ブルックナーからロット
 

 
                                  Bruckner
 ここでは、ハンス・ロットが師であるブルックナーからどのようなことを受け継いだかをマーラーを横目で見ながら考えていきたいと思います。

トランペットの使い方〜『花の章』との関係
 ハンス・ロットの交響曲の冒頭、トランペットが弱音で吹くソロ聴いて、映画ファンの方だったらジェームズ・ディーン主演の映画『エデンの東(1955年)』にそっくりだと感じることでしょう。もちろんロットの曲は1989年代後半に発見されていますからその映画音楽に影響を及ぼすことは考えられませんから、偶然の一致ということになります。 『エデンの東』はこの章におけるブルックナーとは無関係ですが、参考までに譜面を以下に紹介します(わかりやすいように同じ調に移調してあります)。
                                                   Rott-Eden
 ブルックナー・ファンだったらブルックナーの交響曲第3番の冒頭と、メロディーは異なりますが、トランペットに弱音でソロを吹かせるというコンセプトに共通性を見出すかもしれません。聴衆の大半が途中で帰ってしまったというこの曲の初演の大失敗のとき(1877年)に、最後まで残っていたマーラーやクルシシャノフスキーらの中にいたと思われるハンス・ロットがその意趣返しに敢えて同じ手法を採用したと想像するのもあながち間違ったことではないかもしれません。そのとき演奏していたウィーン・フィルハーモニーをはじめ当時の音楽評論家たちは、ブルックナーがトランペットに旋律を弱音で吹かせるという稚拙さに呆れたとされていたのでした。トランペットはファンファーレ的な使いや打楽器の補強、そしてクライマックスで華やかに登場するのが一般的で、曲の冒頭にしかも弱音で旋律を吹かせるなんて当時ではありえなかったからです。なお、マーラーとクルシシャノフスキーはこの時ブルックナーの3番の交響曲を2台のピアノ版として編曲し、ブルックナーに献呈しています。

 ブルックナーがこの交響曲第3番の初演のために駆けずり回ったり改訂作業に励んだりしていた時期がハンス・ロットの音楽院在学中(1874年から1878年)とほぼ一致するということは興味深いところです(1873年第1稿完成から1877年初演まで)。オルガンをブルックナーに師事したロットにとってこの第3番に対する想いは作曲者ブルックナーと同じくらい強いものがあったと考えられ、その1877年の初演に立会うことで最高潮に達したことは想像に難くないことでしょう。翌年の音楽院卒業年のコンクールに出す作品にそのブルックナーへの想いを込めるのは不思議ではないことですし、そうした作品だったからこそ、審査員たちは何の賞も貰えなかったどころか嘲笑すらしてしまったのではないでしょうか。

 一方、マーラー・ファンだったらどうでしょう。ロットの交響曲の冒頭のトランペットを聴いてマーラーの交響曲第1番の楽章のひとつだったことがある『花の章』を連想するかもしれません(『花の章』については、こちらをご参照ください。)。マーラーは、カッセルの王立歌劇場で指揮をしていた頃、『ゼッキンゲンのラッパ手』という演劇の付随音楽を作曲しています(1884年6月23日に初演)。その一部が『花の章』であったとされていますが、『ゼッキンゲンのラッパ手』の譜面そのものは現存していないので断定はできないようです。初演前日の6月22日付のマーラーの手紙には「ここ何日か大急ぎで『ゼッキンゲンのラッパ吹き』のための音楽をやっつけなければならない」と友人のフリードリヒ・レーアに書いていて、マーラーはこの作品を「君もご存知のとおり、この作品はまったく僕とっては物の数に入らないのだ。」とも書いています。なお、マーラーはこの作品を他の書簡では「トランペット吹きの音楽」とも呼んでいたのですが、マンハイムとカールスルーエでも演奏していて、たいした作品ではないとしているにもかかわらず頻繁に指揮をしていたことになります。この「トランペット吹きの音楽」という表現が『花の章』で活躍するトランペットのことを指すと考えられているのです。

 現存する『花の章』が失われた『ゼッキンゲンのラッパ吹き』の一部だったとして、この『ゼッキンゲンのラッパ吹き』の初演が1884年6月23日で、ロットが死亡したのがそのわずか3日後の25日だったという事実と、『花の章』とロットの交響曲第1番との間に何らかの接点はあったのでしょうか。

