り、最初の坂道が小雲取越最大の難所で堂の坂と呼ばれる。「とうゆ坂」とは堂の坂の事か?

請川に宿泊

2/21

2/23(2/22)

此所出口ニ小川有舟わたしちん三文 もご(向う)ニ見るハおとなし(音無)川 此川ハ越不申候

一 うけ川より本宮へ 半り

本宮町也 本社入口ニ橋有銀ぼし(擬宝珠)らんかん也 此川おとなし川也 わき見るハおみね(御峰)川也

本社ノ外脇立十二社 此所ハ山役銭不入

一 本宮 宿坊 尾崎太夫

此所不入壱銭も たゞご()紙受取計

次ニ町一丁計もどりつゝの小橋あり 是よりゆ()のミねへ参道也

一 本宮よりゆ()ノみね()へ 廿五丁

此間おごりノはんくわくる坂有 峠ニ家一軒有 此所而おごり(小栗)ノはんくわゆらい(判官由来)しらせる也 次ニゆのみねゆ()へ入也 日本市のゆ(日本一の湯)也 此所ニきみい(紀三井)寺道ノおいわけ有

一 ゆのみねよりゆ川(湯川)へ 二り半

一 ゆ川より野中へ 二里

ゆ川トの中ノ間ニめをと坂(夫婦坂)トいふ坂三ツ有 上り下りの中迄二り

一 の中よりちかつゆ(近露)へ 三十丁

二月廿三 ちかつゆ泊り 田中屋善右衛門

木せん十六文 米八十五文

金六〆四百文

1866/4/7

請川より大塔川を渡り本宮(田辺市)へ。向うに見える音無川(熊野川の事か)は渡らない。

本宮で音無川にかかる橋を渡り熊野本宮大社へ。当時熊野本宮大社は熊野川の中洲に位置していたが、明治22年の洪水で流され、現在の社殿は山の上にある。

尾崎太夫は御師か?

本宮から湯峯(田辺市)へ。湯の峰温泉に入る。この温泉は日本で最も古い温泉といわれている。また、小栗判官がここの湯に入り蘇生したといわれている。本宮・湯峯間の峠に当時家が一軒あり、小栗判官の由来を知らせていたという。観光看板のようなものがあったのか、それとも語り部がいたのか?

湯峯から湯川(湯川川上流の事か?。湯川王子や湯川一族の墓がある)、湯川から野中(田辺市)へ、途中に

夫婦坂という坂がある。岩神峠から熊瀬川谷までの坂道を男坂、熊瀬川谷から草鞋峠への坂道を女坂というらしいが「坂三ツ有」なので、もう一つは不明。野中から近露(田辺市)に行き宿泊。

2/22

2/24(2/23)

 次ニ大坂峠(逢阪())トいふ坂有 此手前ニ小川有 次ニ十丈峠トいふ坂あり 次ニ十丈村あり

一 ちかつゆより高原へ 二り十一丁

 次ニしほ見(潮見)坂トいふ坂有 此手前ニ小川あり

一 高原よりしば()へ 半り

 次ニ川あり

一 しばよりみす(三栖)へ 二り半

 次ニ小川あり 次ニまる(万呂)村有

一 みすよりたなべ(田辺)へ 一り半

田名部 三万五千石 安藤帯刀(たてわき)(?)

一 たなべよりみなべ(南部)へ 二里

 此所二りノ場所はまべ也 ミなべ町中ニ小川有 板はしちん三文

二月廿四日

一 ミなべ泊り 山おじ吉兵衛

 木廿四文 米七十文

 金六〆四百五十文

1866/4/8

近露から逢坂峠に上り、そこから熊野古道は山の尾根に沿って十丈峠、十丈村(位置不明)を通り高原(田辺市中辺路町高原)、芝(田辺市中辺路町栗栖川)、潮見峠(道中帳の芝と潮見峠の順序が逆)、三栖・万呂(田辺市)、田辺(田辺市)へ。ここから海岸沿いのルートを北上し南部(みなべ町)で宿泊。

田辺は紀伊田辺藩の城下町。紀州徳川家の付家老安藤氏が治めていた。独立の藩と認められて立藩したのは二年後の慶応四年。慶応二年当時の藩主は安藤直裕。安藤帯刀長とは安藤帯刀直裕と書こうとして筆を止めたためか?

