ハンス・ロットとマーラーの接点
 

 
    Mahler  Rott
二人の出会い
 ハンス・ロットは1874年にウィーン音楽院に入学し、マーラーはその翌年の1875年に入学します。そしてロットはブルックナーにオルガンを学び、マーラーはユリウス・エプシュタインにピアノを習い、共に作曲をフランツ・クレンに師事します。ロットは音楽院の同輩や友人たちを自室によく招いたとされていて、その中にはマーラーのほかに、フーゴー・ヴォルフ、ルドルフ・クルシシャノフスキー兄弟、フリードリヒ・レーア(後に歴史学者)、ヨーゼフ・ゼーミュラー(後にドイツ語学者)などがいました。

 ハンス・ロットは彼の父親が死亡した1876年2月以降にビアトリスト修道院のヨーゼフシュタット教会音楽協会のオルガニストの職に就き、その修道院の一室に住んだとされています。そこからウィーン音楽院に通っていたのですが、ここにマーラーやハインリヒ・クルシシャノフスキー兄弟、フリードリヒ・レーアらが頻繁に訪ねてきていたようです。

 「マーラーはさらに、ロットがこの交響曲を、僅かな給料でオルガニストとして生活していたビアリスト修道院で作曲したことも話した。彼はそこで、小さくとても静かな部屋をもっていた、という。マーラーは当時よく彼のところを訪ね、彼のこの寝ぐらにいっしょに泊まった。(ナターリエ・バウアー=レヒナー著 『グスタフ・マーラーの思い出』  p.347-8)」

 ハンス・ロットはその頃交響曲第1番とは別の交響曲を作曲していたとされていて(現存せず)、その後、交響曲第1番の第1楽章を作曲したのが1878年5〜6月、友人のクルシシャノフスキー兄弟とエーガー(現ハンガリーのブダペスト北東にあるエゲルか)で過ごした8〜9月に第2楽章を書き始めています。その後、10月にはこの修道院を出ていますが、修道院でどこまで作曲できたかはわかっていません。この後しばらく作曲のペースは落ちたようですが、翌1879年の5月の日付と思われるメモが第2楽章のスケッチに残っていて、次いで第3楽章のピアノ譜が7月から9月のノイシュティフト滞在中に書かれています。第4楽章の下書きも同地で仕上がったようです。11月にはウィーンに戻りその後は友人たちの支援を受けて各地を転々としながらオーケストレーションに励み、1880年7月に全曲を完成させています。なおこの間、ロットに住まいを提供するなど援助していた友人の中にマーラーの名前は見られないようです。


親友ではなかった?
 マーラーがそのビアトリスト修道院の一室を訊ねてきたときに見たハンス・ロットの譜面は未完で放棄された交響曲だったのか、のちに交響曲第1番となる第1楽章だったかはわかっていません。よく言われるマーラーが自分の交響曲第1番の第2楽章冒頭のテーマをハンス・ロットの交響曲第1番第3楽章から借用したという説は、マーラーがハンス・ロットの第3楽章の譜面を修道院の一室で見たという推測に拠っていることになります。しかし、第2楽章をハンガリーのエーガーで作曲し、戻ってからすぐに修道院の部屋を出ていますので、そこで第3楽章の作曲を始め、さらにそこにマーラーが訪ねる可能性はゼロではないにしろかなり低いと考えられますので、その説は怪しくなります。音楽院卒業後のマーラーはフーゴー・ヴォルフと共同生活をしていて、ハンス・ロットとは距離を置いていたとも考えられます。しかも、ナターリエ・バウアー=レヒナーによるとマーラーがこの曲の譜面を見るのは1900年のことになっていて(後述)、その時にはマーラーは既に交響曲第1番を書き終えています(第1稿1888年完成)のでその説は成り立たないことになります。果たして、10年近くも前に見た譜面のテーマをマーラーが覚えているというのも無理があるのではないでしょうか。

