ドヴォルザークの深謀遠慮

付録 チェコの作曲家たち

 
           Chmaber

 


 各地に移り住み、ヨーロッパ音楽を豊かにしたチェコの音楽家は大勢いたことはよく知られています。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの周囲には常に多くのチェコ出身の音楽家がいて、親友として或いはライバルとして互いに影響を与え合っていました。そればかりか、その多くの作曲家たちを支援した貴族の中にもチェコ系の人物が多くいました。ベートーヴェンのパトロンとして名を成したロヴコヴィッツ侯爵はウィーン生まれのボヘミアの貴族でした。ロヴコヴィッツ侯爵はアマチュア音楽家でもあり、ヴァイオリンやチェロを演奏し、歌手としてもなかなかのものであったとされています。ベートーヴェンはロヴコヴィッツ侯爵に、第3、第5、第6交響曲、弦楽四重奏曲第1〜6番と第10番、三重協奏曲、歌曲集『羊飼いの愛』などを献呈しています。また、同じくベートーヴェンのパトロンであった『ワルトシュタイン・ソナタ』の名で知られるフェルディナンド・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵もウィーンに生またドイツ系ボヘミアの貴族出身であり、ピアノの腕前はかなりのもので作曲もしたとされています。ベートーヴェンはピアノ・ソナタ第21番ハ長調 作品53『ワルトシュタイン』を伯爵に献呈しています。
*ロヴコヴィッツ侯爵の名は正式には、フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツです。


 さて、ドヴォルザークのことに話しを戻しましょう。ドヴォルザークが音楽の修行していた頃に、チェコの作曲家の名前があまり出てこないのは、チェコの音楽家がヨーロッパ各地に移り住んでしまっていたので、プラハなどにはあまりいなかった、少なくともドヴォルザークに何等かの影響を与えらえる優れた音楽家がいなかったからだと考えられます。このことを確かめるべく、1700年代生まれからドヴォルザークと同期くらいまでのチェコの作曲家について調べてみました。

 筆者がネット検索した範囲では、ドヴォルザークを含む1700年から1870年代までに生まれた主要なチェコの作曲家は59人でした。そのうち、ウィーンなどのチェコ国外で活躍した作曲家は37人、チェコに留まった作曲家は17人、国内外両方で活動した作曲家は5人でした。IMSLP ペトルッチ楽譜ライブラリーにおける国別検索ではチェコの作曲家が全時代を通じて500人を数えることができますので、たった59人ではどこまでのことが考察できるかは心もとないのですが、抽出したその中の6割を越える作曲家が国外で活動していたということはひとつの傾向として意味があるものと言えるのではないでしょうか。このことが、ギー・エリスマンの「ボヘミアの音楽家はいてもチェコの音楽は存在しなかった。」という発言を裏付けると同時に、ドヴォルザークに教師として或いは先輩としてその音楽に影響を与えた人物がプラハなどにあまりいなかったことも示していると考えられます。初期の段階で指導を受けたアントニーン・リーマンとヨゼフ・トマン(第5章参照)は「チェコの主要な」作曲家としてはカウントしていません。
*IMSLP における国別検索では、出身がチェコ以外の外国人や作曲家ではない音楽関係者なども含まれています。
*58人を選んだ基準は、作品の数、後世に与えた影響、著名作曲家との接点の有無、ドヴォルザークとの関わりの有無などです。

 以下の一覧で★印はチェコ国外で活躍した作曲家、☆印はプラハなどのチェコ国内に留まった作曲家です。★☆印はその両方で活動した作曲家となります。


★フランツ・クサーヴァー・リヒター(1709年12月1日 - 1789年9月12日):モラヴィア、ホレシャウ生まれの歌手、ヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。なお、ホレシャウの教会の記録には彼が出生したという記述はなく、ケンプテン修道院長との雇用契約書にはボヘミア出身と書かれていることから、ホレシャウを生地とする根拠になる資料はないようです。最初はオーストリアで活動しますが、後にはマンハイムとストラスブールで人生の大半を過ごし、ストラスブールでは大聖堂の音楽監督を務めています。マンハイム楽派の代表的な作曲家で、当時は対位法奏者として高く評価されていました。モーツァルトは1778年にパリからザルツブルクに戻る途中、ストラスブールでリヒターのミサ曲を聴き、「魅力的に書かれている」と評しています。なおモーツァルトは同時に、当時高齢だったリヒターがアルコール依存症気味だったということも示唆していました。また、リヒターは楽譜の巻物を手に指揮した最初の指揮者のひとりとされています。


★フランツ・ベンダ(1709年11月22日 - 1786年3月7日):プラハ近郊のベナートキ村で生まれた作曲家、ヴァイオリニスト。ウィーン、ポーランドなどを経てドレスデン、ベルリンなどの宮廷楽団にヴァイオリン奏者として採用されています。その後、フルート演奏でも有名なフリードリヒ大王に仕え、プロイセンの宮廷楽団で長年活躍しました。バロック期から古典期へと移行する転換期に位置する作曲家でした。18曲のヴァイオリン協奏曲、139曲ものヴァイオリン・ソナタを作曲しています。弟のゲオルク・アントン・ベンダも音楽家でした。ドイツに「フランツ・ベンダ協会」があり、ドイツではベンダをドイツ人音楽家と信じて疑っていないようです。


☆ヨセフ・セゲル(1716年3月21日 - 1782年4月22日):ボヘミアのメルニーク近郊のレピンに生まれたオルガン奏者、作曲家、教育者。プラハのカレル大学で哲学を専攻し、オルガン演奏をボフスラフ・マチェイ・チェルノホルスキーに、ヤン・ザフとフランチシェク・トゥーマに師事して音楽を学んだ後、ゼゲルはプラハの2つの教会のオルガン奏者となります。1745年にはプラハのティーン教会のオルガニストの職を得て死ぬまでその職を務めました。1781年、皇帝ヨーゼフ2世はゼゲルの演奏に感銘を受け、ウィーン宮廷オルガニストに任命しましたが、その任命書が届く前にセゲルは1782年にプラハで亡くなっています。ゼゲルの生徒には、カレル・ブラジェイ・コプリヴァ、ヤン・アントニーン・コジェル、ヤン・クティテル・クチャーシュ、ヨゼフ・ミスリヴェチェクなど、多くの著名なボヘミアの作曲家や音楽家がいました。セゲルは18世紀チェコで最も多作なオルガン作曲家とされています。


★ヨハン・シュターミッツ(1717年6月30日 - 1757年3月27日):ボヘミア出身の作曲家、ヴァイオリニスト。オルガニストの父親から音楽の手ほどきを受けた後、プラハのカレル大学に学んでいます。1741年にマンハイムに行き、まもなく宮廷楽団の首席ヴァイオリン奏者となり、1745年にはマンハイムの宮廷楽長に昇格しています。この間マンハイム宮廷楽団をヨーロッパで最も優れたオーケストラのひとつに育て上げました。1754年から55年までパリに過ごし、それから2年後にマンハイムにて他界します。いわゆるマンハイム楽派の創設者であり、この楽派の最も傑出した人物とみなされています。58曲の交響曲、2つのヴァイオリン協奏曲、フルート協奏曲、オーボエ協奏曲、クラリネット協奏曲、チェンバロ協奏曲、ミサ曲、夥しい数の室内楽曲等々を残しています。モーツァルトに大きな影響を与えたと言われています。二人の息子カール・フィリップ・シュターミッツ、とアントン・タデウス・ヨハン・ネポムク・シュターミッツも作曲家になっています。
*ここでは、海外で生まれた二世音楽家は「チェコ人音楽家」としてカウントしません。


★ゲオルク・アントン・ベンダ(1722年6月30日 - 1795年11月6日)は、ボヘミアの旧ベナテク(現在のベナートキ・ナド・イゼロウ)の著名な音楽家の家庭に生まれた作曲家、ヴァイオリニスト、楽長。兄フランツ・ベンダによってポツダムに楽師として招かれたのち、ゴータに赴き宮廷楽長に就任しています。1749年、ベンダはゴータ公爵の楽団に楽長として仕え、そこで宗教音楽をはじめ、10曲近いオペラなどを作曲しました。ベンダはドイツの『メロドラマ』という舞台の一形態の発展に大きく貢献したとされています。1778年11月にマンハイムを訪れたモーツァルトがそこで当時評判の高かったゲオルク・ベンダ作曲の『メデア』を観たことが記録に残っています(第4章『魔笛』のルーツ 2 〜『ツァイーデ』と『後宮からの誘拐』参照)。代表的なメロドラマの作品として『ナクソス島のアリアドネ』、『王女メディア』、『アルマンソールとナディーヌ』などがあります。


★フロリアン・レオポルト・ガスマン(1729年5月3日 - 1774年1月20日):プラハの北西およそ77Kmのモストに生まれた作曲家、楽長。金細工職人だった父親の仕事に興味を持てずに家出し、ヴェネツィアで神父に拾われた後にボローニャに送られてマルティーニのもとで本格的に音楽を学んでいます。ヴェネツィアに戻ってオペラを作曲したのち、1763年にグルックの後継者としてウィーンの宮廷にバレエの作曲家として招かれます。翌年、2つのバレエを含むオペラ『オリンピーアデ』がウィーンで上演されると好評を博し、ヨーゼフ2世のお気に入りの作曲家となります。ヴェネツィアに旅行した際、アントニオ・サリエリの才能を見出してウィーンに連れて帰り、音楽教育を施したとされています。1772年にはウィーンの宮廷楽長に就任しています。22曲のオペラを書いていますが、そのほとんどはイタリア・オペラでした。ガスマンの二人の娘、アンナ・フックスとテレーゼ・ローゼンバウムは、共にソプラノ歌手になっています。妹のテレーゼはアントニオ・サリエリに声楽を学び、1790年からウィーン宮廷オペラの劇場であるケルントナートーア劇場で歌っていました。テレーゼは1801年にケルントナートーア劇場でモーツァルトの歌劇『魔笛』が初演された時に夜の女王を歌っています。また、歌劇『フィガロの結婚』の伯爵夫人、歌劇『ドン・ジョンニ』のドンナ・エルヴィラなども歌っています。ハイドンとも親しく、ハイドンのオラトリオ『キリストの十字架上の最後の七つの言葉』の合唱版の初演でも歌っています。
*このガスマンに続いて、4人の作曲家が毎年ボヘミアで生まれています。


★アントニーン・カメル(1730年4月21日 - 1784年10月5日):ボヘミア地方ベレチで生まれた作曲家、ヴァイオリニスト。父親はヴァルテンベルク領主でボヘミア出身のエルンスト・フィリップ・ヴァルトシュタイン伯爵の領地で林業家として働いていたことから、カメルは父から林業の知識を学んでいます。大学で音楽と哲学を学んだのち、ヴァルトシュタイン伯爵はカメルをイタリアのパドヴァに派遣し、ジュゼッペ・タルティーニの指導の下でヴァイオリンを学ばせました。その後、ロンドンに旅して演奏活動を行なうと同時に、伯爵の指示で船のマスト用建材のセールスマンとしても働いています。英国滞在中にヨハン・クリスティアン・バッハなどと共演したとされています。ヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲などを残しています。


☆フランツ・クサヴァー・ドゥシェック(1731年12月8日 - 1799年2月12日 ):ボヘミアのヴィランティツェの一部であるホチェボルキで生まれた作曲家、ピアニスト。「ソナチネ・アルバム」でデュセック(またはデュシェック)と呼ばれて有名なヤン・ラディスラフ・ドゥシークと混同されやすいです。ドゥシェックの妻ヨゼファ・ハンバッハー(1753年3月7日 - 1824年1月8日)は有名なピアニスト兼ソプラノ歌手で、実家がザルツブルクだったこともあり、ドゥシェック夫妻はモーツァルト一家と懇意でした。彼女はモーツァルトのオペラのいくつかのソプラノ役を歌い、モーツァルトのコンサートアリア『わが美しき恋人よ、さようなら・・・とどまって下さい、いとしい人よ』 K.528 は彼女のために書かれました。またモーツァルトは1787年に歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を上演するためにプラハを訪れますが、このときドゥシェック夫妻はその美しい別荘ベルトラムカを提供してモーツァルトを歓待しています。モーツァルトが初演の前日、『ドン・ジョヴァンニ』の序曲を一晩で書き上げたという有名な逸話の部屋はドゥシェックの別荘であったとされています。しかし、その確たる証拠はないとも言われています。


