☆フランティシェク・シュクロウプ(1801年6月3日 - 1862年2月7日):プラハの東100 km
に位置するフラデツ・クラーロヴェー近郊のオシツェ出身の作曲家、指揮者、オルガン奏者。兄のヤン・ネポムク・シュクロウプも成功した作曲家であり、父のドミニク・シュクロウプともう一人の兄弟のイグナーツ・シュクロウプも無名でしたが作曲家でした。11歳のとき、プラハに移り聖歌隊員やフルート奏者として生計を立て、フラデツ・クラーロヴェーの文法学校に入学、聖霊大聖堂の音楽監督であるフランティシェク・フォルケルトから優れた音楽指導を受けています。偶然にも、ヨゼフ・カイエターン・ティル(チェコ近代演劇の確立者)、
カレル・ヤロミール・エルベン(チェコの国民的な詩人、民謡採集者)、ヨゼフ・ヤロスラフ・ラング(チェコ民族復興運動とチェコ文化の著名人)らと机を並べていました。1826年に書かれたジングシュピール『ドラテニーク』はチェコ人による最初のオペラとされています。翌年からプラハのエステート劇場(別称スタヴォフスケー劇場、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を初演した劇場で知られています)の指揮者を務め、リヒャルト・ワーグナーなど数多くの作品のチェコ初演を指揮しています。しかし、30年間働いたこの職は1857年に政治的な圧力と当時の劇場監督シュトーグルとの意見の不一致により解雇されてしまいます。その後オランダからの依頼を受け入れてロッテルダムのドイツオペラの指揮者となっています。オランダにおけるオペラの基礎を築きましたが、健康を害し貧困のうちにロッテルダムで没しています。オペラをはじめ、チェコの歌曲や合唱曲、教会音楽など作曲しています。現在のチェコ国歌『我が家何処や
Kde domov můj
』の旋律の一部の作者としても名を残しています。その曲は、同門だったティルが書いた戯曲『ヴァイオリン弾き あるいは怒りも戦いもなし』に、1834年にシュクロウプが作曲した劇付随音楽の中の1曲です。ドヴォルザークは序曲『わが家』の中でこの旋律を使用しています。
☆チャールズ・ルドルフ・フリムル(1879年12月7日 -
1972年11月12日):プラハに生まれた作曲家、ピアニスト。幼少期から音楽の才能を現したフリムルは1895年にプラハ音楽院に入学、ドヴォルザークの下でピアノと作曲を学びます。しかし許可なくコンサートに出演したということで音楽院を追放され、ヴァイオリニストのヤン・クーベリックの伴奏者となり、クーベリックと共に2度の米国演奏旅行に赴き、1906年には米国に永住することになりました。1912年、ヴィクター・ハーバートの後任として劇場の作曲家として雇われ、ブロードウェイの新作オペレッタ『蛍』で成功を収めます。その後、『ローズマリー』(1924年)、『放浪王』(1925年)などでヒットを飛ばし、いづれも映画されました。また、コンサートでもピアノの即興演奏などで人気を博しました。その際、師への特別なトリビュートとして、ドヴォルザークの『ユーモレスク』を度々演奏したとされています。オペレッタ、ミュージカルの作曲において、ヴィクター・ハーバートとエーリヒ・コルンゴルトの中間に位置する作曲家となりますが、知名度はあまり高くはないようです。JR蒲田駅の発車メロディーにも使われている『蒲田行進曲』は、フリムルの『放浪王』の劇中で歌われる曲のひとつである『放浪者の歌
Song of the Vagabonds』を原曲としています。