 ロットが交響曲第1番の第1楽章を作曲していた時期は1878年の5月頃から6月7日(下書き終了)までとされています。ロットが住んでいたビアトリスト修道院の一室には音楽院の同級生だったマーラーはよく顔を出していたとされていますが、それが何時の頃のことだったかについてはよくわかっていません。仮にマーラーがその5月〜6月頃にロットを部屋に行ってその譜面を見たたと仮定すると、マーラーがこの時に何らかのヒントを得たと推測することはできます。ロットが冒頭で書いたトランペットの旋律にマーラーの『花の章』で同じくトランペットによって吹かれるテーマが似ているわけではないけれど、そのコンセプトは大いにマーラーの興味を惹いたことは想像できます。1877年のブルックナーの3番の初演(改訂版)に立会ったハンス・ロットとマーラーが、当時としては常識を覆すような冒頭のトランペットの使い方に感銘を受け、その効果について語り合い、互いに自らの作品に取り入れようと考えたのかもしれません。

先行主題の回想
 ハンス・ロットが師のブルックナーから得たと思われるインスピレーションは他にもあり、それは第4楽章の最後で第1楽章の主題を回帰させる点です。ロットは第4楽章の大詰めで、最初(419小節)にホルンとトランペットが第1楽章の主題を pp で再現させるや、それに続いて再び全オーケストラで華やかに演奏させる(439小節)といった手の込んだフィナーレを構築しています。これは、同じくブルックナーの交響曲3番の終楽章で行なっていることを明らかに倣ったものと言えます。交響曲3番の第4楽章ではコーダに入ってしばらくすると突然、第1楽章の主題が華やかに回帰され、さらに最後の5小節でもその主題をダメ押しをして曲を閉じているのです。

 終楽章で先行主題を回帰させる手法といえば、ベートーヴェンの「第九」が有名です。しかし、ベートーヴェンはその先行楽章主題を奏させながらそれらを否定した上でいわゆる「歓喜のテーマ」を導くというストーリー性を持たせています。ブルックナーもロットもベートーヴェンの手法への意識はあったと思われますが、両者はベートーヴェンとは違って先行楽章主題を肯定し、むしろ礼讃しつつ曲を閉じるというものと言えます。さらにロットは第3楽章の中間部を締めくくる箇所でもこのテーマを再現させています(317小節)。

 ブルックナーのこのアイデアは交響曲第3番の第1稿にはなく第2稿で初めて出現します。この第2稿への改訂作業は1876年から始まり、翌1877年に完成されてこれが初演で用いられます。つまり、当時音楽院在学中だったハンス・ロットはこの譜面に接することが可能であったと考えられ、さらに初演に立ち会って実際にその音も聴いているということになり、曲の冒頭で吹かれるトランペットの響きを脳裏に焼き付け、さらにそのフィナーレで第1楽章のテーマが再度出現するのシーンに衝撃を憶えたであろうことは想像に難くないと思われるのです。また、ロットがこの曲を書いていた1878年から1880年は、師であるブルックナーが第5番の交響曲を書き上げた直後(1878年1月)にあたり、その曲の第4楽章においても第1、2楽章の主題を再現させていますので、このこともロットは知っていた可能性は大きいのではないでしょうか。

 細かいところですが、もうひとつブルックナーとの類似点があります。それはロットの第3楽章の冒頭、金管のファンファーレに続いて弦楽器が分散和音を掻き鳴らしてからテーマを奏するところです。その分散和音の使い方がブルックナーの交響曲第1番の第3楽章の冒頭と酷似しているのです。しかし、ホルン、トランペットと打楽器、さらにはチェロ・バスによる激しい下降音階にかき消されてその分散和音はほとんど聞こえないので、その分散和音の演奏効果はほぼないと言えます。演奏する側から見るとこの分散和音からテーマへの接続はロットにしてはとてもよく書かれているので少々残念なところではあります。