2/23

2/25(2/24)

次ニミなべとうげ(南部峠)・うミくら峠(片倉峠?)といふ小坂有 次ニいわしろ(岩代)松 次ニきりべ(切目)川トいふ川有 舟渡シちん四文

一 きりべよりいなみ(印南)へ 二里

次まめ坂(豆坂)ふどう・清水ごんげんのやしろあり 次上野村かり(あり?)

一 いなみより小松原へ 三り

小松原手前ニ日高川舟渡ちん十文 此川あまた川(天田川)トもいふ也 次ニかねまき(鐘巻)道成寺へ三十丁 此寺御本ぞんハ十一面観音 壱寸二分ノゑぶだこんノかね也 又奥州白川出生ノあんつんぼう(安珍坊)ト日高郡きよひめ(清姫)トちぎり()こみ 夫よりだんだんのゆらへ(由来)のまきもの(巻物)

 是非拝見ハ壱人ニ而も百文・何人ニ而百文ニ御座候 右之ゆらいハ筆紙ニ及兼候 寺ハ大間五間ニ七間也 外七堂がらん也 仁王門有石だんハ六十二丁

一 道成寺より原谷へ 二里半

一 はら谷よりいせき(井関)へ 二里

 此間ニしゝがせ(鹿ヶ瀬)坂トいふ坂有上り下り五十丁 次ニ川有橋有

二月廿五日

一 いせき(井関)泊り 橋本屋治兵衛

 木銭廿文 米七十文

1866/4/9

南部から南部峠・片倉峠を越えて岩代(みなべ町)へ。「松」の意味不明。

切目川を渡り印南(日高郡印南町)へ。豆坂不動と清水権現の社は調べられなかったが、切目川河口から印南に行く途中に豆坂という坂がある。印南の次に上野(御坊市名田町上野)、次に日高川(別名天田川)を渡り小松原(御坊市湯川町小松原)、次に鐘巻道成寺へ。ここは「安珍清姫」伝説で有名。

ここから北に進み、原谷(日高郡日高町)、山を越えて鹿ヶ瀬(有田郡広川町)、井関(有田郡広川町)で宿泊。

2/24

2/26(2/25)

 次ニ小川三所有 何レも板はし也

一 いせきよりゆあさ(湯浅)へ 一り

 次ニ川あり ひろ()へ行道あり

一 ゆあさよりみや原(宮原)へ 一り半

 次ニぼうぢ(坊主)(方津戸)とうげニいどがとうげ(糸我峠)トいふ坂有

次ニひばら(檜原)(雲雀:ひばり)山 中将姫なをらしたまふ所寺あり 次ありた(有田)川舟渡シちん十五文

一 宮原よりかもだに(加茂谷)へ 一り半

 此間かふら坂(蕪坂)あり 坂中ニ弘法大師ノつめかた(爪形)ノあミだ(阿弥陀) 地蔵そん()堂ノ中ニ岩あり 坂上り下り五十丁

一 かもだにより藤代へ 一里

 此間ニふちしろとうげ(藤代峠)(藤白峠)伝坂有上り十九丁下り廿五丁峠ニ地蔵そん有 かなをか(金岡)の筆すての松あり同硯石あり 次ニふちしろごんげん 次亀すちぎノ屋敷(亀井鈴木の屋敷)あり    (※かなをか=巨勢の金岡?)