☆フランティシェク・クサヴェル・ブリクシ(1732年1月2日 – 1771年10月14日):プラハ出身のボヘミアの作曲家。生前はドイツ語名フランツ・クサヴァー・ブリクシとして著名でした。当時のプラハの音楽界では最高の地位である聖ヴィート大聖堂の教会楽長に、わずか27歳にして就任しています。39歳で結核のため亡くまでの間この仕事を続けていました。ブリクシはその短い生涯にもかかわらず500曲近い曲を書きましたが、その多くは宗教音楽でした。ブリクシの音楽は生前、ボヘミアとモラビア地方で広く普及していて、プラハの人々にモーツァルトの音楽を受け入れやすくしていたとされています。当時オーストリアではモーツァルトの音楽は敬遠される傾向にあったのですが、ブリクシの音楽を聴いていたプラハの聴衆はモーツァルトの音楽を抵抗なく受け入れたと考えられるのです。このことが、モーツァルトが歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の初演をプラハで行なったことに繋がったということになります。


★ヨセフ・ミスリヴェチェク(1737年3月9日 - 1781年2月4日)はチェコ出身のオペラ作曲家。主にイタリアで活躍し、「神々しきボヘミア人」と呼ばれて有名になりました。モーツァルトはミスリヴェチェクのアリア『私の愛しい人』を編曲して『静けさはほほえみつつ』 K.152(210a) を作曲しています。ミスリヴェチェクは、しばしば「チェコのオペラの父」と評されています。国際的に有名になった最初のチェコ人作曲家とも言われていますが、その音楽語法は国民楽派的な特徴はなく、イタリアのオペラ・セリアの類型を示しています。


★ヨハン・バプテスト・ヴァンハル (1739年5月12日 - 1813年8月20日):プラハの西100Kmに位置するボヘミアのネハニツェに生まれた作曲家。農民の家庭に育ち、幼い頃からヴァイオリンやオルガンの才能に恵まれ、地元の音楽家から早期教育を受けています。ウィーン、イタリア各地、ドレスデンなどと音楽修行および演奏活動を行ない、最終的にウィーンに落ち着きます。ハイドンやディッタースドルフ、モーツァルトと一緒に弦楽四重奏を演奏したと伝えられていて、モーツァルトが1784年から1787年まで住んだウィーンの家の向かいのアパートにヴァンハルは住んでいました。ウィーンでは音楽教師及び作曲家として名声を博していて、生涯の最後の30年間はパトロンのもとで作曲をしなかったことから、作曲だけで生計を立てることのできたおそらく最初の作曲家だったとされていてます。ヴァンハルの交響曲は当時ウィーンでハイドンやディッタースドルフの交響曲より人気があったともされています。多作家としても知られていて、交響曲100曲、四重奏曲100曲、室内楽曲、鍵盤作品をはじめ教会音楽まで含めると700曲を超える作品を残しています。


★ヴァーツラフ・ピフル(1741年9月25日 - 1805年1月23日):南ボヘミアのベヒニェ出身の作曲家、楽長、ヴァイオリン奏者、声楽家、文筆家。プラハに出て、ヴァイオリニストとしてイエズス会系の聖ヴァーツラフ上級神学校に勤めるかたわら、プラハ大学で哲学・神学・法学を修めました。その後1770年ごろにウィーン宮廷歌劇場管弦楽団の首席ヴァイオリニストに迎えらています。ベートーヴェンのパトロンとして有名なロプコヴィッツ伯爵の宮殿でヴァイオリンを演奏中に、脳卒中の発作を起こして急逝しました。チェコ出身の女流ヴァイオリニスト、ガブリエラ・デメテロヴァーがフランツ・ベンダとヴァーツラフ・ピフル、アントン・ヴラニツキーのヴァイオリン協奏曲を収めたCDをリリースしています(1994年)。


★カール・シュターミッツ(1745年5月7日 - 1801年11月9日):マンハイムで生まれドイツのチェコ系作曲家。マンハイム楽派第2期の傑出した作曲家で、父ヨハン(マンハイム楽派の開祖)から音楽教育を受け、1762年からマンハイム宮廷楽団で演奏しています。1770年からパリでヴァイオリニストとして活躍し、交響曲と協奏曲をそれぞれ50曲以上残しており、多数の室内楽もあります。モーツァルト父子は、カール・シュターミッツと面識があり、父レオポルト・モーツァルトが、パリに滞在していた息子に書き送った手紙(1778年4月12日付け)によれば、ザルツブルクでカール・あるいは、弟のアントン・シュターミッツのシンフォニーが演奏され、「とても評判だった」が「やかましい」ものだった、と記しています。


★レオポルト・アントニーン・コジェルフ(1747年6月26日 - 1818年5月7日):プラハ近郊ヴェルヴァリに生まれた作曲家、音楽教師。生前はドイツ語名レオポルト・アントン・コツェルフとして有名でした。父親アントン・バルトロメウスは教師で、従兄ヤン・コジェルフも作曲家、娘カタリナはピアニストでした。地元ヴェルヴァリでアントン・クビックに最初の音楽教育を受け、後に従兄ヤンに師事しています。プラハのギムナジウムに学んだ後、法学を修めてから音楽に再び専念し、1771年にプラハの国立劇場において、バレエ音楽を書いて作曲家デビューを果たしています。1778年にウィーンに移り、短期間のうちに名ピアニストへと腕を上げ、オーストリア帝室音楽教師に就任しています。1784年からは楽譜出版業も手掛け、モーツァルトの作品も出版もしました。モーツァルトの死を受けて1792年に帝室宮廷楽長と宮廷作曲家を兼務することになりましたが、コジェルフのその時の俸給は宮廷に嫌われていたモーツァルト(700フローリン)の倍以上の1700フローリンだったとされています。ベートーヴェンやシューベルトに及ぼした影響は大きく、当時コジェルフのいくつかの作品は長らくベートーヴェンのものと誤認されていたこともあったそうです。


★ヨゼフ・フィアラ(1748年2月3日 - 1816年7月31日):ボヘミアのロホヴィツェに生まれた作曲家、オーボエ及びホルン奏者、ヴィオラ・ダ・ガンバ及びチェロ奏者、教育者。貴族に仕えるオーボエ奏者として音楽家としてのキャリアをスタートさせます。ミュンヘンで、モーツァルトはフィアラと親しくなりその作品に大いに感銘を受けたとされています。ザルツブルクやウィーン、サンクトペテルブルクなどで活躍しました。交響曲をはじめ管楽器の作品を多く残しています。


★アントニーン・クラフト(1749年12月30日 - 1820年8月28日):ボヘミアのロキツァニーに生まれたチェリスト、作曲家。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの親しい友人でした。父親から幼少期の音楽教育を受けたあと、法律を学ぶためにウィーンの大学へ通い、まもなく宮廷礼拝堂の職を得ています。1778年にはニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージの管弦楽団にチェリストとして任用され、そこでハイドンと出会って作曲の指導を受けました。ハイドンはチェロ協奏曲第2番をクラフトのために作曲しています(1783年)。エステルハージ没後にはロプコヴィッツ侯爵の管弦楽団に採用されています(1796年)。ベートーヴェンがロプコヴィッツの後見を得ていた時期であり、ロプコヴィッツに献呈した最初の作品である弦楽四重奏曲作品18のいくつかを演奏した可能性があります。ベートーヴェンの三重協奏曲(1804年)のチェロ・パート(他のパートに比べて難曲とされています。)もクラフトのために書かれたものでしたが、初演はクラフトの息子ニコラウス・クラフトが行ったとされることもあります。チェロソナタ、チェロ協奏曲、ヴァイオリンとチェロなどの様々な二重奏曲を残しています。


★アントニオ・ロセッティ(1750年 - 1792年6月30日):ボヘミアの作曲家、コントラバス奏者。1785年、同郷でヴァラーシュタイン宮廷楽団の楽長のアントニーン・レイハがケルン選帝侯の宮廷楽長に招かれてボンへ去ると、その後任となり宮廷楽団の活動に大きく貢献しています。40数曲の交響曲や協奏曲、声楽曲を残していますが、今日最も知られて言うのはホルン協奏曲で、モーツァルト研究者のロビンス・ランドンは、これらの作品がモーツァルトのホルン協奏曲のモデルになったのではないかと示唆しています。ドイツ北部の街、ルードヴィヒスルストで、モーツァルトの死から半年後に他界しています。


★ヴェンゼル・クルンプホルツ(1750年 - 1817年5月2日):プラハに程近いズロニツェに生まれたマンドリン奏者、ヴァイオリニスト。パリで育ちフランス連隊の楽団長を務めていた父から音楽の手ほどきを受けています。兄のヤン・クシチテル・クルンプホルツも優れたハープ奏者兼作曲家でした。ヴェンゼル・クルンプホルツは1796年にはウィーン宮廷歌劇場のオーケストラの第一ヴァイオリン奏者となっています。ウィーンにおいてベートーヴェンにヴァイオリンの指導を行っていて、マンドリンも教えたであろうと推測されています。カール・チェルニーによると、自分をベートーヴェンに紹介したのはクルンプホルツであったということ、そしてクルンプホルツはベートーヴェンの才能にいち早く気付いた人物のうちのひとりであり、周囲にそのことを熱心に説いて回ったとのことです。ベートーヴェンは少なくとも6曲のマンドリン作品を作曲していて、そのうち4曲が現存しています。ウィーンでクルンプホルツが亡くなった翌日、ベートーヴェンは「我が友人クルムホルツ(1750〜1817年5月2日没)の急逝を追悼して、1817年5月3日」と記して、シラーの戯曲『ヴィルヘルム・テル』から作曲した無伴奏男声三重唱『修道僧の歌』を作曲しています。


☆ヤン・クティテル・クチャーシュ(1751年3月5日- 1829年2月18日):プラハの南西20Kmに位置するホテチェに生まれたオルガン奏者、マンドリン奏者、チェンバロ奏者、音楽作曲家、オペラ指揮者、教師。オルガン奏者のアレックス・タムから音楽の基礎を学んだ後、イエズス会の神学校でも学んでいます。プラハでオルガン奏者のヨセフ・セゲルに師事し、1772年からはプラハの聖ヘンリー教会でオルガン奏者を務めました。クチャーシュは、モーツァルトの才能にいち早く気づき、その普及に努めたひとりとされ、モーツァルトが1787年に歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を初演した際、マンドリンを演奏し(ドン・ジョヴァンニのセレナーデ)、さらに、モーツァルトの歌劇『皇帝ティートの慈悲』の初演でチェンバロの演奏もしています。また、モーツァルトの歌劇のピアノ版も書いています。プラハのストラホフ修道院でオルガンを弾いたのち、1791年にプラハ歌劇場の指揮者に任命され、1800年に辞任するまでオペラの指揮者を務めました。


★パヴェル・ヴラニツキー(1756年12月30日 - 1808年9月26日):ウィーンで活躍したモラヴィア出身の作曲家、ヴァイオリニスト、オルガニスト。オペラ『オベロン、妖精の王』(1789年)は好評で、シカネーダーがモーツァルトに『魔笛』を作曲させるヒントになったと伝えられています。モーツァルトと同年生まれで親友だったことでも有名です。指揮者としても高い評価を得ていて後にベートーヴェンが交響曲第1番の初演の指揮を依頼し、さらにハイドンがオラトリオ『四季』の初演の指揮を依頼したことで歴史にその名を刻んでいます。10曲のオペラ、56曲の交響曲(出版済み29曲、未出版27曲)、少なくとも56曲(一説によれば73曲)の弦楽四重奏曲と、厖大な数の管弦楽曲・室内楽曲を残しています(第5章『魔笛』のルーツ 3 〜シカネーダーの『オベロン』参照)。