Rott-Bruckner

バッハからの影響
 ハンス・ロットが影響を受けた作曲家はブルックナーだけではありません。ロットは音楽院でブルックナーにオルガンで師事していて、第2、3学年のオルガン・コンクールで優勝を果たしています(第1学年ではピアノで優勝)。友人のクルシシャノフスキーによれば「ブルックナーもロットもピアノ奏者としては難ありだが、彼らの楽器は間違いなくオルガンだ。」と言わしめ、ブルックナーもロットのバッハ演奏と即興の手腕を高く評価していたとされています。優れたオルガン奏者であったロットにとって最も身近な作曲家だったバッハからの影響は当然のことながらあったと考えられます。

 この交響曲の中にはフーガやフガートが多く取り入れられて、ほぼ全楽章でそれが確認できます。まず第1楽章では、提示部の後に主題がワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』風に変形されてクラリネットとファゴットによって奏されるところが最初のフガートになっていまして、第2楽章の後半では低弦から始まる弦楽器による装飾的なフガートが認められます。第3楽章では中間部が終わってスケルツォ部に入りそのあたりからフガートの様相を示した後、壮大なフーガが展開されていきます。第4楽章ではほぼ中間地点で大きなクライマックスを築いた後にもフーガが用意されていて、スコアには明確に Fuge という指示が書き込まれています。
*フガート:フーガの形を取っているもののフーガの厳密な定義からは外れる。

 なお、このフーガの途中に突然のカデンツァがあるのですが、この音符がバッハの音楽でよく耳にする音型であることに気づきます。この音型は様々な曲にあると思うのですが、一例としてはバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番プレリュードの左手の動きに見ることができます。バッハの方はわかりやすいように2オクターヴ上げてさらに移調した譜面を下記に示します。鍵括弧で示した箇所がその同じ音型のところですが、実際は第2、4番目の音は半音・全音の違いがあります。

  Bach

 また、ブルックナーは交響曲にコラールを取り入れていますが、ロットも師に負けじとコラールを交響曲第1番に登場させています。第1楽章では、コラール風の第2主題を木管が奏し(73小節)、後半では同じ主題をトランペットとトロンボーンに再現させています(159小節)。第2楽章では、冒頭の弦楽器にわずかではありますがバッハのコラールを想起させるものがあり、中間地点(81小節)にホルン4本による短いコラールを挿入し、最後は金管による超弱音ながら規模の大きいコラールで楽章を締めくくっています(120小節から)。第3楽章にはコラールはありませんが、第4楽章では第1主題直前に金管によるコラールが奏されます(116小節)。交響曲の終楽章で長い序奏の最後にコラールを置くというやり方といえば、ブラームスの交響曲第1番のことが思い起こされます。ロットが書いたこの第4楽章の第1主題はブラームスの交響曲第1番第4楽章のそれとそっくりであることは良く知られています。


ブラームスの引用
 
ロットはウィーン音楽院に入学した翌年の1875年にはウィーン・アカデミー・ワーグナー協会に入会していることが知られています。また、ワーグナーの歌劇『ローエングリン』をウィーン音楽院在学中に宮廷歌劇場で観たことをはじめ、1876年の第1回バイロイト音楽祭にも詣でて楽劇『ニーベルングの指環』の初演に立ち会っています。つまり、当時の音楽界を二分していたブラームス派とワーグナー派の対立では後者に属していたことになります。そのロットがその反対勢力の騎手であったブラームスの曲を何故真似したのでしょうか。


Rott4
Brhams


 この音符を見ると確かにある程度の類似性が認められます。第1章で触れましたが、ロットは国家助成金を受けようとしてこの交響曲をその審査委員会に提出しています。ところがその審査委員の中にはワーグナーと敵対関係にあったブラームスがいたのでした。このままでは不利であると悟ったロットは、ブラームスの歓心を買う作戦に出ることにして、意図的にその審査する曲にブラームスの旋律を取り入れたのではないでしょうか。さらに、曲が完成した1880年7月の2ケ月後の9月17日にブラームスを訪問してその自作をピアノで弾いて聴かせ、ブラームスの音楽に対する敬意と自分がブラームスの陣営に属することを強調せんと目論んだのでした。ロットとしては助成金を勝ち取る最善の方法と考えたのですが、残念ながら結果はその逆でブラームスからは、

