道中帳 青字は、「旅へのいざない」による注釈です。 赤字は、私が付け足した注釈です。 |
道中帳 買物覚、金払口 (巻頭・巻末に記載されたものを日付順に示す) |
解説(新暦で記載) |
同時期の出来事 |
2/11(2/10) 一 ふぢ川より岡崎へ 一里半 此所ニ大橋有七尺間百五十六間 橋より御城見ル也 一 おかざきよりちりふ(池鯉鮒)へ 三里卅丁 一 ちりふよりなるみ(鳴海)へ 二里卅丁 此所なるみ絞の名物也 一 鳴海より宮へ 一り半 一 宮より名古屋へ 一り半 此所宮より町つゝきなり 家数七万ほと有ト云
二月十一日 一 名古屋泊り 本町六丁目 舛巣屋六兵衛 木銭四十文 米壱升八合 此所おわり(尾張)ノ御城下也
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1866/3/26 藤川より名古屋へ 藤川から岡崎(岡崎市)、矢作橋を渡りながら岡崎城を見る。池鯉鮒(知立市)、鳴海(名古屋市緑区)、宮(名古屋市熱田区)、名古屋の本町六丁目(中央区)に宿泊。
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2/10 |
2/12(2/11) 一 名子屋よりつしまへ 五里 此所ニ牛頭天王大社有 御参詣并ニ御守請可申事又ひ間とり宿可致所也 代七十五文 くわなへ三りノ渡舟ニ而着シちん三十弐文 外ニ酒代廿八文くれ(呉)
二月十二日 一 くわな泊り いろはや源助 木銭三十五文 米六十四文 金六〆四百文 |
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1866/3/27 名古屋から桑名へ 名古屋から愛知県西部の津島(津島市)へ行き、津島神社を参拝する。津島神社は古くは津島牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称されていた。疫病除けの神として信仰を集めていた。主に中部地方にある「津島神社」もしくは「天王社」の総本社。 東国から桑名に行くには宮から伊勢湾を横断する「七里の渡し」と佐屋から木曽川を下る「三里の渡し」があった。三里の渡しは佐屋は津島から二十丁の距離で、半月交代に桑名までの川舟を出していた。(上十五日は津島、下十五日は佐屋という記録もあるという)。三里の渡しでは、船賃の他に酒代(酒手、チップのこと)が必要だった。(5)
桑名(三重県桑名市)で宿泊 |
2/11 |
2/13(2/12) 一 くわなより四日市へ 三り八丁 次ニ川有かり橋也 一 四日市よりおいわけ(追分)へ 此所左いせ道 右京道 次ニ川二ヶ所有何レも板橋 はしせん四文ニ三文 一 おいわけよりかんべ(神戸)へ 二里 一 かんべよりしろこ(白子)ヘ 一里半 此所より五丁計行バ子安町有 子安くわんおん(観音)日本惣社也 さんけい(参詣)并安ざんノ御守十三文ニ而請友(右)くわんおんノ次第ニ付しろこト云也 一 しろこよりうへの(上野)へ 壱里半 此所左へ入 一 うへのよりつ(津)ヘ ニ里
二月十三日 一 津泊り 野々津屋平兵衛 木銭三十五文 米六十四文 金六〆四百五十文 |
一 十弐文ニ而 白こ町ニ而子安観音安ざんノ守請 |
1866/3/28 桑名から津へ 桑名から、四日市、日永追分(以上四日市市)、神戸、白子(以上鈴鹿市) 白子では、安産のご利益があるとされる子安観音寺(高野山真言宗の観音寺)を参拝する。本尊は昔、鼓ヶ浦の海の中から赤ん坊に背負われて現れたという「白衣観世音」。参拝後、上野(津市。旧河芸町)を通り、津(津市)へ。
津に宿泊。
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2/12 幕府軍、長州の四境に迫る。 |
2/14(2/13) 一 つよりくもちヘ ニ里 此所ニくもぢ川(雲出川)舟渡シちん十文 一 くもちより松坂へ 二里 一 松坂よりくし(櫛)田へ 二り 此所川舟渡シちん十弐文 次ニ半里計行バ又川有舟渡シちん六文