★ヨーゼフ・ゲリネク(1758年12月3日 - 1825年4月13日):プラハの南約70Kmに位置するセドレツ=プルチツェ生まれの作曲家、ピアニスト。イエズス会学校に通い、ヨーゼフ・ゼーガーにオルガンと作曲を学ぶ一方、1786年には司祭に叙任されています。モーツァルトは歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の公演のために訪れたプラハでゲリネクに会い、ゲリネクをキンスキー伯爵に推薦しています。ゲリネクその伯爵の元で専任の司祭及び鍵盤楽器教師に任用され、のちに伯爵と共にウィーンに移っています。ピアノのヴィルトゥオーゾ、ピアノ教師として知られ、モーツァルトもゲリネクの即興演奏の腕前を評価していました。12歳下のベートーヴェンの即興演奏を聴いたゲリネクはベートーヴェンを大絶賛したとされています。ゲリネクはピアノ曲とりわけ変奏曲を数多く残しています。


★ヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴヌィ(1756年5月13日 – 1842年2月21日):プラハの北50Kmにあるムシェノで生まれた作曲家、ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教師。モーツァルトと同い年ということになります。ヤン・クシチテル・クチャーシュに師事、カジミェシュ・ネストル・サピェハに招聘されてポーランドへ渡っています。ニコラ・ショパンの寄宿学校にピアノ教師として雇われ、1816年から1822年までニコラの息子フレデリック・ショパンにピアノを指導しています。ショパンに音楽を教えた最初の職業音楽家ということになります。ショパンにはバッハやハイドン、モーツァルト、フンメルの作品を教え、一方でベートーヴェンやウェーバーの音楽は避けていたとされています。


★フランツ・クロンマー(1759年11月27日 -1831年1月8日 ):モラヴィアのチェスカー・カメニツェ出身のヴァイオリニスト、作曲家。1785年にウィーンに行ってシュテュルム伯爵の宮廷に仕えています。1790年からはハンガリーのペーチ大聖堂の教会楽長に就任、その後はカーロイ連隊楽師長やグラサルコヴィチ侯の宮廷楽長などを歴任しています。1818年にアントン・コジェルフの後任として皇帝に仕える皇室専属作曲家の称号を得ています。100曲以上の弦楽四重奏曲と、13曲の弦楽三重奏曲、30曲の弦楽五重奏曲、9つの交響曲などを作曲しています。今日ではクラリネット協奏曲や2本のクラリネットのための協奏曲がよく演奏されています。


★ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(1760年2月12日 - 1812年3月20日):ボヘミア東部チャースラフ出身のボヘミア人作曲家、ピアニスト。ピアノを習った方は「ドゥセックのソナチネ・アルバム」という楽譜にお世話になったことと思います。他に34曲のピアノ・ソナタを残しています。惚れ惚れするような美男子だったらしく、顔が見たい観客のために舞台上にピアノを横向きに置いた最初のピアニストだったと言われています。ベートーヴェンが現れる以前、ヨーロッパで最も評価の高いピアニストの一人でした。ボヘミアで早期の学習を終えるとオランダやドイツ各地を旅し、この間にカール・フィリップ・エマヌエル・バッハに学んだ可能性があるとされています。ドイツからサンクトペテルブルクに行き、その地でエカチェリーナ2世の寵臣となります。しかし、秘密警察によってエカチェリーナ2世暗殺の謀議に関与したと告発されて、ほうほうのていでロシアを脱出します。その後フランスに行ってマリー・アントワネットの寵臣となり、ロンドンでも演奏家としてのキャリアが開花し、ハイドンから大絶賛されています。オランダ、ベルギー、ハンブルク、サンクトペテルブルク、リトアニア、ドイツ、フランス、イタリア、ロンドン、とヨーロッパ各地で演奏活動を行ない、最後はパリでその波乱に富んだ人生を閉じます。


★アントニン・ヴラニツキー(1761年6月13日 - 1820年8月6日):チェコ南部モラヴィア西部ノヴァージーシェの宿屋の息子として生まれた作曲家、ヴァイオリニスト。作曲家パヴェル・ヴラニツキーの弟。地元ノヴァージーシェの修道院附属学校に通い、1778年から1782年にかけてモラビアの中心地ブルノのイエズス会学院で法学と音楽を学んでいます。1783年以降、ウィーンでモーツァルト、ハイドン、アルブレヒツベルガーなどに師事しています。1797年にはベートーヴェンのパトロンとして有名なロプコヴィッツ侯爵家の楽長となり亡くなるまでその地位にいました。1807年にはウィーン宮廷管弦楽団の指揮者、1814年にはアン・デア・ウィーン劇場の楽長なども務めています。息子のフリードリヒ・ヴラニツキーはチェリストとなり、2人の娘アンナ・クラウス・ヴラニツキーとカロリーネ・ザイドラー・ヴラニツキー著名なオペラ歌手となっています。なかでも二女のカロリーネは、ウェーバーの歌劇『魔弾の射手』初演(1821年6月18日)キャストとしてアガーテ役を歌って音楽史上にその名を刻んでいます。


★アダルベルト・ギロヴェッツ(1763年2月20日 - 1850年3月19日 ):南ボヘミアのチェスケー・ブジェヨヴィツェに生まれた作曲家、指揮者。父親はそこの大聖堂の聖歌隊指揮者で、アダルベルトは最初父親に音楽の手ほどきを受けます。その後プラハに行って法律を学びながら音楽の勉強を続けています。1785年からウィーンに行き、ディッタースドルフやハイドン、アルブレヒツベルガーらを訪ね、とりわけハイドンに熱烈に心酔することになります。また同時にモーツァルトとも親交を結び、モーツァルトはギロヴェッツの交響曲を演奏したとされています。モーツァルトと相談の末にイタリア留学を敢行し、2年間のナポリ滞在中にパイジェッロらに師事しています。そこで『6つの弦楽四重奏曲』を作曲したところ大人気となり新作の委嘱が殺到したとされています。その後、パリに定住して作曲家として多産な時期を迎えています。しかしフランス革命が勃発したため1790年にロンドンに逃れて3年間をその地で過ごします。イギリスでも相変わらず成功の日々を送り、1791年にハイドンがイギリス再訪問をした際には、ハイドンを上流階級へ紹介することを惜しみませんでした。1792年にはウィーンに定住し、ベートーヴェンを支持してその葬儀にも駆けつけています。1818年にショパン少年がギロヴェッツの協奏曲を弾いてウィーン・デビューを果たした際には激励を送るなど、新しい時代の音楽に対しても理解を示していました。28曲のバレエ音楽、約40の交響曲、5つの協奏交響曲、2つのピアノ協奏曲、少なくとも40の弦楽四重奏曲、46のピアノ三重奏曲、ほぼ100曲の声楽曲、11曲のミサ曲などを残しています。


☆ベドルジフ・ディヴィシュ・ヴェベル(1766年10月9日 - 1842年12月25日):ボヘミア西部のカルロヴィ・ヴァリに程近いヴェベルに生まれた作曲家、音楽学者。ディオニス・ウェーバーという名前でも知られています。プラハで哲学と法学を学んだのち、音楽に関心を向けるようになり、アベ・フォーグラーの下で研鑽を積んでします。プラハでモーツァルトに出会ってからモーツァルトの音楽の擁護者となり、ヴェベル自身のその時期の作品に影響が現れているとされます。ベートーヴェンには敵対する立場を取っていましたが、ワーグナーの音楽には熱狂していて、1832年にプラハ音楽院の学生演奏会においてワーグナーの交響曲ハ長調の初演を指揮しています。また、プラハ音楽院の設立に主導的な役割を果たし、初代院長に就任しました。保守的な作風にもかかわらず、新しい楽器の可能性は追求していたようで、『新発明のキー付きラッパのための変奏曲』や半音階ホルンの一種のための作品を作曲しています。


★アントニーン・レイハ(1770年2月26日 - 1836年5月28日):プラハに生まれ、バイエルンで教育を受け、後にフランスに帰化した作曲家、音楽理論家、フルート奏者。日本ではドイツ名アントン・ライヒャとして知られています。ボンでベートーヴェンと親交を深め、その後ウィーンに移ってベートーヴェンと再会しています。ウィーンではフランツ・ヨーゼフ・ハイドンに師事、マンハイム楽派やグルック、モーツァルトなどの影響を受けています。ナポレオン戦争を契機にパリに移り多くのオペラを作曲しますがすべて失敗に終わっています。しかし、理論家および教師としての彼の名声は着実に高まり、国民権を取得した後、1835年にはレジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章しています。フランツ・リスト、エクトル・ベルリオーズ、セザール・フランク、シャルル・グノーなど多くの作曲家を指導したことでも知られています。レイハの作品は今日では木管五重奏曲が最もよく演奏されています。レイハのクラリネット五重奏曲とホルン五重奏曲のいい演奏が YouTube にアップされていますのでお聴きください。チェコのパノハ四重奏団とウィーン・フィルの管楽団員による演奏です。クラリネットのソロを吹いているペーター・シュミードルですが、残念ながら先月没しています(2025年2月1日)。


★☆ヤン・ヨーゼフ・レスラー(1771年8月22日 - 1813年1月28日):ブダペストの北約130Kmに位置するスロバキアのバンスカー・シュティアフニツァ生まれの作曲家、指揮者、ピアニスト。1795年から1805年までプラハのグアルダゾーニ歌劇団の指揮者を務め、その後ウィーンの宮廷劇場の指揮者となり、同時にベートーヴェンのパトロンとして知られるロブコヴィツ公ヨーゼフ・フランツ・マクシミリアンに仕えて、彼の楽団の3人の指揮者のうちひとりとなっています。1809年から彼は再びプラハに戻っています。モーツァルトの追悼に捧げられたカンタータ『モーツァルトの死へのカンタータ』がプラハで演奏されています。90曲のオペラ、交響曲、協奏曲、室内楽、鍵盤曲、80曲以上の声楽作品を残しています。
*このレスラーをはじめチェコ出身の作曲家トマーシェク、コジェルフ、ヴォジーシェクの歌曲を集めたCDがスプラフォンからリリースされています。
『プラハ - ウィーン - 18 世紀プラハの歌と音楽を巡る旅』マルティナ・ヤンコヴァー(ソプラノ)、バルバラ・マリア・ヴィリ(フォルテピアノ) 2006年3月録音


☆ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェク(1774年4月17日 - 1850年4月3日):ボヘミアのステクチに生まれた作曲家、音楽教師。ほぼ独学でピアノを習得し、その魔法のような即興演奏で多くの人々を驚かせたとされています。10代の頃、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたことが、トマーシェクの人生にとって決定的なものになりました。大学付属ギムナジウムの上級クラスに入学してからは、論理学、物理学、形而上学などを学び、さらに法科大学院に入学する一方、熟練したピアニストとして活動する傍らブルジョワ家庭や貴族の間で人気のピアノ教師として名を成しています。20年間の海外滞在を経て1804年にプラハに落ち着きます。19 世紀初頭に交響曲を書いたプラハ唯一の作曲家とみなされていますが、この交響曲のジャンルを作曲したのはキャリアの初期にほんの短期間でした。後にハイドンやベートーヴェン及びゲーテと知り合い、ゲーテの詩に曲を付けるなど(約40曲)、歌曲とピアノ曲の作曲家として知られるようになりました。当時では最も重要なピアノ教師のひとりとされ、音楽学校も開設し後のプラハ音楽院の院長となるヤン・ベドジフ・キットルをはじめ多くの音楽家を育てました。門人で音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリックは、トマーシェクをベートーヴェンに匹敵する存在と見做していたとされています。作品に、歌劇と舞台音楽、いくつかの交響曲とピアノ協奏曲、さまざまな編成による室内楽、ピアノ・ソナタ、初期ロマン派様式によるピアノ小品などを遺しています。晩年のトマーシェクは、弟子のキットルに25歳年下の妻を奪われた後、その妻が急死するなど私生活では恵まれませんでした。作曲と教育という仕事にのみ慰めを見出したトマーシェクは数多くの名誉会員に叙されつつ1850 年にプラハで亡くなりました。ドヴォルザークがプラハで音楽活動を始めた時期から7年ほど重なっていますが、両者の接点はなかったようです。プラハの墓地にあるダビデの大竪琴の記念碑には、彼の人生のモットーである「真実だけが芸術の王冠である」が刻まれているとのことです。