 オーストリア国立図書館音楽部門の図書館員トーマス・ライプニッツ氏はウィーン国際ハンス・ロット協会のサイトにおいて次のように書いています。

 「ロットの若い頃の友人ハインリヒ・クルシシャノフスキーはその回想の中でロットとマーラーの間に見た目ほどには真の友人関係というものはなかったと述べています。実際、ロットとマーラーとが親友だったこと示す資料は我々の手元には残されていないのです。一方のマーラーは1877年から1878年にかけてビアトリスト修道院のロットの部屋で定期的に会っていた音楽仲間の輪から1878年以降は身を引いたと考えられます。」

 大量に手紙を出していたマーラーではありますが、マーラーは自分にきた手紙は読んだら直ぐに棄てたとされていて、ロットがマーラー宛に出したかどうかは不明ですが、ロットの手元にはマーラーからの手紙は一通も残っていません。また、残されているマーラーが書いた手紙の中でロットについて触れているのは一通だけで、「わが友ハンス・ロットが気が触れてしまったのだ!」と書いているのにすぎません(1880年11月1日付『マーラー書簡集』 ヘルタ・ブラウコプフ編 須永恒雄訳 法政大学出版局 2008年)。なお、1884年に亡くなったロットの葬儀にマーラーが参列したという記録はないようです(ブルックナーは参列したことはわかっています)。

 アルマ・マーラーの著作『グスタフ・マーラー 回想と手紙』でもロットの既述は2箇所のみとなっています。アルマはマーラーと出会うのはハンス・ロットが亡くなって17年後の1901年ですから、ふたりの会話の中にロットことが話題に上る機会は多くはなかったと考えられます。彼女はまずこの回想に先立って、マーラーの家族のことについて述べる段で、マーラーの母親について語るくだりでロットについて触れています。

 「作曲のコンクールがあったとき、彼(マーラー)は一等賞を獲得した。彼の同級生で友人のハンス・ロットは、ずばぬけた才能にめぐまれた音楽家だったが、落選した。マーラーは帰宅すると、大喜びで受賞の報告をした。母親は憤慨し、目に涙を浮かべながら言った。”ロットの曲はおまえのより出来がよかったのだよ。” 彼の母はそんな人だった。ロットは、まだこれからという若さで発狂した。彼は精神病院のなかでたえず作曲をつづけた。(後略)」

 この内容はアルマがマーラーを知り合う前のことですから当然マーラーから聞いたことを書いていることになり、マーラーはハンス・ロットを「ずばぬけた才能にめぐまれた音楽家」と見做していたことがわかります。なお、このコンクールとは、1878年7月にウィーン音楽院の卒業生に応募資格が与えられる作曲コンクールのことで、ロットは交響曲第1番の第1楽章を提出しましたがあえなく落選、一方のマーラーはピアノ五重奏曲のスケルツォ(現存せず)を提出し、受賞しました。

 アルマ・マーラーがロットに触れたもう1箇所は、ブルックナーの逸話についての既述の中にあります(第8章1907年)。

 「マーラーが一目を置いて、尊敬する友人がいた。ハンス・ロットといった。その彼の交響曲がマーラーのものよりよかったのに賞に落ちたことがあった。ある時ロットの母は息子の進歩の様子をきこうと思い、ブルックナーの家の戸を叩いた。(後略:この後、裸のブルックナーが湯桶から立ち上がった有名な逸話が語られます)」

 しかし、このアルマの「ハンス・ロットの母」という既述は、ナターリエ・バウアー=レヒナーの同じ逸話の既述によると「ルードルフ・クシシャノフスキーの母」となっています。現在の研究では、ロットの母親は彼が14歳の時に死亡しているので、16歳でウィーン音楽院に入学したロットの母親がブルックナーに会いに行くのはありえないとして、この記述はマーラーかアルマの記憶違いとされています。しかし、ここの記述からでもマーラーはロットの才能を高く評価していたことがわかります。


マーラーはロットの作品を演奏したのか?
 英国のマーラー学者ポール・バンクス氏は、『ハンス・ロットとその新しい交響曲』(Hans Rott and the New Symphony by Paul Banks, The Musical Times Vol. 130, No. 1753, Mar., 1989)の中でこのように述べています。このポール・バンクス氏は、ウィーンにあるオーストリア国立図書館でハンス・ロットの交響曲第1番を発見し、草稿から演奏可能な状態に編纂した人物です。