一 くし田よりおはた(小俣)へ 二り 是より一り行バ宮川ト云町有 次ニ宮川舟渡シ 此所ハいせ(伊勢)太夫よりつそ(馳走)ノ舟なり 次いせノ山田町 それより拾五丁計行バ三日市太夫治朗へ直々着仕候
二月十四日 一 三日市太夫治郎 着参 壱役壱歩卜弐百八文 |
一 松坂半切 八百文
一 太夫治郎へ上 壱歩卜弐百八文
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1866/3/29 津より伊勢へ 津から雲出(津市)を通り雲出川を渡り松坂、櫛田(松坂市)、小俣、宮川(以上伊勢市。旧小俣町)と来て宮川を渡り山田町(伊勢市)へ。 宮川の渡し舟は、「御師の御馳走舟」といわれ、誰でも無料で乗る事が出来た。
三日市太夫次郎(みっかいちたゆうじろう)は、山田の代表的御師(おんし)で、檀家数は35万戸。 御師は、自宅を宿坊として参宮者を泊めていた。三日市太夫次郎邸宅跡は、伊勢市岩渕一丁目2番24号、伊勢税務署北付近。※市役所西側。(5)
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2/13 |
2/15(2/14) 同十五日外宮御参詣 あま(天)ノ岩戸 次ニ内宮迄五十丁馬ニ乗参詣 次ニあさまだけ(朝熊岳)迄六十二丁のぼりこくぞう(虚空蔵)参詣 万金丹半切代調 下りニハ茶やより右ニ入下り坂廿二丁有 坂ノ下タ茶やて(で)酒弁当ノ仕度仕候て 茶屋より又太夫迄一里半余馬ニのり |
一 弐朱 万金丹(まんきんたん) ※二朱=半切
一 御はらへ 六十枚 代百八十四文 一 御はぢ十弐文 あさま(朝熊)山ニ而こくぞうさん御守請 |
1866/3/30 伊勢神宮(外宮・内宮)参拝 内宮までは馬に乗り移動。朝熊岳の虚空蔵参拝。 万金丹(伊勢名物の薬)ゲット。 坂の下の茶屋で酒・弁当の仕度が出来ていて、御師の所まで再び馬に乗り移動する。
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2/14 |
2/16(2/15) 同十六日太夫治郎出立 宮川迄安内 酒持参仕被下侯
一 伊勢山田より田丸へ 一り半 山田ト田丸ノ間ニ宮川舟わたし 此所ハちん不入 一 田丸より原ノ大辻へ 一り半 一 原ノ大辻より大かせ(相鹿瀬)へ 一里
二月十六日 一 大かせ(相鹿瀬)泊り かとやニ泊り 米六十六文 木廿四文 金六〆四百文 |
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1866/3/31 御師の所を出立。 宮川(伊勢市 旧度会郡小俣町)まで案内(しかも酒付き)。途中の宮川も船賃無料。 以後、熊の古道沿いのルート。 田丸(度会郡玉城町)、原の大辻(玉城町原)、峠を越えて、相鹿瀬(多気郡多気町)へ
相鹿瀬に宿泊
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2/15 |
2/17(2/16) 一 おおかせよりとちはら(栃原)へ 一里半 一 とちはらよりあを(阿保)(粟生)へ 同 一 あをよりみせ(三瀬)ヘ 一り十五丁 此所ニ見せ(見瀬)川舟わたし ちん六文 次ニ大坂有 一 みせよりのじり(野尻)へ 一里 一 のしりよりあそ(阿曽)へ 一里 此所ニ滝原大神宮ノ社有 一 あそよりかしハノ(柏野)へ 一り 次ニ川有板はしちんなし 但シ大水ニハ左へ廻べし 一 柏野よりさき(崎)へ 半り 次ニ川二ツ有板はしちんなし 大水ニハ右へ廻也 一 さきよりこま(駒)へ 半り 川あり大水ニハ右へまわる 常ハ板橋ちんなし 一 こまよりまゆみ(真弓)へ 一り 川有板はしちん無シ 大水ニハ左へ廻也 一 まゆみより梅谷へ 半り
二月十七日 一 梅谷(うめがや)泊り ゑびすや兵助 米六十三文 木銭廿文 |
一 大かせニ而半切 八百文 6400÷8=800 ? |
1866/4/1 相鹿瀬から栃原、粟生(注釈の阿保は間違い)、三瀬(多気郡大台町) 三瀬で宮川を渡り、三瀬川(多気郡大紀町)、瀬坂峠(次ニ大坂有)、野後(大紀町滝原。ここは時代と共に地名がころころ変わっている)。阿曽、柏野、崎、駒、間弓、梅ヶ谷(以上 大紀町) 梅ヶ谷に宿泊