★アンソニー・フィリップ・ハインリッヒ(1781年3月11日 - 1861年5月3日):ボヘミアのシェーンビュッヘルに生まれた作曲家。米国初の「専業」作曲家、南北戦争前の最も著名な作曲家として歴史にその名を刻んでいます。米国で叔父の事業を相続したものの、ナポレオン戦争で全財産を失って無一文になったため、長年の趣味にすぎなかった音楽の道を歩む決意を固めました。独学で作曲を習得し、またヴァイオリンやピアノを演奏するなど米国のコンサート界で重要な人物となっていきます。1817年にケンタッキーに移住して間もなく、ベートーヴェンの交響曲第1番を指揮しましたが、これは米国でベートーヴェンの交響曲が演奏された2度目のことであったとされています。また作曲にも勤しみ、『ケンタッキーにおける音楽の夜明け、または自然の孤独の中での調和の喜び』など、アメリカ風のタイトルをつけた作品を多数作曲しています。1837年からはニューヨークに定住し、外交官、裁判官、弁護士、医師、作家、詩人とのつながりが深め、ジョン・タイラー第10代大統領に謁見して自作の曲を演奏したこともあったそうです。1842年にはニューヨーク・フィルハーモニック協会の設立会議の議長を務めました。批評家からは「アメリカのベートーベン」、「西部の吟遊詩人」とも呼ばれていたそうです。
*米国の音楽史上に名を残したチェコ人として、おそらくこのハインリッヒが最初で、次いでドヴォルザーク(1893年『新世界交響曲』ニューヨークで初演)、カレル・コムザーク2世(1904年セントルイス万博に登場)、チャールズ・ルドルフ・フリムル(1910-20年代にブロードウェイで活躍)などが挙げられます。


★カール・ツェルニー(1791年2月21日 - 1857年7月15日):ウィーン生まれの作曲家、教師、ピアニスト。父親はチェコ人、母親はモラヴィア人。祖父はプラハ近郊のニンブルクのヴァイオリニスト、父親のヴェンツェルはオーボエ奏者、オルガン奏者、ピアニストという音楽一家で育ちました。ピアノを習った方ならほぼ全員ツェルニーの教則本のお世話になっていると思いますが、ツェルニーはベートーヴェンの最も有名な弟子の一人であり、後にフランツ・リストの教師のひとりとして知られています。21歳の時、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』のウィーンでの初演のソリストを担当しています。ピアノ曲(練習曲、夜想曲、ソナタ、オペラのテーマの編曲や変奏曲)だけでなく、ミサ曲や合唱曲、交響曲、協奏曲、歌曲、弦楽四重奏曲、その他の室内楽など様々な分野での作品を遺しています。しかし、ツェルニーの名が最も知られているのは、多数の教則本的なピアノ曲で、タイトルに「練習曲」(エチュード)を使用した最初の作曲家の 1 人とされています。演奏旅行以外はほぼウィーンで活動し、66歳で亡くなっています。


★ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク( 1791年5月11日 - 1825年11月19日):ボヘミアのヴァンベルク生まれの作曲家、ピアニスト、オルガン奏者。父親はそこで学校の校長、聖歌隊の指揮者、オルガン奏者をしていて、ヴォジーシェクに音楽を教えています。神童と言われ、9歳の時にボヘミアの町で公演を始めたとされています。1812年よりヤン・ヴァーツラフ・トマーシェクの弟子となります。その後ウィーンに移り、法律を学びながらヨハン・ネポムク・フンメルにピアノを師事しています。さらに音楽サロンに参加し、ベートーヴェンをはじめルイス・シュポーア、イグナーツ・モシェレス、フランツ・シューベルトなどと親交を深めています。1818年にはウィーン楽友協会の会員に、1823年には宮廷オルガン奏者となりました。ピアノ曲として狂詩曲、即興曲、変奏曲、ピアノ・ソナタ、そのほかに室内楽曲、歌曲、交響曲ニ長調(1曲のみ)などがあり、作風はベートーヴェンの影響が強く感じられます。「即興曲」というジャンルで作曲した最初の人物とされ、後にシューベルト、ショパンが継承して発展させています。1821年に法律学を修了し、宮廷軍事枢密顧問官の法廷弁護士に任命され、さらに宮廷第一オルガン奏者にも任命されています。いわば二刀流だったということになります。


★イグナーツ・モシェレス(1794年5月23日 - 1870年3月10日):プラハで裕福なユダヤ系の商人の息子として生まれた作曲家、ピアニスト。モシェレスは1808年にウィーンに移り住み、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー、アントニオ・サリエリに作曲を習っています。若きモシェレスの才能にいたく感激したベートーヴェンは、自作のオペラ『フィデリオ』のピアノ譜の作成をモシェレスに一任したことはよく知られています。ウィーンではピアニストとして名をなし、ジャコモ・マイヤベーアと親交を結び、二人の即興による協演は大絶賛を浴びていました。その後ヨーロッパ各地へピアノの演奏旅行を行ない、カールスバートでの演奏を聴いたロベルト・シューマン少年がヴィルトゥオーゾ・ピアニストになることを決意したとされています。ベルリンでは、フェリックス・メンデルスゾーンにレッスンをつけています。結婚後はロンドンに定住することを選び、そこで1832年にフィルハーモニー協会の共同監督となっています。メンデルスゾーンが1829年に初めてロンドンを訪問するきっかけとなったのもモシェレスであったとされています。後にライプツィヒ音楽院を設立したメンデルスゾーンは、モシェレスをそこの講師として迎え、メンデルスゾーンの死後は音楽院の学長に就任しました。数多くの交響曲、ピアノ協奏曲、ソナタや練習曲を含む多数のピアノ独奏曲を作曲し、そのライプツィヒで没しています。


☆ヨーゼフ・プロクシュ(1794年8月4日 - 1864年12月20日):プラハの北東約100Kmに位置するリベレツ(ドイツ語名はライヒェンベルク、ドイツとポーランド国境近くの街)に生まれたピアニスト、作曲家。プロクシュは17歳で視力を失うも、ヤン・コジェルフの下で研鑽を積み、1830年にプラハに音楽アカデミーを開校しています。プロクシュの最も有名な生徒はベドジフ・スメタナで、1843年から1847年の間、スメタナにピアノと音楽理論を教えています。プロクシュの娘、マリー・プロクシュもまた著名なピアニストで、作曲家でもありました。スメタナはピアノ小品『マリー・プロクシュのためのアルバムの綴り』を作曲しています。


★ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダ(1801年2月21日 - 1866年12月3日):ボヘミア出身の作曲家、ヴァイオリニスト。プラハ音楽院で作曲とヴァイオリンを学び、14歳でヴァイオリン奏者としてデビューしています。1822年から1865年までの40年以上、ドイツ南西部、スイス国境近くのドナウエッシンゲンの宮廷で指揮者の職を務めています。多作な作曲家で、7 曲の交響曲をはじめ作品番号の付いた作品は約 250 点にものぼり、生前はロベルト・シューマンなどの著名な同時代の作曲家から高く評価されていました。カリヴォダはベートーヴェンとシューマンの間の『交響曲のミッシングリンク』と位置づけ、カリヴォダの交響曲は「スリリングで、ベルリオーズからドヴォルザーク、ワーグナー、シベリウスに至るまで、19世紀の音楽の多くを予期、あるいは反響させている」という説を唱える研究者もいます。しかし、長らくドイツで活躍していたこともあり、交響曲の分野でドヴォルザークに影響を与えた可能性は低いと考えられます。
*カリヴォダ引退した1865年といえば、ドヴォルザークがスメタナの元でヴィオラを弾いていた時期で、また交響曲第1番を作曲した年になります。


☆フランティシェク・シュクロウプ(1801年6月3日 - 1862年2月7日):プラハの東100 km に位置するフラデツ・クラーロヴェー近郊のオシツェ出身の作曲家、指揮者、オルガン奏者。兄のヤン・ネポムク・シュクロウプも成功した作曲家であり、父のドミニク・シュクロウプともう一人の兄弟のイグナーツ・シュクロウプも無名でしたが作曲家でした。11歳のとき、プラハに移り聖歌隊員やフルート奏者として生計を立て、フラデツ・クラーロヴェーの文法学校に入学、聖霊大聖堂の音楽監督であるフランティシェク・フォルケルトから優れた音楽指導を受けています。偶然にも、ヨゼフ・カイエターン・ティル(チェコ近代演劇の確立者)、 カレル・ヤロミール・エルベン(チェコの国民的な詩人、民謡採集者)、ヨゼフ・ヤロスラフ・ラング(チェコ民族復興運動とチェコ文化の著名人)らと机を並べていました。1826年に書かれたジングシュピール『ドラテニーク』はチェコ人による最初のオペラとされています。翌年からプラハのエステート劇場(別称スタヴォフスケー劇場、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を初演した劇場で知られています)の指揮者を務め、リヒャルト・ワーグナーなど数多くの作品のチェコ初演を指揮しています。しかし、30年間働いたこの職は1857年に政治的な圧力と当時の劇場監督シュトーグルとの意見の不一致により解雇されてしまいます。その後オランダからの依頼を受け入れてロッテルダムのドイツオペラの指揮者となっています。オランダにおけるオペラの基礎を築きましたが、健康を害し貧困のうちにロッテルダムで没しています。オペラをはじめ、チェコの歌曲や合唱曲、教会音楽など作曲しています。現在のチェコ国歌『我が家何処や Kde domov můj 』の旋律の一部の作者としても名を残しています。その曲は、同門だったティルが書いた戯曲『ヴァイオリン弾き あるいは怒りも戦いもなし』に、1834年にシュクロウプが作曲した劇付随音楽の中の1曲です。ドヴォルザークは序曲『わが家』の中でこの旋律を使用しています。


★☆ヨゼフ・ラビツキー(1802年7月4日 - 1881年8月18日):ボヘミアのクラースノ生まれの作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。14歳で巡回オーケストラに参加し、1820年からはマリエンバートのオーケストラで演奏していました。その後コンサート・ヴァイオリニストとしてドイツ国内でツアーを実施し、1825年には自身のオーケストラを結成してウィーンとワルシャワでツアーを行なっています。やがてボヘミア西部の都市カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名:カールスバート)に移って300曲近いダンス作品を作曲し、湯治のために各地から集まった人々を魅了したとされています。「ボヘミアのヨーゼフ・ランナー」とも称され、一時は英国を含むヨーロッパ中を席巻するほどの人気を博したものの、やがてヨハン・シュトラウスが登場するとその影に隠れてしまいました。息子のアウグスト・ラビツキーも父の楽団でヴァイオリンを弾き、後に指揮者、作曲家として活躍しています。


☆ヴァーツラフ・ジンジヒ・ファイト(1806 年 1 月 19 日 - 1864年2月16日):ドイツ語名ヴェンツェル・ハインリヒ・ファイト。プラハの北西の村レプニッツで生まれたドイツ系ボヘミアの弁護士、作曲家。6歳のとき、地元の校長ヴェンツェル・ベルントから最初のピアノのレッスンを受けます。プラハに行って法律と哲学を学びますが、在学中に作曲を始め、ピアノのレッスンをすることで学費を稼いだとされています。プラハで法律家として生計を立てる一方、休暇中にドイツを旅してメンデルスゾーンやシューマンらに会っています。アーヘン市立管弦楽団の音楽監督、アウクスブルク市の音楽監督などを歴任し、最後の仕事はチェコのリトムニェシツェ地方裁判所長官でした。チェコ音楽界で最も不当に忘れられた人物とも言われ、古典派末期のボヘミアの作曲家たちとスメタナに始まるチェコ・ロマン主義をつなぐ存在、或いはハイドンとベートーヴェンから影響を受け、メンデルスゾーンとシューマンを取り入れながら、ドヴォルザークを予見する兆候を見せる作品を遺した作曲家とみなされています。交響曲ホ短調(1859 年)は、ドヴォルザークの交響曲第1番(1865 年)に先立つ「チェコの交響曲様式の発展における注目すべきマイルストーン」とみなされています。2つの交響曲、序曲、ヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲と五重奏曲、ミサ・ソレムニス、大祝典ミサとテ・デウム、歌曲などを作曲しています。


