Mr.ごんずい ダイビングの歴史 殿堂入りダイビング
忘れられない1本・・・  大満足の1本編
前に戻る


ナズマドの衝撃
ダイバーにとって好きなポイントは幾つかあるものだ。八丈島の有名なポイントの
ナズマドはオレにとって強烈なポイントだった。ダイビングを始めて半年、2回目と
なる八丈ツアーでナズマドに入った時の事。ナズマドには馬の背という岸から
見える根があって、その下に小さいアーチがある。それを越えると外海になる。
外海では回遊魚の遭遇率も高い。ところがそのダイブではエントリーして馬の背
目指しながら泳いでいる最中にツムブリ(レインボーランナーと呼ばれ、非常に
奇麗)の大群がガンガン目の前を通過して行った。1m近くある回遊魚の大群が
自分の回りを取り囲む様に通過して行ったのは初めての体験であり、その後の
ダイビング人生に強烈な印象として残った。

2mのイソンボ
すっかり大物に憧れてしまった1987年の夏。これまた強烈なダイビングとなった
のが秘境・西表島ツアー。ダイバーが誰しも一度は憧れる仲之神島で、自分より
大きな魚というのに初めて遭遇した。イソマグロという名前はマグロだがサバ科の
回遊魚がいるのだが、とにかく仲之神島の魚はデカい事でも有名だ。上級者向け
ポイントである東の根で、強烈な流れの中、アンカーリングしながら鯉のぼりの
様に先行し、根の上でじっと待つダイビング。すると向こうの方から潜水艦の様な
巨大なイソマグロ(通称:イソンボ)が流れに逆らいながら迫って来た。メチャクチャ
デカい。自分より大きく、とても自分では泳ぎきれない流れの中を悠然と泳ぐ姿は
今も鮮明に記憶に残っている。

初めてのブルーコーナー
海外ツアーの中でもパラオは特別な場所にすら思える。特に一番最初にパラオに
行った1990年2月。初めて潜ったブルーコーナーは強烈だった。よく浅井兄貴と
話したものだが、『ハンマーで頭を殴られたくらいの印象』だった。メジロサメなんか
当り前の様にウロついているし、バラクーダは大群をなして巨大なカーテンを作り、
m級のイソマグロやヨコシマサワラがすっ飛んで行く・・・ まるで夢の様なポイント。
『イイ』とは聞いていたが、聞くのと実際に潜って体験するのとはこうも違うものか
と、思ったものだ。これ以上の海があるのか?とまで思った。しかし現地ガイドの
一言、『ここを越える可能性があるポイントはペリリュー』に完全にパラオの魅力に
取り付かれてしまったオレだった。
 
2年越しのペリリュー
初めてパラオに行った前年には天候の都合でペリリュー遠征は叶わなかった。
何しろペリリュー島は遠い。有名な太平洋戦争の玉砕の地でもある。くしくも湾岸
戦争最中の1991年2月14日、遂にペリリュー・コーナーに潜る事が出来たが、
オレ達は戦没者の追悼をしてから潜った。ここは当たれば凄いポイントなのだが、
外れれば全くダメらしい。残念ながら大物という意味ではこの年は外れる事に
なったが、それでも360°全てを魚に囲まれる様な異様な感触があったのが
とても印象的だ。1992年に3回目のパラオツアーでロウニンアジの大群という
大当たりを経験する事になった。が、1994年ツアー・リーダーを努めたツアー
直前にペリリューでダイバー漂流の事故が発生し、我々のツアー参加者らの
メンタル面でのフォローも大変だったぁ・・・ 遺族の人と同じホテルだったし・・・

トカラの強烈な印象
ダイバーなら誰しも、『未知の世界』というのに憧れを持っていると思う。なので
今まで殆ど人が入っていないポイントには非常に興味をそそられるのであ〜る。
オレにとってトカラ列島ツアーはそうだった。鹿児島の枕崎からのクルージング
ツアーであったが、黒潮ド真ん中の強烈な場所だ。流れも半端ではない。排気
したエアーは洗濯機の様にグルグル渦を巻いて散っていく・・・ もちろん初心者
にはとてもお薦め出来ない。潜行は、『行くゾ!せ〜の!』で一斉にドボン潜行。
とにかく水底に辿り付くまで流されずにキックで先行する。すると巨大なロウニン
アジなんかがドーンと登場するのだ。但し、場所的に台風にはめっぽう弱い。
勢力が強いままで来る場所だし、1991年9月のツアーでは今までのダイバー
人生の中で唯一オレが船酔いした程の超・シケを経験。船室の外でゲロったが
次の瞬間には波が足元のゲロを奇麗に流してくれた。