一 ふぢしろよりきみい(紀三井)寺へ 一り半

 此間ニなかた(中田)・ひかた(干潟) (日方)・くろゑ(黒江) 此所ハきしうわん(紀州湾)(紀州椀)ノ出る所

一 二番紀三井寺

 ニ王門有七堂がらん 石だん弐百四十弐丁

 此所よりいもせ(妹背)ノはいでん(拝殿) わがのうら(和歌ノ浦)へ舟ニのり可申候 十八丁ノばせう(場所)十八文ノ舟ちん也 此所ニ玉津嶋明神・わが(和歌)天満宮・かたおなみ(片男波)・東照権現

一 きみゐ寺より若山(和歌山)城下へ

 舟のり一り廻り二り

五十五万石 紀伊中納言

二月二十六日

一 若山城下泊り 立花や左兵衛

 木三十五文 米七十五文

1866/4/10

井関から湯浅(湯浅町)へ。広(広川町)は湯浅に隣接する町。

湯浅から方津戸峠、糸我峠を越えて第九番・雲雀山・得生寺(和歌山県有田市糸我町中番229)。ここは中将姫伝説で有名。

有田川を渡り宮原(有田市宮原町)へ。ここから蕪坂(拝ノ峠:はいのと)を越えて加茂谷へ。蕪坂に「つめかたノあミだ地蔵そん」とは爪書きのこと。加茂谷は地名ではなく加茂川沿いの谷という意味で藤白坂の手前と考えれば海南市下津町の橘本付近か?。藤白峠付近に峰寺があり、藤白坂に筆捨松がある。ここは平安時代の宮廷の絵師・巨勢金岡が熊野権現の化身である童子との絵の書きくらべをして負け、くやしさのあまりもっていた筆を松の根本に捨てた所。

坂を下りた所に藤白神社(藤白若一王子権現社)があり、ここの神官を務めたのが藤白鈴木氏。神社内に鈴木がある。ここは全国の鈴木姓の聖地?。衣川で源義経と共に討ち死にした義経の家来の鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟もこの地の出身。

藤白(海南市)から日方・黒江(海南市)を通り紀三井寺(和歌山市)へ。途中の黒江は黒江塗といわれる紀州漆器(紀州椀)で有名。

紀三井寺から和歌山市内に進み宿泊

2/25

2/27(2/26)

一 若山より八けんや(八軒家)へ 一里

次ニきの川(紀ノ川)舟渡シちん十文 但シよしの川(吉野川)トも云也

一 八けんやよりいわて(岩出)へ 二里半

一 いハでよりこがわ(粉河)へ 二里

 町中より左に入大門見る

一 こ川よりおうつ(麻生津)

 おうづ入口ニきの川舟渡ちん十文 但し由の川トも云 次ニをづとうけ(麻生津峠)坂有 上り二十八丁

一 をづ(麻生津)よりしが(志賀)へ 二里

一 しがより花坂へ 二里

此所糀屋元右衛門ト云茶屋ニ案内被下 同酒被下候

一 花坂よりかうや(高野)大門迄 五十丁

 大門より御別当迄十八丁 又花坂より大門迄ニ弘法大師けさかけ()石・おし()上石・ねち石・かと石・かゝみ石有

一 大門たが()さハ二十五間はゞ拾五間 仁王ハ壱丈六尺也 次ニやくし如来・四社明神・大日堂 七堂がらん也

二月廿七日ばん五ツ時着

一 高野山 宿坊 辺()照光院泊り

三番ノ粉川ニ而

一 八拾文 どう中き

1866/4/11

和歌山から八軒家(和歌山市出島)へ進み、紀ノ川を渡って岩出(岩出市)、粉河(紀の川市)へ。西国三番粉河寺は大門を見ただけ?。再び紀ノ川を渡り麻生津(紀の川市)へ。ここから南へ山を上り麻生津峠を越えて志賀(かつらぎ町)・花坂(高野町)・そして高野山へ。志賀から花坂へは茶屋の糀屋元右衛門がガイド?

高野山の遍照光院に宿泊。ちなみに遍照光院は現在も営業中?