☆ヤン・ベドジフ・キットル(1806年5月8日 - 1868年7月20日):南ボヘミア地方オルリークに生まれた作曲家。幼い頃より音楽教育を受けピアノの演奏を習得しましたが、父親が裁判官だったことからキットルはプラハ大学で法学を専攻します。プラハで法律を修める傍ら、ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクに師事して和声法、対位法などを学んでいます。キットルはオペラによって名声を獲得し、プラハで大きな成功を収め、他にも室内楽曲、歌曲、4曲の交響曲を残しています。1843年から1864年にかけてはプラハ音楽院で学長を務めていて、ドヴォルザークが最初の交響曲を書いた頃までその職にあったことになります。キットルの交響曲がドヴォルザークに影響を与えたかどうかについての検証はなされていないようです。学長の職を退くとポーランドに隠遁しています。


★ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト(1814年5月6日 - 1865年10月8日):モラヴィア地方のブルノ生まれのヴァイオリニスト、作曲家。9歳のころからヴァイオリンをはじめ、神童と言われました。1825年からウィーン楽友協会の音楽院に入学し、ヴァイオリンをヨーゼフ・ベームとヨーゼフ・マイゼダーに、作曲をイグナーツ・フォン・ザイフリートに師事しています。1828年、ニコロ・パガニーニがウィーンを訪れた際、エルンストはパガニーニの演奏を聴いて深く感銘を受け、一方パガニーニはエルンストの輝かしいキャリアを予言したと言われています。ウィーンを離れたエルンストはミュンヘン、フランクフルトなどで活躍し、そのころ、パガニーニを含む聴衆の前で超絶技巧曲である『ネル・コル・ピウ変奏曲』を正確に弾き、作曲者であるパガニーニを驚嘆させています。当時パガニーニは自作の楽譜を出版させなかったため、パガニーニが演奏した時に耳で聴き取った音符をもとにエルンストが演奏したということになるからです。エルンストはヴィオラの演奏にも優れていて、ベルリオーズの『イタリアのハロルド』の独奏を得意とし、1842年には作曲者自身の指揮の下でも演奏しています。1844年にはロンドンに移住しベートーヴェン四重奏団に加入しています。そのカルテットは、ヨーゼフ・ヨアヒム、ヘンリク・ヴィエニャフスキがヴァイオリンを、エルンストはヴィオラ、カルロ・アルフレド・ピアッティがチェロを弾くといった錚々たる顔ぶれだったことになります。生涯の最後の7年間をニースで過ごしその地で没しました。『夏の名残のばらによる変奏曲』は現在よく演奏される超難曲として知られています。無伴奏ヴァイオリンのための6つの練習曲より第6番『夏の名残のばら』による変奏曲(1865年)で、主題となっているアイルランド民謡『夏の名残のばら』は日本では『庭の千草』として知られています。。
*エルンストの師であるザイフリート(1776年8月15日 - 1841年8月27日)は、シカネーダー率いるウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場のオペラ一座で指揮者を務め、さらにベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』の改稿前の版の初演を行った人物です。


★アレクサンダー・ドライショク(1818年10月15日 - 1869年4月1日):ボヘミア出身のピアニスト、作曲家。神童と言われ、8歳の頃から公の場で演奏していました。14歳でプラハに出てヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクにピアノと作曲で師事します。1838年にはプロのピアニストとしてドイツへ最初の演奏旅行を行ない、その後のツアーでは、ロシア(1840年 - 1842年)、パリ(1843年)、ロンドン、オランダ、オーストリア、ハンガリー(1846年)、そして1849年にはデンマークとスウェーデンを訪問しています。当時、「オクターブ奏法」と言えばドライショクの名前が出てくるほどその技巧で名声を得ていましたが、さらにドライショクの左手は有名で、1843年にパリでデビューした際には左手だけの曲を演奏に取り入れたとされています。「この男には左手がない、両手とも右手だ」とも称されました。詩人のハインリヒ・ハイネはこの時、「このピアニストが弾き出すと、私たちの鼓膜が破れるほどだ。ひとりではなく、30人のピアニストが弾いているみたいだ。・・・年老いたピアニストはますます影に隠れるようになり、彼の名声の哀れな犠牲者たちは今、若い頃に過大評価されたことで苦しむに違いない。」と書き残しています。1862年、ドライショクはアントン・ルービンシュタインの招きで、新設されたサンクトペテルブルク音楽院で教えることになって6年間務めましたが、ロシアの気候はドライショクの虚弱な体に合わず健康を害します。療養中のヴェネツィアで結核のため死去しました。


☆パヴェル・クシーシュコフスキー(1820年1月9日 - 1885年5月8日):オーストリア領シロンスクのクロイツェンドルフ(チェコ名ホラショヴィツェ)に生まれたチェコの音楽家(国籍はオーストリア?)。貧しいメイドの私生児として生まれたクシーシュコフスキーは、ネプラホヴィツェの学校に通いそこで教会の聖歌隊でも歌いました。その音楽的才能は地元の聖歌隊員アロイス・ウルバネクによって見出され、ウルバネクはクシーシュコフスキーに歌唱とヴァイオリン、ピアノ、オルガンの演奏を教えています。11歳の時、ネプラホヴィツェの教師イジー・ヤナーチェクのもとに連れて行かれ、1年間ヤナーチェクの下で学んでいます。この間に、音楽の才能を発揮してオパヴァの聖母マリア被昇天教会の資奨学金を得て、聖歌隊養成学校に入学します。さらにオロモウツ大学で哲学を学びますが、経済的な困窮により学業を中断してオパヴァ教会の司祭の助手となり、教員試験に合格後はホラショヴィツェ近郊のヤムニツェとオパヴァの学校でチェコ語を教えました。1848年に同修道院の聖歌隊指揮者に任命され、ブルノで2つの合唱団を設立し、定期的に合唱や室内楽のコンサートを開いていました。クシーシュコフスキーはヴィオラ演奏にも優れ、弦楽四重奏団のヴィオラ奏者としても活動していました。後になってこの合唱団にイジー・ヤナーチェクの息子、レオシュ・ヤナーチェクを受け入れ、その指導もしています。作品は民謡や宗教的な合唱曲が多く、カンタータ 『聖キュリロスと聖メトディオス』が最もよく知られています。また、モラヴィアの民謡を編曲して合唱曲として普及させる活動も行なっています。クシーシュコフスキーは1877 年 にアントニン・ドヴォルザークと会っていますが、ドヴォルザークの合唱曲に与えた影響があったのかどうかについて言及する資料はまだ見つかっていません。その頃のドヴォルザークは教会のオルガニストを辞め、4回目の国家奨学金を受け取り、『モラヴィア二重唱曲集』でブラームスの注目を惹いた時期となります。


★ヴィルヘルム・クーエ(1823年12月10日 - 1912年10月8日):プラハで生まれたピアニスト、ピアノ教師、作曲家。ヴァーツラフ・トマーシェクに師事しています。1844年にピアニストとしてリンツ、ザルツブルク、インスブルック、アウクスブルク、ミュンヘン、シュトゥットガルトで成功を収めたのち、1847年24歳で英国に定住し、ピアノ教師、ピアニスト、コンサートのプロモーターとして人気を博しました。ブライトンで音楽祭を設立するなど、当時の作曲家たちの新作を多数紹介しています。数多くのサロン向けの小品、幻想曲、オペラの編曲物、歌曲などを残しています。1896年に回想録『私の音楽の思い出』を出版し、その中でプラハ出身のコントラバス奏者ヴェンツェル・スヴォボダから聞いた話として、モーツァルトに関する逸話を数多く書き残しています。


★☆ベドルジハ・スメタナ(1824年3月2日 - 1884年5月12日):ボヘミア北部、現在のパルドゥビツェ州に位置する都市リトミシュルで生まれたピアニスト、作曲家、指揮者。ドイツ語がボヘミアの公用語であったため父親はチェコ語を話すことができたものの、生活においてはドイツ語を使用していました。そのため、彼の子供達はかなり年を取るまで正式なチェコ語を知らないまま育っています。コンサート・ピアニストとしてスタートしたスメタナは1856年にスウェーデン移住し、音楽教師及び指揮者としても活動するようになりました。1860年代になるとプラハではチェコの民族主義運動が盛んになり、スメタナはチェコ語の歌詞による合唱曲の作曲依頼を受けています。この時、初めて家族以外の者にまだあまり完全でないチェコ語で手紙を書いています。これを契機にプラハに戻ったスメタナでしたが、期待していたプラハ国民劇場の仮設劇場の楽長の職を得られなかったのはチェコ語が満足に話せなかったことも原因のひとつとされています。

 1866年に、スメタナ初のオペラ作品『ボヘミアのブランデンブルク人』と『売られた花嫁』がプラハの仮設劇場で初演され、特に後者は後に大きな人気を得ることになります。同年スメタナは同劇場の指揮者に就任していますが、それと前後してドヴォルザークがヴィオラ奏者として演奏していたことは既述の通りです(第1章参照)。スメタナの作品にはチェコ的な音楽があふれているにもかかわらず、民謡の模倣によるものはひとつもなく、そのことが反対派から非難の的となり、さらにはワグネリアンとも標榜されドイツ寄りの作曲家と見做されました。国民劇場の起工式に上演されたチェコ民族の解放者ダリボルを描いた歌劇『ダリボル』でさえも反対派の攻撃の材料にされるようになったのでした。なおスメタナを支持した若いグループはのちにこのオペラの題名を取って『ダリボル』という雑誌を刊行して戦うようになります。

 この頃から難聴に悩まされていたスメタナはさらに健康を害してオペラの劇場での仕事を辞しプラハを離れます。それと前後してスメタナの代表作、交響詩『わが祖国』が作曲されています(初演は1875年から1880年にかけて)。こうした作品によって、後になって、スメタナは当時オーストリア=ハンガリー帝国によって支配されていたチェコの独立国家への願望やチェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者とみなされるようになっていきます。スメタナの指揮のもとでヴィオラを弾いていたドヴォルザークは、作曲についてスメタナから直接指導を受けたということはなかったとされていますが、スメタナの指揮やその作品からドヴォルザークが受けた影響は少なくなかったと考えられます。余談ですが、ドヴォルザークは「自分はスメタナに半音及ばない」と言ったそうです。スメタナのイニシャルはB.S.これを音名にするとB=変ロ.S=Es=変ホに対して、ドヴォルザークのイニシャルはA.D.はA=イ、D=ニ となります。つまり、名前も姓もドヴォルザークはスメタナの半音下になるからです。


★エドゥアルド・フランツェヴィチ・ナープラヴニーク(1839年8月24日 - 1916年11月10日):ボヘミア地方ビーシチに生まれた指揮者、作曲家。14歳で孤児となり、地元の教会でオルガンを演奏して生計を立てたのち、1854年にプラハのオルガン学校に入学します。1861年にロシアから招かれ、サンクトペテルブルクで指揮者の地位を得ています。その後、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場の首席指揮者としてロシアの音楽界で主導的な役割を果たし、ムソルグスキー、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフなど、ロシアの作曲家による多くのオペラの初演を指揮しています。とりわけチャイコフスキーとの関りは大きく、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1 番のロシアにおける初演や、交響曲第6番『悲愴』の2回目の公演(初演の指揮は作曲者自身)を指揮しています。現在この曲の譜面はナープラヴニークによる改訂稿が一般的に使用されているそうです。ナープラヴニークは室内楽をはじめ、ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲、4つのオペラなどを残しています。


☆アントニン・ドヴォルザーク(1841年9月8日 - 1904年5月1日):解説は略させていただきます。


★ダーヴィト・ポッパー(1843年6月18日 - 1913年8月7日):プラハ生まれのボヘミアのチェロ奏者、作曲家。プラハの音楽教師の家庭に育ったポッパーはプラハ音楽院に学び、ハンブルク出身のチェリスト、ユリウス・ゴルターマンに師事して間もなく演奏活動に入ります。1867年にウィーンでデビューし、宮廷歌劇場の首席チェロ奏者に就任し、翌年からはヘルメスベルガー四重奏団のメンバーにもなりました。その後フランツ・リストはポッパーをブダペスト音楽院に新設された弦楽部門の教職に推薦しています。ブダペストでは、イェネー・フバイとともにブダペスト四重奏団に参加し、ブラームスと室内楽を何度も共演しています。ブダペストで行われたブラームスのピアノ三重奏曲第3番の初演も行っています。ブダペスト音楽院で教鞭を執り、門弟にはヤーノシュ・シュタルケルの教師であるアドルフ・シファーなどがいました。チェロ音楽の作品として4つの協奏曲や独奏曲など数多く作曲しています。教則本も書いていて、『チェロ奏法の上級教本』(作品73)は現在でもよく使われています。