 「のちに考古学者となったフリードリヒ・レーアはロットの友人のひとりで、困窮していたロットに対して経済的に支援していただけでなく、ロットの死後彼が遺した譜面の原稿の管理をしていた。レーアはマーラーの長年のしかも最も近しい友人のひとりで、マーラーは間違いなく、1900年の夏にロットの交響曲第1番の譜面をレーアから借りたのである。この時にその譜面を研究して、マーラーの友人であり伝記作家のナターリエ・バウアー=レヒナーにこの曲をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で演奏するつもりだと話したのである。(p.142)」

 このマーラーがナターリエ・バウアー=レヒナーに語ったことは、彼女の著作に掲載されていて、ハンス・ロットの解説文には必ず引用される箇所です(『グスタフ・マーラーの思い出』ナターリエ・バウアー=レヒナー著、ヘルベルト・キリアーン編、高野 茂訳 音楽之友社1988年)。1900年夏の記述にあります。

 「マーラーは、ハンス・ロットについて話した。マーラーが彼の交響曲を、フィルハーモニー・コンサートで演奏できるかもしれないと考えて、目を通すためにここにもってきていた。

“彼を失ったことで音楽のこうむった損失ははかりしれない。彼が20歳のときに書いたこの最初の交響曲でも、彼の天才はすでにこんなにも高く羽ばたいている。僕が見るところ、この作品は ----- 誇張でなく----- 彼をあたらしい交響曲の確立者にするほどのものだ。もちろん、彼の表現しようとしたものが、まだすべて達成されてはいない。それはまるで、物を投げようとして大きく振りかぶったが、まだ不器用なために目標にうまく当たらなかったようなものだ。でも僕は、彼がどこを目指していたかわかる。それどころか、彼は僕と心情的にとても近いので、彼と僕とは、同じ土から生まれ、同じ空気に育てられた同じ木の二つの果実のような気がする。僕は彼から非常に多くを学ぶことができた筈だし、たぶん僕たちが二人そろえば、この新しい音楽の時代の中身を相当な態度に汲みつくしていただろう。”

 マーラーはさらに、ロットがこの交響曲を、僅かな給料でオルガニストとして生活していたビアトリス修道院で作曲したことも話した。彼はそこで、小さくてとても静かな部屋をもっていた。という。マーラーは当時よく彼のこの寝ぐらにいっしょに泊まった。(中略)ロットは非常に個性的な歌曲も作曲し、ときどき友人たちにピアノで弾いてみせた。しかし、残念ながら彼はそれらを楽譜に書き残さなかったので、彼とともに消滅してしまった。彼には六重奏曲が一曲あったが、マーラーはそれをいちども聴いたことがなかった(p.347-8)。」


 ポール・バンクス氏は、『ハンス・ロットとその新しい交響曲』(既述)の中で、このロットに対するマーラーの言葉は、「マーラーとロットの音楽のスタイルのおける共通性を考えると、何故ロットの音楽に対する関心が今高まっているのかということに対するヒントをマーラーは無意識のうちに与えてくれている。また、入念に作りこまれたその類似性は、彼らが共通していた音楽環境へ関心を導かせつつ、ロットがマーラーの成熟した音楽語法を予言しているという衝撃的な見方をもっともらしく説明するものである。」とも述べています。

 当時マーラーは-ウィーン宮廷歌劇場とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督及び指揮者として活躍していたのですから、普通に考えれば演目に新作を取り上げることはわけないことだったはずです。しかし、実際のところマーラーはウィーンだけでなく他のオーケストラでも一度たりともロットの曲を演奏していないことから、意図的にロットの作品を取りあげなかったと推測されることが多いようです。特にマーラーがロットの作品からヒントを得たとかテーマを借用したためにそのことがばれないように演奏をしなかったという説を補強するにはもってこいの出来事と言っていいかもしれません。