 「この作品には美しい部分が数多くあるが、それと同じくらいナンセンスな部分も含まれている。だから、美しい部分は君自身が作曲したのではないのだろう。(ベアト・ハーゲルス著 「セバスティアン・ヴァイグレ指揮ハンス・ロット:交響曲第1番」CDのブックレット)」

という厳しい批判を受けてしまいます。この言葉がひとつの契機となってロットの精神が病んでいったのは周知の通りです。なお、この発言には自作が真似されたことについては何も触れていません。内心は嬉しかったのかもしれません。しかしブラームスとしては、自分は21年も費やしてやっとのことで交響曲をひとつ完成したというのに、音楽院を出たばかりの青二才がこれほどの作品をわずか2年程で仕上げてしまったという事実を受け容れることができなかったのではないでしょうか。この時のブラームスの反応はこの他には伝わっていないのですべては憶測の域を出ません。ところで、このブラームスの旋律は実は他の作曲家も引用していまして、その作曲家はなんとマーラーなのです。

Mahler3

 マーラーの音符はロットのそれよりブラームスに近く、フレーズの展開の仕方もよく似ていることがわかります。第1章でも触れましたが、マーラーはベートーヴェン賞を逸したことでブラームスを恨んでいたにもかかわらず、マーラーが指揮した『ドン・ジョヴァンニ』がブラームスに褒められたことに気を良くしています。さらには復活交響曲も褒められるに至り、ブラームスへ感謝と今後の支援を期待して自作の交響曲第3番の冒頭にブラームスの旋律をはめ込んだとするのは考えすぎでしょうか。しかし、ブラームスの生前にこの3番の第1楽章は演奏されなかったため(ブラームスは1897年没、3番の全曲初演は1902年)、残念ながらブラームスに聴いてもらうことは叶わず、マーラーの目論見は水の泡と帰したのでした。あくまで推測ですが。

 話しをロットとブラームスに戻します。実際にこのロットの主題を演奏しても最初のアウフタクトと続く2つの二分音符を過ぎるとそれほど類似性は感じられませんでした。ロットはブラームスに似た旋律を書いたということより、その第1主題の提示の直前にコラールを置くというアイデアをブラームスから拝借したというのが本当のところだったのではないでしょうか。ロットはこの作品でバッハを扇の要に据えてブラームスとブルックナーの融合を図ったと考えるのは少々飛躍しすぎかもしれませんが、このロットの音符作りの中に当時の音楽界の縮図が垣間見えるような気がしてなりません。


ホ長調という調性
 ハンス・ロットの交響曲は、ホ長調という交響曲にしてはめずらしい調性で書かれています。モーツァルトはホ長調の交響曲は1曲も書かず、交響曲を104曲(或いは108曲)も書いたハイドンは12番、29番の2曲しかホ長調を使用していません。ところが、ブルックナーは交響曲第7番でそのめずらしいホ長調を採用しているのです。そして、この7番の第1楽章が書き始められたのは1881年9月末からとされていて、なんとこの時期はロットが発狂して精神病院に収容されていた期間と重なっているのです。つまり、ブルックナーは愛弟子であったロットの悲惨な人生を想いその才能を惜しんで、ロットの交響曲と同じ調を敢えて選んだのではないでしょうか。参考までに、ホ長調で書かれた主な交響曲をここにご紹介します。

ヨーゼフ・ハイドン:交響曲第12番ホ長調(1763年作曲)、第29番ホ長調(1765年作曲)
フランツ・シューベルト:交響曲7番ホ長調 D.729(1821年未完、スケッチのみ)
フランツ・シューベルト:グムンデン=ガスタイン交響曲ホ長調 D.849(のちに偽作と判明)
リヒャルト・ワーグナー:交響曲ホ長調(1834年未完。フェリックス・モットルによる補筆完成版)
ベドルジハ・スメタナ:祝典交響曲ホ長調(1854年完成)
アーサー・サリヴァン:アイリッシュ交響曲(1866年初演)
マックス・ブルッフ:交響曲第3番ホ長調(1882年初演)
アントン・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(1884年初演)
アレクサンドル・チェレプニン:交響曲第1番ホ長調(1927年初演)
 *チェレプニンについては『伊福部昭:ラウダ・コンチェルタータ』の章参照

 


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