2/26

2/28(2/27)

同廿八日 おくのゑん(奥ノ院)拝見 日本六十六ヶ国ノだいめう(大名)衆ノ御たまや有 すがた見(姿見)ノ井有 むきふ(無明)はししんちうノ銀ぼし はし板ノうらニぼん()字有 てうざ(長者)ノ万とうろう(灯篭) ひん()ノ一とうろう(灯篭) 是ハへそく(幣束)立居申候 又下り左り入 せう()人ねんぶつ(念仏)ノゑこ(回向)とな()へ申候 又ふどう坂下り五十丁 坂中ニ親あとふむ(後踏)トいふなんぢう(難渋)ノ岩ニ足計有之候 かうやより右之五十丁ふどう坂(不動坂)下レバかミや(神谷)トいふ

高野山宿払壱人分三百文づゝ 仏ハきりう次第

一 かみやよりじそういん(慈尊院)へ 二り

 此間ニ小川有板橋 きの川トおち()合也

二月廿八日

一 じそういん泊り はたや嘉右衛門

 木銭三十文 米ハ八合ばんノ所なれ共 長ばんチなおし九十文也

 金ハ六〆弐百六十四文

一 百四十五文 高野山ニ而 じち弐ツ

1866/4/12

高野山見学後、不動坂を下り神谷(高野町)へ。ここから峠越えしたのか川沿いに下ったのかは不明であるが、紀ノ川沿いの慈尊院(九度山町慈尊院)に進み、ここで宿泊。

2/27

2/29(2/28)

次ニきの川舟渡シちん六文 よしの川ともいふ也

一 じそういんより光龍寺(光滝寺=地名)迄 二り

 次ニかうの滝村有

一 光龍寺よりまきのふ(槙ノ尾)寺へ 三十八丁坂也

御堂七間四めん 六丁下り大門・仁王也 是より三十六丁道也

一 まきのふ(槙ノ尾)寺よりよご山(横山)へ 二り

 次ニ在家多し 又道ハ大ニ平地ニ而宜敷所也

一 よご山よりさかい()へ 六里

 此所鉄類きりは(切刃)物宜敷出ル所也

二月廿九日

一 さかい 南部宿 さつま屋字右衛門

 此宿ハかうや山よりも御さしじ(指図)被下候 したがて相尋可申候 たとい(仮令)もてひる通ニ而もぜひ立ちより可申浄所也 但シ

 木銭三十弐文 米七十文ニ而御座候

1866/4/13

慈尊院から紀ノ川を渡り和泉山脈を越えて光滝寺(河内長野市)へ。ここは滝畑ダムの上流に位置する。光滝寺から山道を進み四番槙尾山施福寺へ。ここから山を下り、横山(和泉市北田中町?)を通り堺(堺市)へ。

堺の薩摩屋に宿泊。

鶴岡のセレブ「きよのさん」(4)によると、「薩摩屋」は「大家なり」だったとか。。。おなじ宿なのかは不明。

2/28

2/30(2/29)

但シさかい内ニてつほうかじ(鉄砲鍛冶)町見物 次ニ妙国寺そでち(蘇鉄)見物 本壱本ニ而ゑだ百廿九本也 次ニ町出口ニ大橋有り 此はしハさかいト大坂ノ境也 次ニなミや(難波)ノかさ()松あり 此松ハ本ハ壱本 四方へやぐらをかきはいさせ申候へバからかさ()ノごどぐニ四方十間ほどニ而大ニ□木ト見へめ()ふ木也 次ニ住吉四社大明神 大社也

但シさかいより大阪迄安()内頼 代百文

二月卅日四ツ時ニ着仕候

一 大阪宿ふんとう 河内屋四郎兵衛

木せんニ而百三十弐文つゝ

 此宿ハはたごニ而も木銭ニ而ものぞみ次第

一 三百六十四文 さかいニ而

 かみそり弐本 こがだな壱本

1866/4/14

堺から大阪までガイド料百文。ガイドを出したのは薩摩屋か?

宿は長町7丁目の分銅河内屋四郎兵衛(現在は浪速区日本橋4丁目と5丁目)。東海道中膝栗毛の主人公である弥次さん・喜多さんも泊まった事になっているらしい。「旅籠にても木銭にても望み次第」。さすが大阪商人!!

寛政三年(1791)調査によると、内屋四郎兵衛、座敷間数およそ72(5)

2/29

坂本龍馬、小松・西郷の帰国に同行し、京都を立つ(a)