 しかしポール・バンクス氏によると、ウィーンで演奏できなかったのはウィーンにおける当時のマーラーの指揮者としての立場が極めて不安定だったからとしています。1898年に就任して以来、マーラーはその厳しい姿勢や革新性などからオーケストラの団員やウィーンの聴衆、評論家との折り合いが悪くなっていたことはよく知られた話しです。そして、ナターリエ・バウアー=レヒナーに「彼の交響曲を、フィルハーモニー・コンサートで演奏できるかもしれない」と語った翌1901年の4月に、深刻な病気のためにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任していて、コンサートを振る機会はニューヨークに渡った1909年までなかったとしています。しかし、この主張には一部誤りがあり、確かにウィーン・フィルハーモニーのコンサートを振る機会はありませんでしたが、他の都市のオーケストラは何度も振っていて、そのほとんどは自作の交響曲のコンサートで、その数は病気回復以降渡米までの6年間になんと41回公演にものぼります。またこの間、「楽友協会特別公演」で辞任したはずのウィーン・フィルハーモニー相手に5回も自作を振っているのです(オーケストラ名は別でも実質はウィーン・フィルハーモニーでした。)。つまり、マーラーは自作の交響曲を演奏することが最大の関心事であったのであり、自作を振ることに奔走していたマーラーとしてはたとえロットの秀逸な作品といえども二の次になっていたということだったのではないでしょうか。


マーラーはロットの譜面を研究していた?
 CDのブックレットや Web上のロットに関する解説文には、「マーラーが長い間ロットの交響曲第1番のスコアを所有していた」、「マーラーは図書館からロットのスコアをよく借りていた」という記述がありますが、たぶんこれは間違いだと思います。ポール・バンクス氏が述べたようにロットの友人のフリードリヒ・レーアがロットの遺品を管理していて、さらにセバスティアン・ヴァイグルのCDのブックレットによると、そのフリードリヒ・レーアの娘マヤ・レーアが「1924年のフリードリヒの死によって、彼がロットの遺言によって受け取り保管していた草稿(手稿総譜、スケッチだけでなく、手帳やメモ書きなど)を受け継いだ。」、「ロットの音楽関係の草稿は、1950年にオーストリア国立図書館に寄託され、音楽部門の責任者だったレオポルト・ノーヴァクによって1975年に作品目録が編纂されている。」とされています。このロットの遺品の中に交響曲第1番のスコアが含まれていたと仮定すれば、マーラーがこのスコアを所有したり、図書館に行って借りたりすることは不可能だったということになります。つまり、マーラーがロットのスコアを見たのはナターリエ・バウアー=レヒナーに語った1900年だったということになるのではないでしょうか。

 なお、この推測を否定する資料がひとつあります。ウィーン国際ハンス・ロット協会のサイトには Eckhardt van den Hoogen 氏による次のような記述があります。

 「1882年のクリスマスに(精神病院に収容されている)ロットを訪ねたヨーゼフ・ゼーミュラーは、かつて仲間だったマーラーが最近内輪の集まりでこの作品を演奏したことを哀れな友人に伝えた。」

 しかし、「この作品」がロットの交響曲第1番なのかどうかは文脈からは確定できません。この逸話となった元の資料が明らかになるまで結論は持ち越しにするしかありません。友人たちはすでに回復の見込みのない病床のロットを元気づけようと、当時仲間の中では出世頭だった「あのマーラーがおまえの曲を演奏したぞ」と、話しを作り上げて伝えたということもあったのかもしれません。マーラーはその年の4月にライバッハの歌劇場を辞してウィーンに戻っていましたからウィーンで人を集めて演奏することは可能だったと考えられますが、ロットの親友とまでもいかない関係だったマーラーが何故ロットの譜面を持っていたのかという疑問はあります。確かに1882年はフリードリヒ・レーアがロットの遺品を預かる前ですから、ロットのいる病院に行けば手に入れることはできたかもしれませんが、マーラーはロットを見舞いに行ったという記録はないようです。また、ブルックナーも参列したロットの葬儀にマーラーは出席した形跡もないようなので、ロットとは疎遠になっていたマーラーがこの頃ロットの譜面を手にしたとは考えにくいのです。

 この点につきましては次の章で詳しく調べてみようと思います。

 


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