★フランツ・クサーヴァー・ネルーダ(1843年12月3日 - 1915年3月19日):南モラヴィア地方のブルノに生まれたチェロ奏者、作曲家。ブルノ大聖堂のオルガン奏者だった父親からヴァイオリンを習っています。その後独学でチェロを習得して父、兄弟とともにネルーダ四重奏団の一員として、またソリストとしてヨーロッパ中で演奏しました。1859年にアドリアン・フランソワ・セルヴェのもとで半年間チェロを学んでいます。その後、コペンハーゲンの王立礼拝堂の一員となり、王立室内楽奏者にも任命されました。1891年にはストックホルム音楽協会の指揮者に任命され、さらにコペンハーゲン音楽協会の指揮者にも就任しました。ネルーダの死後はカール・ニールセンがその後任となっています。主な作品には、5つのチェロ協奏曲、4つの四重奏曲、3つの管弦楽曲があり、ピアノ、オルガン、チェロ、ヴァイオリンのための小品も多数残しています。
*チェコ出身の音楽家は、ウィーンだけでなく英国、米国、そしてロシア、北欧にまでその足を運び、大きな足跡を残していたことになります。


★イグナーツ・ブリュル(1846年11月7日 - 1907年9月17日):モラヴィアのプロスニッツ(現プロスチェヨフ)の富裕なユダヤ人商人の家庭に長男として生まれたピアニスト、作曲家。1850年に両親に連れられウィーンに移り、ブリュルは生涯をそこで過ごしました。ウィーン音楽院で教育を受け、ピアノをユリウス・エプシュタインに、作曲をヨハン・ルフィナッチャとフェリックス・オットー・デッソフに師事します。14歳のときにアントン・ルビンシテインから推薦もあり、音楽活動に専心することになります。1869年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に登場し、自らのピアノで自作のピアノ協奏曲を演奏しています。ドヴォルザークより5歳若いにもかかわらず、ドヴォルザークより10年も早くウィーンで成功していたことになります。1875年に2作目の歌劇『黄金の十字架』がベルリンで初演されると、皇帝ヴィルヘルム1世から個人的に賞賛され、数十年にわたって劇場のレパートリーに残っていました。また二度の英国への演奏旅行でも成功を収めています。ブラームスやカール・ゴルトマルク、ロベルト・フックス、マーラーをはじめ多くの作曲家と親交を結んでいて、とりわけブラームスは、自分の最新作のピアノ連弾版を個人的に演奏する際にはブリュルにパートナーになってもらうよう依頼したとされています。歌劇をはじめ、交響曲(1877年?:ドヴォルザークの6番の3年前)、ピアノ及びヴァイオリン協奏曲、ピアノ作品などを多数残しています。ナチスがユダヤ系芸術家を迫害するに及び、ブリュルも表舞台から引き摺り降ろされることになりました。ドヴォルザークとほぼ同じ時代に生まれ、ウィーンで音楽活動をしていたにしては今ではほとんど知られていない作曲家となっていますが、YouTubeで聴いてみると中にはいい曲が少なくありません。


☆フランティシェク・クモフ(1848年8月1日 - 1912年4月30日):ボヘミアのコリン近郊のザスムキで生まれた作曲家、指揮者。父親は仕立て屋で、クラリネット吹きでもありました。フランティシェクはヴァイオリンを習い、10歳になる頃にはすでに小品を作曲し始めていました。プラハの教員大学で学び、1869年にはスッチドルで教師の職に就きますが、いくつかのアンサンブルで演奏するなど音楽に熱中し過ぎたという理由からか教師を解雇されています。しかし、その頃にはすでにコリンのソコル吹奏楽団の指揮者となっていて、さまざまなイベントで活躍していました。プラハを含む多くの都市から吹奏楽団の指揮者として招かれましたが、コリンに留まることを選んでいます。吹奏楽団とともにウィーン、ブダペスト、クラクフ、ロシアへの演奏旅行も行なっています。オーストリア=ハンガリー帝国の軍隊行進曲に反発して、チェコの伝統や民俗学、民族音楽に深く根ざした行進曲を数多く作曲したことでも知られています。コリン市は1961年以来、ヨーロッパ各地から著名な吹奏楽団を招いてクモフ・コリン・フェスティバルを毎年開催しています。


★カレル・コムザーク2世(1850年11月8日 - 1905年4月23日):プラハ生まれの楽長、指揮者、作曲家。父カレル・コムザーク1世の許で訓練を積んだ後、1861年から1867年までプラハ音楽院で音楽理論と指揮法を修得します。1869年に父親のリンツの軍楽隊に入団してヴァイオリンなどを演奏しています。軍楽隊長としてインスブルックに赴任したのち、1882年にウィーンの第84歩兵連隊の軍楽隊長に就任すると、その親しみ易い人柄や精力的な指揮活動によって間もなくウィーンの聴衆のお気に入りとなり、主要な吹奏楽の作曲家の一人と認められるに至りました。コムザークの軍楽隊には14名の第1ヴァイオリン奏者を擁していて、当時の標準的なオーケストラに匹敵していました。コムザークがこの軍楽隊と共に行った度重なる演奏旅行は各地で好評をもって迎えられました。1904年には渡米してセントルイス万博において「ヴィーナー・ファルベン管弦楽団」の公演を行なっています。舞曲や行進曲を多数作曲し、『アルブレヒト大公行進曲』やワルツ『バーデン娘』などがよく知られています。ヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィル・ブラスオーケスターと録音した行進曲集でこの『アルブレヒト大公行進曲』を演奏しています。また、リッカルド・ムーティはこのワルツ『バーデン娘』を2021年のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートで指揮しています。
*プラハのオルガン学校を卒業したドヴォルザークは、コムザーク2世の父親カレル・コムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団しています。
*コムザーク2世がウィーンにやってきた1882年といえばドヴォルザークが交響曲第6番の初演に絡みウィーンで挫折を味わった直後ということになります。軍楽隊の世界ではチェコ民族に対する偏見はなかったのでしょうか。


★☆ズデニェク・フィビフ(1850年12月21日 - 1900年10月15日):当時オーストリア帝国の支配下にあったボヘミア地方のフシェボジツェ村に生まれた作曲家。父親はチェコの林業官僚、母親はドイツ系ウィーン人であったことから、最初2年間ウィーンのドイツ語圏のギムナジウムに通い、その後プラハのチェコ語圏のギムナジウムに通っています。15歳になってからライプツィヒに行って、そこで3年間イグナーツ・モシェレスにピアノを、ザロモン・ヤーダゾーンとエルンスト・リヒターに作曲を学んでいます。その後パリで1年近く過ごした後、マンハイムでヴィンツェンツ・ラハナーに師事して学業を終えています。その後数年間、プラハに戻って、スメタナの歌劇『売られた花嫁』の台本作家カレル・サビーナの台本に基づいて最初のオペラ『ブコヴィナ』を作曲しています。その後リトアニアで聖歌隊指揮者の地位を得ていますが、1874年にプラハに戻っています。

 フィビフの音楽はウェーバー、メンデルスゾーン、シューマン、後にワーグナーの影響を受けていているとされています。200曲近く書いた歌曲はドイツ語で書かれている一方、オペラの大半はチェコ語で作曲されています。しかし、その多くはシェイクスピア、シラー、バイロンなどチェコ以外の文学作品に基づいています。室内楽においてはボヘミアの民謡やドゥムカなどのダンスのリズムを活用していて、室内楽曲で ポルカを使った最初の人物ともされています。ドイツ・ロマン派の影響を色濃く受ける一方でチェコの民謡や民族舞踊も取り入れるというスタイルは、フィビフが幼少時代から非常に恵まれた環境で音楽を学び育ち、ドイツ語とチェコ語両方共堪能で、どちらの文化の中で教育を受けたことで得た特異な能力に依ると考えられますが、逆にそれがスメタナやドヴォルザークに比べて知名度が低いということにも繋がっているのかもしれません。ライプツィヒ音楽院入学前の1865年に最初のホ短調交響曲(番号なし)を、自身の指揮で初演していますが、まさに同じ年にドヴォルザークは交響曲第1番を作曲してコンクールに提出しています。ドヴォルザークより9歳年下のフィビフは早熟だったことになります。しかし、フィビフの交響曲第2番が作曲されたのは1892年から1893年にかけてで、その頃、ドヴォルザークは新世界交響曲を世に出しています。


☆レオシュ・ヤナーチェク(1854年7月3日 - 1928年8月12日):モラヴィア出身の作曲家。祖父と父はともに教師で、音楽家でもありました。モラヴィアの首都ブルノにあるアウグスティノ会修道院付属の学校に入学し、同時に修道院の少年聖歌隊員となりました。その時、聖歌隊の指揮者であったパヴェル・クシーシュコフスキーから指導を受けています。その後、プラハに行ってオルガン学校で学びます。この頃、ドヴォルザークと出会って親交を深めています。サンクトペテルブルク、ライプツィヒ、ウィーンで学んだ後、ブルノへ戻ったヤナーチェクはオルガン学校(現在のヤナーチェク音楽院)を設立します。1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、バルトシュに協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うようになっています。作業を進める中でヤナーチェクは民俗音楽の技法に魅せられていき、自らの器楽作品に活用するようになり、モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料としたオペラや管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲などを残しています。


★☆ヨゼフ・ボフスラフ・フェルステル(1859年12月30日 - 1951年5月29日):プラハに生まれた教育家、作曲家。父親は聖ヴィート大聖堂の楽長、オルガン奏者、プラハ音楽院教授などを歴任した人物で、その生徒にはフランツ・レハールがいました。若きヨゼフ・ボフスラフはプラハの文法学校で学び、1875年からプラハの「レアル・ギムナジウム」で高等中等教育を受けて文学と絵画に対する幅広い視野と親和性を身につけています。1878年に卒業後、父親の要請によりドイツ工科大学で化学を学びますが、1年後には音楽家になることを決意してオルガン学校で勉強を始めています。その頃には当時のチェコ語で書かれた新聞である国民新聞の音楽記者も務めています。その後、チェコの著名なソプラノ歌手ベルタ・ラウテレロヴァーと結婚し、10年間ハンブルクで音楽評論家として生計を立てていました。その時、当時ハンブルク市立劇場の首席指揮者であったグスタフ・マーラーと出会い、それ以来ずっと友好的な関係を保つことになります。1901年にはハンブルク音楽大学の教授に就任、1903年にウィーンに移ってそこでも教壇に立つかたわら評論活動も続けています。オーストリアから独立したチェコスロヴァキアに帰国して母校で教鞭を執り、1939年に院長に昇進しています。作曲家としては、5つの交響曲、交響詩、多くの室内楽曲、5つのオペラなどを残しています。また、宗教的なテキストに基づく合唱、独唱曲も多く書いています。主に後期ロマン主義の音楽、特にマーラーの影響を受けていましたが、ドヴォルザークをはじめとする19世紀のチェコ音楽も創造的に継承していました。1890年に書かれた交響曲第2番は、彼の友人でもあったマーラーが高く評価したといわれる作品で、葬送行進曲とスケルツォが見事な対比を描いた若書きながら力作とされています。交響曲第4番『復活祭の夜』はチェコの指揮者ラファエル・クーベリック(1948年)、カレル・アンチェル(1959年)、ヴァーツラフ・スメターチェク(1968年)らがLPレコードに録音を遺しています。この交響曲第4番は、ウィーンに転居した1903年から1905年にかけて作曲された彼の代表作で、1905年と言えばマーラーが交響曲第6番を完成させた年でもあり、その終楽章におけるマーラーとの共通性やブルックナーの影響には興味深いものがあります。


