ドヴォルザークの深謀遠慮

第8章 ドヴォルザークとエルガー

 
                  Elgar 

エドワード・エルガー


 ドヴォルザークとエドワード・エルガー、この二人の作曲家に共通する事柄があります。それは、二人とも若い頃オーケストラで弦楽器を、ドヴォルザークはヴィオラ、エルガーはヴァイオリンを弾いていたということです。ドヴォルザークはプラハの国民劇場の仮設劇場でヴィオラを弾き、スメタナの歌劇などの演奏していました。一方、エルガーは1884年のウスターのスリー・クワイアーズ・フェスティバル・オーケストラでヴァイオリンを弾いていたとき、なんとドヴォルザークがその音楽祭にやってきて、自作の『スターバト・マーテル』をウスター大聖堂で、交響曲第6番を公会堂で指揮をしたのでした。その時、二人が実際に会話を交わしたと信じる証拠はないようですが、オーケストラのファースト・ヴァイオリンの第3プルトに座っていたエルガーは、後になって次のように友人のチャールズ・ベック博士に手紙を書いています。

 「ドヴォルザークの音楽は・・・ただただ魅力的です。曲調がとても良くて巧みで、オーケストレーションも素晴らしい。どんなに使っている楽器が少なくても、決して薄っぺらな音には聞こえません。うまく説明することはできませんが、この曲は聴かれなければなりません。」( “ Is Dvorák's day dawning? ” 19 June 2004 The Telegraph )

 この時のエルガーの見解がフィルハーモニック協会に伝えられ、ドヴォルザークに新しい交響曲、ニ短調(第7番)作曲を依頼したという説がありますが、27歳の無名のヴァイオリン奏者の意見がそんな影響力があったとは俄かに信じがたいところです。同じ1884年の3月に、ドヴォルザークはロンドン・フィルハーモニック協会の招きで初めてロンドンを訪れて、『スターバト・マーテル』や交響曲第6番を指揮して熱狂的な大歓迎を受けていますので、そのことが新作の依頼へと繋がったと考えるのが自然でしょう。ドヴォルザークがその依頼を受けたのが帰国後で、着手は同年の12月13日だったとされていますので、エルガーがオーケストラで弾いていたウスターに行ったのは(8月末から11月)ドヴォルザークにとって2回目の訪英であり、その時にはすでに第7番の交響曲の依頼は受けていたと考えるべきでしょう。 

 なお、二人が出会ったスリー・クワイア・フェルティバル(Three Choirs Festival)とは、毎年9月に3都市の大聖堂(ヘレフォード、グロスター、ウスター)の持ち回りで開催される300年以上続いている英国の音楽祭で、もともとは各大聖堂の聖歌隊による教会音楽が演奏されていましたが、次第に様々な曲も取り上げるようになっていきました。現在は7月の終わりに開催されています。エルガーはドヴォルザークと出会ってから15年後に傑作『エニグマ変奏曲』、さらに8年後に最初の交響曲第1番を書いています。さすがにこの長い年月の経過にあっては、そこにドヴォルザークの交響曲第6番の影響を見つけることは困難だと思われます。ちなみにヴァイオリンの名作『愛の挨拶』が作曲されたのはその4年後の1888年でした。

 ドヴォルザークとの接点はもうひとつあります。エルガーの合唱曲の傑作『ゲロンティアスの夢』は1900年のバーミンガム音楽祭のために作曲されたのですが、実はその15年前の1885年にバーミンガム音楽祭はドヴォルザークに作曲を依頼していたのでした。どのような理由かはわかっていませんが、ドヴォルザークはその依頼を断わり、その代わりに『レクイエム』を作曲し、1891年10月9日にバーミンガム音楽祭において自ら指揮して初演しています。もしドヴォルザークが『ゲロンティアスの夢』を作曲していたらエルガーの出番はなかったことになります。



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