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2/16 |
2/18(2/17) 次ニ坂有 此坂峠ニきい(紀伊)のくにト伊勢くにノ境有 から村有海へちかし 次ニ川あり舟ちん四文 一 梅谷村より長嶋ヘ 一り半 一 長嶋よりみうら(三浦)ヘ ニ里 長嶋ニ十六り間舟有 此舟あら海前かならずのるベからず みうらの前ニのご(鋸)切板あり 次みうら坂(三浦坂)次はじかみ坂(始神坂)有 一 みうらよりむまぜ(馬瀬)へ 一り 一 むまぜよりこう(?)ノ元へ(粉本) 一り半 こうノ元前ニ上里中里下里舟つ村 一 かうノ元よりおわし(尾鷲)へ 二り半 かうノ元おわしノ間ニ川有板はしちんなし まごせ坂(馬越坂)有 おわし次ニやき山坂(八鬼山坂)ありのぼり五十丁下り三十八丁 一 おわしよりみき里(三木里)へ 三り
二月十八日 一 みきさと泊り 伊勢や源兵衛 米七十五文 木せん廿文 金六〆四百文 |
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1866/4/2 梅ヶ谷より国境の荷阪峠を越えて「から村」(?)、長島、三浦(以上 北牟婁郡紀北町)へ 鋸坂位置不明。 道瀬と三浦の間が三浦坂(三浦峠) 太地と原の間(馬瀬の手前。三浦・三船トンネルの上)が始神坂(始神峠) 馬瀬、上里、中里、下里(位置不明)、船津、粉本(=相賀 以上 紀北町) 粉本(古ノ本・木本とも)は明治になり火事が多く「粉」が火の粉を連想するため、古本に町名を変更、その後、町村合併して相賀という地名になった。 粉本から銚子川を渡り馬越峠(まごせ坂)を越えて尾鷲(尾鷲市)へ 次に八鬼山(やき山坂)を越えて三木里(尾鷲市)へ 三木里に宿泊 |
2/17 |
2/19(2/18) 此所ニ大あめかぜニ而一日とうりう(逗留)致 |
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1866/4/3 大雨・風により三木里で待機 |
2/18 |
2/20(2/19) 一 みきよりそね(曽根)へ 二里 此間川二ツ有石はね也 次そね太郎坂そね治郎坂(曽根太郎次郎坂)有 一 そねよりにぎ(二木)嶋ヘ一里八丁 村中ニ川有板はし 次ニ大かめ坂(逢神坂)有 一 にき嶋よりあたしが(新鹿) 一り 一 あたしがよりはたぢ(波田須)へ 一里 次二川有石はね 次ニ大ぶけ坂(大吹坂)有 一 はたずより大とまり(大泊)ヘ 一り 坂あり 川板はしちん三文 一 大とまりよりきのもと(木本)へ 半り 此所ニ田村丸(田村麻呂)ノごかうノくわんおん堂有 一 きのもどよりありまへ 一り半 此所うミノく(陸)が行 しを(潮)さし時ニ十間計ノ入 舟ニのりちん三文 次ニ下市村トいふ村有 はまべ(浜辺)也 此はまをおゆしらず子しらずトいふ所也 引しおノ時ハはまべわたる 又なみ(浪)あらぎ時十三間計ノ入を舟ニのる也 ちん三文 二月廿日 一 あたわ(阿田和)泊り 中嶋や武平治 木銭廿四文 米七十五文 金六〆四百文 |
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1866/4/4 三木里から曽根(尾鷲市)へ 曽根から曽根太郎次郎峠を越えて二木島(熊野市)へ。太郎・次郎とは他領・自領で、国境の意味。 二木島で逢川を渡り、逢神坂峠(大かめ坂)を越えて新鹿、波田須、大吹峠(大ぶけ坂)、大泊、大泊で宮川を越えて木本、有馬(以上熊野市)、下市木、阿田和(以上 南牟婁郡御浜町)
大泊と木本の間は松本峠(木本峠)で大泊から峠に向かう途中に口観音と呼ばれ、泊観音の遥拝所が設けられていた。泊観音は、千手観音像を本尊とする坂上田村麻呂縁りの清水寺のこと。
木本から海岸線沿いの道になり「浜街道」と呼ばれている。浜街道に険しい峠はないが、「親知らず子知らず」の難所があった。海が荒れたときや、河口を渡る際に、多くの巡礼者が波にさらわれたといわれている。
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