 以上、ドヴォルザークとの接点を探しながら調べましたが、スメタナを除いてドヴォルザークに音楽的な影響を及ぼしたチェコの作曲家はいないというのが結論と言っていいと思います。そのスメタナにしても、ドヴォルザークがヴィオラを弾いていたときの指揮者であったのにすぎず、カフェで同席することはあっても作曲の指導をしたという証拠は見つかっていないのです。


 最後に1850年代より少し後に生まれていますが、ドヴォルザークの関係者としてフチーク、スークとフリルムそしてマーラーを挙げます。


★グスタフ・マーラー(1860年7月7日 - 1911年5月18日):プラハの南東約100Kmに位置するカリシチェに生まれた作曲家、指揮者。 生まれて5か月後に両親はさらに南東に約35Km行ったところにあるイフラヴァ(ドイツ語:イグラウ)に引っ越していますので、マーラーは幼少期にこのモラヴィアとボヘミアの境にある交通の要所、織物生産地(かつては鉱業で栄えた都市)として知られるイフラヴァで育ったことになります。ドイツ語を話すユダヤ人の家に生まれ、主にウイーンで活躍したマーラーを「チェコ人」と書く研究家はいないと思いますが、この生まれ育ったイフラヴァで聞いた当時の街頭歌、ダンス音楽、民謡、そして地元の軍楽隊のトランペットの音や行進曲などがマーラーの音楽上の素地となったことは多くの研究者が指摘していることをから、マーラーをチェコと切り離して論ずることはできないと思います。これまで掲げた多くのチェコに生まれた音楽家を、たとえチェコを離れて活躍してもチェコの音楽家と見なしていることから、マーラーも同じように分類することは間違いではないのではないでしょうか。現在のチェコでマーラーを自国の誇るべき作曲家と見なしているかどうか、本国の人々に訊いてみたいものです。

 マ−ラーは11歳でプラハのギムナジウムに通った後、ウィーン楽友協会音楽院に入学し、ピアノをユリウス・エプシュタインに、和声学をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに学んでいます。また、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義も受けています。卒業後は、リンツ南部の温泉街バート・ハルの小さな劇場で初めてプロの指揮者の仕事に就き、その後、スロヴェニアのリュブリャナの州立劇場の指揮者となります。さらに、ウィーンのカール劇場で合唱指揮者としてパートタイムで働き、モラヴィア地方のオルミュッツにある王立市立劇場の指揮者に就任します。その後、ドイツ中部にあるカッセル王立劇場、プラハの王立新ドイツ劇場、ライプツィヒ歌劇場の楽長を経て、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督、ハンブルク市立劇場の首席指揮者となり、最終的にウィーン宮廷歌劇場の監督へと昇りつめていきます。ブダペストではマーラーが指揮するモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を観ていたブラームスから賞賛され、ハンブルクではチャイコフスキーの歌劇『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演の指揮を作曲家本人から大絶賛されたことはよく知られています。また、このキャリアの過程でチェコの都市、リュブリャナ、オルミュッツ、プラハにおいてマーラーが仕事をしていることも見落としてはならない点でしょう。なお、マーラーとドヴォルザークとの関係については、本書第7章をご参照ください。

 チェコの指揮者が録音したマーラーの交響曲全集をご紹介します。
・ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(1967年〜1971年)
 *4番を除くライブでの全集録音もあります。(1967年〜1982年)
・ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1976年〜1982年)
・リボル・ペシェク指揮チェコ・ナショナル交響楽団(2007年〜2016年)
・ズデニェク・マーツァル指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(2003年〜2007年)
 *8番と『大地の歌』を残して2007年にチェコ・フィルを退任、2023年に亡くなりました。



☆★ユリウス・アルノシュト・ヴィレーム・フチーク(1872年6月18日 - 1916年9月15日):プラハで生まれた作曲家、軍楽隊指揮者。400曲以上の行進曲、ポルカ、ワルツを作曲しましたが、そのほとんどが軍楽隊のためのものであったため「ボヘミアのスーザ」と呼ばれることもあります。ルートヴィヒ・ミルデにファゴットを、アントニーン・ベネヴィッツにヴァイオリンを学び、後にドヴォルザークに作曲を学んでいます。1891年に第49オーストリア・ハンガリー連隊に軍楽隊員として入隊しましたが、3年後にはプラハのドイツ劇場で第2ファゴット奏者の地位に就きました。1897年、サラエボに拠点を置く第86歩兵連隊の楽長として軍に復帰し、その時に作曲した『剣闘士の入場』は世界で最も有名な行進曲のひとつとなり、のちに編曲されて「雷鳴と炎」というタイトルが付けられ、世界中のサーカスでのピエロの登場音楽として使用されるようになりました。1910年、フチークは再びボヘミアに戻ってテレージエンシュタットの第92歩兵連隊の楽長に就任し、プラハやベルリンなどへ演奏旅行を行ないました。それらの演奏会では1万人を超える観客を集めたとされています。弦楽器王国チェコにあって、ランティシェク・クモフ、カレル・コムザーク2世らと共にチェコの吹奏楽三羽ガラスとしてその名を歴史に刻んでいます。


☆ヨゼフ・スーク(1874年1月4日 - 1935年5月29日):ボヘミアのクシェチョヴィツェ生まれの作曲家、ヴァイオリニスト。父のヨゼフ・スーク・シニアからオルガン、ヴァイオリン、ピアノを学び、さらにヴァイオリンはチェコのヴァイオリニスト、アントニーン・ベネヴィッツに師事しています。何よりドヴォルザークのお気に入りの弟子の一人として知られているスークは、ドヴォルザークを師と仰ぐだけでなく個人的にも親しく、1898年にはドヴォルザークの娘オティーリエと結婚しています。管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲など多くの作品を遺していますが、義父であるドヴォルザークと妻が亡くなった後の1906年に完成された交響曲第2番『アスラエル』が代表作とされています。1891年に結成されたチェコ弦楽四重奏団にセカンド・ヴァイオリン奏者としても在籍し、ドヴォルザークやヤナーチェクの弦楽四重奏曲の初演を行なっていました。また、ロサンゼルスで開催された1932年夏季オリンピックでスポーツ関連のテーマからインスピレーションを得た作品に対して与えられる賞の音楽部門で銀メダルを獲得しています(祝典行進曲『祖国新生に向けて』作品35c)。チェコのオリンピックにおけるメダル数に貢献したということになります。


☆チャールズ・ルドルフ・フリムル(1879年12月7日 - 1972年11月12日):プラハに生まれた作曲家、ピアニスト。幼少期から音楽の才能を現したフリムルは1895年にプラハ音楽院に入学、ドヴォルザークの下でピアノと作曲を学びます。しかし許可なくコンサートに出演したということで音楽院を追放され、ヴァイオリニストのヤン・クーベリックの伴奏者となり、クーベリックと共に2度の米国演奏旅行に赴き、1906年には米国に永住することになりました。1912年、ヴィクター・ハーバートの後任として劇場の作曲家として雇われ、ブロードウェイの新作オペレッタ『蛍』で成功を収めます。その後、『ローズマリー』(1924年)、『放浪王』(1925年)などでヒットを飛ばし、いづれも映画されました。また、コンサートでもピアノの即興演奏などで人気を博しました。その際、師への特別なトリビュートとして、ドヴォルザークの『ユーモレスク』を度々演奏したとされています。オペレッタ、ミュージカルの作曲において、ヴィクター・ハーバートとエーリヒ・コルンゴルトの中間に位置する作曲家となりますが、知名度はあまり高くはないようです。JR蒲田駅の発車メロディーにも使われている『蒲田行進曲』は、フリムルの『放浪王』の劇中で歌われる曲のひとつである『放浪者の歌 Song of the Vagabonds』を原曲としています。




【 付録の付録 : チェコのヴァイオリニスト 】
 チェコの作曲家について調べていたら、これまた多くのチェコ出身のヴァイオリン奏者のことが目に止まりましたので、以下にご紹介します。期間はドヴォルザークの時代から第二次大戦前後までとしました。楽器奏者は各地を演奏して回りますから、チェコ以外で活動することは当然のことですが、数々の教則本の作者であったり、音楽史上の重要な人物との関わっていたりとその活躍ぶりには驚かされます。また、上記に紹介した作曲家の多くが同時にヴァイオリン奏者であったり、ドヴォルザークもヴィオラ奏者としてキャリアをスタートさせたりとチェコの音楽家と弦楽器は切っても切れない関係にあることがよくわかります。ボヘミアでは「チェコ人は皆、枕の下にヴァイオリンを持って生まれてくる」という古い諺があるそうです( ギー・エリスマン著『ドヴォルジャーク』 )。


■ ヨーゼフ・スラヴィーク(1806年3月26日 - 1833年5月30日):プラハの東北約50Kmにあるインツェに生まれたヴァイオリニスト、作曲家。生前は「ボヘミアのパガニーニ」と呼ばれた人物です。教師で音楽家でもあった父親アントニン・スラヴィクからヴァイオリンを教わっています。プラハ音楽芸術支援協会の会員であったオイゲン・ヴルブナ伯爵の目に留まりプラハ音楽院の入学を許可されました。1823年に学業を終えた後、スタヴォフスキー劇場のオーケストラに入団、のちに各地でリサイタルを開き好評を博します。ウィーンではパガニーニと直接会い、貴重な知識を得たとされています。スラヴィークの演奏を何度か聴いたフレデリック・ショパンは、彼の技量について「パガニーニを除けば、彼のような演奏者は聞いたことがない。一回のボーイングで96回のスタッカート!ほとんど信じられない!」と評しています。シューベルトはスラヴィークのためにロンド ロ短調作品70、(D895:1826年)及びヴァイオリンとピアノのための幻想曲ハ長調作品159(D934:1828年)を作曲しています。スラヴィークはウィーンでインフルエンザに罹ったままハンガリーへと演奏旅行に出かけ、ペシュト(ペスト)で高熱に倒れ、そのままわずか27年の生涯を終えました。享年27歳でした。


■ フェルディナント・ラウプ(1832年1月19日 - 1875年3月17日):プラハで生まれたヴァイオリニスト、作曲家。当時の著名なヴァイオリニストで音楽教師だった父親から教育を受けたのち、1843年から1846年までプラハ音楽院に学びます。1846年3月29日には、エクトル・ベルリオーズとフランツ・リストの前で演奏を行なったとされています。その後ウィーンでヴィルトゥオーゾとしての活動を開始し、ヨーロッパ各地を巡演しています。ロンドン万国博覧会で演奏した際に批評家からシャルル=オーギュスト・ド・ベリオやアンリ・ヴュータンと並ぶ世界的な巨匠として称賛されています。1860年にはイェーテボリにベドルジハ・スメタナを訪ね、共同で演奏会を2度開いています。1866年から1874年までモスクワ音楽院のヴァイオリン教授を務め、多くの著名な生徒を育てました。その中にはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を初演したアドルフ・ブロツキーや教則本で知られるヤン・フリマリーなどがいました。また、チャイコフスキーはラウプを「当代最高のヴァイオリニスト」と呼んで賞賛し、自作の弦楽四重奏曲第1番と第2番の初演では第一ヴァイオリン奏者を任せ、ラウプの死後には第3番を献呈しています。


■ アントニーン・ベネヴィッツ(1833年3月26日 - 1926年5月29日):ボヘミアのヴァイオリニスト、指揮者、教師。ボヘミアのプリヴラトでドイツ人の父とチェコ人の母の間に生まれたベネヴィッツは、1846年から1852年までプラハ音楽院でモーリッツ・ミルドナーに師事しました。その後、プラハのエステート劇場(1852年 - 1861年)のほか、ザルツブルクとシュトゥットガルトでもオーケストラの第1ヴァイオリン奏者として活躍しました。ベネヴィッツは、1896年に作曲されたドヴォルザークの交響詩『真昼の魔女』、『水の妖精』、『黄金の糸車』のプラハ音楽院で半公開での初演を指揮しています(6月1日と3日)。