初めての流氷ダイビング
南には行っても、北の海には潜る事がないだろう・・・ 昔はそう思っていた。が、
流氷ダイビングという特殊な環境下でのダイビングを経験する機会に恵まれた
事は何の因果か、その後のダイビング観すら変えてしまった。初めて知床の流氷
ダイビングに出かけた1995年3月、正直言って初めての経験だったので潜る
前日はみんなビビっていた。で、我らショップのオーナー:河野宏がホテルの
水風呂を見て、『オイ!明日は水温−3℃だぞ!それよりは遥かに暖かいこの
水風呂で特訓だ』とバカな事を言い出し、大の男が悲鳴をあげながら水風呂に
飛び込んだのが懐かしい・・・ で、この年のダイビングは肝心の流氷が遥か沖に
出てしまっていて、港に残っていた残骸の流氷の下で潜ったのみ。当時は未だ
ダイバーではなかったごん妻も同行したのだが、彼女は1人でドライスーツを着て
流氷の上で待っていた。これが余程つまらなかったらしく、『私もダイバーになる
と言い出したのも流氷ダイビングがあったからこそである。オネクリが誕生する
事になったのも、全てがこのダイビングがきっかけであった。

ごんずい2号vsウミウシ
1990年11月23日。この日は思い出深い日となった。大瀬崎にてごんずい2号
(平成絶叫マシーン)が大活躍したのだった。非力で無抵抗なモノにはめっぽう
強いこのマシーン、ウミウシの中でも大型であるニシキウミウシとの名勝負だった。
このツアーのリーダーであった荒井さんが、『吸え』と命令を下し、10cmはあろう
ニシキウミウシ(当然ながら殆ど動かない)の直前にごんずい2号を構えたオレ。
ファイヤー!』と叫びながらボタンを押すと、『スポッ』という音と共にウミウシ君が
吸込まれた。でも大きいあまりに本体の筒から尻が出た状態。この姿が面白く、
一同がレギュレータを咥えたままで大爆笑したのだった。

ビビるんですvsシビレエイ
1996年5月25日。遂にシビレエイ発電確認装置:ビビるんですが運命の瞬間を
迎えたのだ。作成してから約8ケ月、あれほど遭遇していたシビレエイと何故だか
ぱったりと遭遇出来なくなっていた。シビレエイとの遭遇率の非常に高い大瀬崎の
湾内ナイトダイビングでは毎回ブリーフィングで注意を促していたのだった。そして
遂に遂に発見!オレを含めて4人が見守る中で初めての接触を試みたのだ。
B.B.Fの電極をジビレエイの背中に・・・ 『プスッ』 おっと、あまりにもの緊張の
為に電極がシビレエイに刺さる(大爆笑)。激しく抵抗するシビレエイに何回か、
発電実験を試みたが、オレの目からはとてもB.B.Fが光っている様には見えな
かった。ところが浮上した後に2人が、『光った』と証言したのだ!ンなバカなぁ・・・
と思いつつも(オレがこれじゃいかんが)、グレーな判定という結末になったのだ。

大瀬で舞ったオネクリ
1996年11月16日、 クリオネ型ロボット:オネクリが初めて海でデビューした。
場所は大瀬崎の湾内。苦心の末ようやく完成したオネクリM−6だが、数日前の
風呂場の実験で、完璧に動作はしたものの、前日に水滴が内部に侵入している
事が判明した。このまま実験を断念するか、約束していた海デビューを水没を
覚悟で実行するか悩んだが、後者を選択した。そしてオネクリM−6は水中で
最初で最後のパフォーマンスを見せてくれた。スイッチを投入すると、『ブルル』と
羽根をバタバタ(激しく)動かしながら螺旋状に回転しながら降下。砂地の水底で
回転しながらバタバタしていると、カワハギやベラどもが集まってきて餌だと思い
ツンツンした。これには一同大爆笑だった。

大瀬ハナダイ三昧
この日は非常に新鮮な1日であった。2000年6月25日、大瀬崎に潜った時の
事である。1本目に先端に潜ったのだが、生まれて初めてアサヒハナゴイを見た
のだ。深場の奇麗なハナダイには非常に興味のあるオレにとって、かなり前から
『いる』と言われていたアサヒハナゴイとの遭遇は感動的であった。しかし写真は
撮れなかった。で、その日の3本に再び先端に潜ったのだ。が、残念ながらアサヒ
ハナゴイを見る事は叶わなかった。しかし、これまた珍しいアカオビハナダイと、
ミナミハナダイに遭遇したのだ。1日にしてレア物のハナダイ3種に遭遇できた
この日は恐らく一生涯忘れない日となるだろう。