■ ヤン・フリマリー(1844年4月13日 - 1915年1月11日):ボヘミア西部のピルゼンに生まれたヴァイオリニスト、音楽教師。プラハ音楽院でモーリッツ・ミルドナーに師事してヴァイオリンを学び、卒業後にアムステルダム管弦楽団の指揮者となります。その後プラハに戻ったものの、プラハ音楽院の職にありつけず、1869年にモスクワ音楽院でヴァイオリンの教師となっています。その後モスクワ音楽院の教授となり、亡くなるまでその職を務めました。チャイコフスキーから高く評価されていて、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲イ短調『偉大な芸術家の思い出』の初演を行なっています。なお、その時のピアノはセルゲイ・タネーエフ、チェロはヴィルヘルム・フィッツェンハーゲンでした。また、チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第3番がニコライ・ルビンシテインの私邸で初演された際にもヴァイオリンを弾いていました。後にダヴィド・オイストラフとレオニード・コーガンの師となるピョートル・ストリヤルスキーを教えています。フリマリーはコンサートや教育活動に加えて、ヴァイオリンの技術的な研究書も数多く出版し、特に『フリマリー バイオリン音階教本』は各調の音階を身につけると同時に、演奏技術の向上も望める歴史的名著とされています。


■ ハンス・ジット(1850年9月21日 - 1922年3月10日):ボヘミアの ヴァイオリニスト、ヴィオラ奏者、教師、作曲家。ハンガリー生まれの著名なヴァイオリン製作者、アントン・ジット(1819年 - 1878年)の息子としてプラハに生まれました。ハンス・ジットは1867年、17歳でヴロツワフのブレスラウ歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに任命され、1873年から1880年まではケムニッツでも指揮者を務めています。1884年から1921年までライプツィヒ音楽院のヴァイオリン教授のポストにあり、当時、ヨーロッパや北アメリカのほとんどのオーケストラや音楽院にはジットの教え子がいたとされています。ハンス・ジットの兄であるアントン・ジット(1847年 - 1929年)もヴァイオリニストとして活躍し、ヘルシンキ管弦楽協会のコンサートマスターとして、ヤン・シベリウスの主要な管弦楽曲のほとんどを初演したとされています。ヴァイオリンとヴィオラの教則本の作者としても知られていて、そういえば我が家にもジットの Technical Studies for Violin op.92 という教則本がありました。ジットは教則本の他、ヴァイオリンやヴィオラを含む協奏曲、室内楽、独奏曲などを多数残しています。


■ オタカル・シェフチーク(1852年3月22日 - 1934年1月18日):ボヘミア地方ホラジェドヴィツェに生まれたヴァイオリニスト、教師。父親は地元の村の校長で、最初の音楽のレッスンは父親からでした。プラハ音楽院でアントニーン・ベネヴィッツ に師事しています。1870年よりモーツァルテウム管弦楽団においてコンサートマスターを務め、1873年よりプラハ国民劇場やウィーンのコーミッシェ・オーパーならびにリンク劇場においてコンサートマスターを歴任しています。その後、ザルツブルク、ウィーン、プラハ、ハリコフ、キエフ、ロンドン、ボストン、シカゴ、ニューヨークでヴァイオリン教師として活躍し、その生徒はわかっているだけで1000人以上とされています。シェフチークのヴァイオリン研究とヴァイオリン教本は多数出版され、今でも主要な教育ツールとして使用されています。わが国では、「セヴシック・バイオリン教本」として知られています。なお、シェフチークはドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲を好んでいなかったようで、弟子達にも演奏させなかったとされています。その協奏曲が1883年の初演された時、ジットは30歳を過ぎた現役バリバリの頃でしたが、その初演をさせてもらえなかったせいかどうかはわかっていません。初演は、5歳年下のフランティシェク・オンドジーチェクが行いました。


■ フランティシェク・オンドジーチェク(1857年4月29日 - 1922年4月12日):チェコの ヴァイオリニスト、作曲家。ヴァイオリニストで指揮者のヤン・オンドリーチェクの息子としてプラハに生まれました。プラハ音楽院でアントニーン・ベネヴィッツに師事し、1880年代後半にウィーンに定住し、そこで教鞭をとっています。1883年にドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲をプラハで初演し、さらにウィーン、ロンドンにおける各地初演でも独奏を務めています。その功績が認められて1891年にロンドン・フィルハーモニック協会の名誉会員に選ばれています。第1次世界大戦後にプラハに戻り、プラハ音楽院でヴァイオリンのマスタークラスを主宰しました。ヴァイオリンとピアノのためのボヘミアン舞曲集、ヴァイオリンとピアノのためのボヘミアン・ラプソディ、弦楽四重奏曲などの作品のほか、モーツァルトやブラームスのヴァイオリン協奏曲を含むいくつかのヴァイオリン協奏曲のカデンツァも残しています。弟のカレル・オンドジーチェクもヴォイオリン奏者でした。


■ カレル・オンドジーチェク(1863年1月1日 - 1943年3月30日):フランティシェク・オンドジーチェクの弟でヴァイオリニスト。1887年から1893年までプラハ国立劇場のコンサートマスターを務めています。 その後1893年にアメリカに渡り、シカゴ万国博覧会で演奏し、ボストンのミュージックホールで交響楽団のコンサートマスターになっています。ドヴォルザークが渡米したのは1892年ですから、同時期にチェコ人音楽家としてアメリカにいたことになります。自作の協奏曲を初演してくれたヴァイオリニスト、フランティシェクの弟ですからなんらかの接触があってもおかしくないのですが、その記録はまだ見つかっていません。


■ フランティシェク・アロイス・ドルドラ(1868年11月28日 - 1944年9月3日):プラハの南東140kmにあるジュダール・ナト・サーザヴォウで生まれたヴァイオリニスト、作曲家。プラハ音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、後にウィーン音楽院に進み、ヴァイオリンはヨーゼフ・ヘルメスベルガー・ジュニア、音楽理論はアントン・ブルックナー、作曲はフランツ・クレンの各氏に師事しています。ウィーン宮廷歌劇場のオーケストラでヴァイオリンを演奏したのち、1894年から1899年まではアン・デア・ウィーン劇場の監督兼コンサートマスターを務めています。ヨーロッパ全土(1899年 - 1905年)及びアメリカ(1923年 - 1925年)でツアーを行なっています。ウィーン音楽院で習った師たちの影響は全く見られず、ボヘミアやハンガリーのメロディーをミックスしたヴァイオリン小品を多数残しています。ヴァイオリンとピアノのための『思い出』(1904年)は往年のヴァイリニストたちがよく演奏していましたが、最近ではあまり聴く機会がないような気がします。


■ ヤン・クーベリック(1880年7月5日 - 1940年12月5日):現在はプラハ市の一部となっているミフレの出身のヴァイオリニスト、作曲家。父親は、アマチュアのヴァイオリニストでした。プラハ音楽院でオタカル・シェフチークに師事しています。その後ソリストとして演奏旅行に出かけ、ウィーンとロンドンで大成功を収めています。1901年にはアメリカでツアーを行ない、次いでロンドンのロイヤル・フィルハーモニー協会に初出演して協会の金メダルを受賞しています。1715年製のストラディヴァリウス・エンペラーを使用していました。指揮者のラファエル・クーベリックはヤンの息子になります。ヤン・クーベリックはレコード録音を多数遺していまして、その多くをYouTubeで聴くことができます。


■ ヤロスラフ・コチアン(1883年2月22日 – 1950年3月8日):プラハの西160Kmにあるウースチー=ナド・オルリーチーに生まれたヴァイオリニスト、作曲家、音楽教師。父のユリウス・コチアンもヴァイオリニストで、前掲のヴァイオリニスト、オタカル・シェフチークと同級生でした。1893年コチアンはプラハ音楽院の入学試験を受けて合格はしたものの、健康状態が悪く身長が低かったため入学は認められなかったとされています。1897年になってようやくオタカル・シェフチークのクラスに受け入れられ、ヤン・クーベリックと共にシェフチーク門下生の代表格となっています。また、ドヴォルザークにピアノと作曲で師事もしています。ヨハン・セバスチャン・バッハのヴァイオリン作品の解釈者として高く評価されていました。1902年、音楽院の同級生でピアニストのフランチシェク・スピンドラーとともに初の米国演奏旅行を行ったのですが、2人とも驚異的な記憶力の持ち主で、5か月間のその演奏旅行に楽譜を一切持参せずに58回もの演奏会を行ったとされています。長年プラハ音楽院で教鞭を執り、ヨセフ・スークらを教えています。1972年に設立されたチェコの弦楽四重奏団であるコチアン四重奏団の名称はこのヤロスラフ・コチアンの名にちなんでいます。


■ ヴァーシャ・プリホダ(1900年8月22日 - 1960年7月26日):南ボヘミア地方ヴォドニャニで生まれヴァイオリニスト、作曲家。父のアロイス・プリホダから教えを受けた後、オタカル・シェフチークの弟子のヤン・マラークに師事しました。13歳でモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番を演奏して初の公開演奏会を行っています。ミラノのカフェでヴァイオリン演奏のアルバイトをしていた時、その聴衆の中にいた指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニに「パガニーニですらこの青年のようには弾けなかっただろう。」と絶賛され、パガニーニの没後ジェノヴァ市に寄贈されていたグァルネリ・デル・ジェス『イル・カノーネ(大砲)』を貸与されています(現在はイタリアの女流ヴァイオリニスト、フランチェスカ・デゴに貸与され、CD録音もされています。)。その後、ヨーロッパ各地からコンサート出演の依頼が殺到するなど世界的名声を得るようになりました。プリホダは1930年にマーラーの姪でヴァイオリニストのアルマ・ロゼと結婚しましたが、5年後には離婚しています。戦後はウィーン音楽院のヴァイオリン教師の職を得ましたが、戦時中にナチス占領下で演奏をしていたためその協力者とされ母国への入国を拒否されたり罰金を科されたりしたためトルコ国籍を取得しています。驚異的なテクニックでパガニーニの傑作を楽々演奏ができたとされ、また数多くの協奏曲のカデンツァを作曲しています。YouTubeでドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲イ短調などの録音を聴くことができます。また、映画に出演した際の演奏姿も観ることができます。


■ ゲルハルト・タシュナー(1922年5月25日 - 1976年7月21日):チェコのクルノフ出身の西ドイツのヴァイオリニスト。祖父に師事した後 、わずか7歳でプラハでのデビューでモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番を演奏しています。ブダペストでイェネー・フバイに、ウィーンではブロニスワフ・フーベルマンとアドルフ・バクに師事。10歳の時、フェリックス・ワインガルトナーが指揮するウィーン交響楽団と一晩で協奏曲を3曲演奏するなど天才ぶりを発揮しています。17歳までに米国とドイツでツアーを行い、その後ブルノ市立劇場のコンサートマスターとなっています。 1941年まだ19歳だったタシュナーは、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに抜擢され、さらにはドイツの作曲家ヴォルフガング・フォルトナーからはヴァイオリン協奏曲を献呈されそのライヴ録音も遺しています。しかし録音嫌いのためその実力や名声に比して商業録音は極めて少なく、引退も早かったため、彼の名はしばらく忘れられていました。しかし、現在では YouTube に多数その演奏がアップされています。1940年代後半、リハーサル中に指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンと音楽の解釈に関するいくつかの問題で合意できなかったコンサートマスターのタシュナーはその場から怒って出て行き、コンサートの演奏を拒否し、2人が再び共演することはなかったという逸話が残っています。


■ ヨゼフ・スーク(1929年8月8日 - 2011年7月7日):プラハ生まれのヴァイオリニスト、ヴィオラ奏者、室内楽奏者、指揮者。作曲家でヴァイオリニストのヨゼフ・スークの孫、つまりドヴォルザークの曾孫にあたります。プラハ音楽院に入学してヤロスラフ・コチアン、ノルベルト・クバート、カレル・シュネベリの各氏に師事しています。特にヤロスラフ・コチアンからは、スークが7歳のときから個人指導を受けていました。卒業後は、プラハ四重奏団の第1ヴァイオリン奏者として音楽活動を開始し、その後もチェロのヨゼフ・フッフロ、ピアノのヤン・パネンカと「スーク・トリオ」を結成するなど、室内楽において活動を盛んに行う一方、ソリストとしても1959年から世界ツアーを行なっています。数多くの協奏曲の他、スメタナ弦楽四重奏団と共演したモーツァルトの弦楽五重奏曲では第1ヴィオラを担当してレコードに録音を遺しています。


 



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