モーツァルト:歌劇『魔笛』

第4章 『魔笛』のルーツ 2 〜『ツァイーデ』と『後宮からの誘拐』

 
                    Mozart

『ツァイーデ』
 『魔笛』の素材をモーツァルトの作品から探す場合、1779年〜80年にかけてモーツァルトが作曲に取り掛かった未完のジングシュピール『ツァイーデ』K.344 の存在も忘れてはなりません。この作品の台本はヨハン・アンドレアス・シャハトナーというザルツブルクの宮廷トランペット奏者が、フランツ・ヨーゼフ・セバスチアーニの作品を元に編集したものとされています。シャハトナー(Johann Andreas Schachtner 1731-1795)はモーツァルト家に出入りしていて、モーツァルトが幼児の頃の天才ぶりを記録していることでも知られています。
 
 しかし、1781年4月18日のモーツァルトの父宛ての手紙によると「シャハトナーのオペレッタは何も進んでいません。その理由は何度も書いた通りです。若い方のシュテファニー から新しい台本が来る予定で、それは良さそうです。・・・シャハトナーの台本はセリフの長さ以外に不満はなく、いい台本ですよ、・・・でもコメディを好むウィーンには向かないのです。」とあり、モーツァルト自身この台本から気持ちが離れつつあったことを示しています。或いは、モーツァルトがシャハトナーの台本をシュテファニー見せて書き直してもらったのかもしれません。この新しい台本とは同じトルコを舞台としたジングシュピール『後宮からの誘拐』 K.384 のことでその年の7月末には作曲を始めています。つまり、最初はシャハトナーの台本『ツァイーデ』に作曲しようとしたけれど、その台本を元に書かれたシュテファニーの作品の方がいいので『ツァイーデ』を放棄してそっちに乗り換えた、それが『後宮からの誘拐』だったという図式が考えられるのです。あくまで想像の域を出ませんが、作曲時期の連続性と、残された未完の『ツァイーデ』のストーリーが『後宮からの誘拐』とよく似ていることからするとありえない話しではないかもしれません。

 また、その前年の11月29日に皇帝ヨーゼフ2世との共同統治者であった女帝マリア・テレジアが崩御したことで国中が喪に服していて、そのあおりで劇場が閉鎖されていたことも『ツァイーデ』が未完のまま放置された理由のひとつとも考えられます。さらには、ザルツブルクの小規模な楽団に合わせて作るのがいやになったという説もあります。

 モーツァルトが『ツァイーデ』の作曲をしていた頃、シカネーダーがザルツブルクを訪れてモーツァルト家と深い関係を持っていたことから、モーツァルトはシカネーダーの一座のために作曲しようとしたという説があります。さらには同じくザルツブルクに滞在していたヨハン・ベーム劇団のために書いたという説もありますが、どちらも決め手はないようです。しかし、1778年11月にマンハイムを訪れたモーツァルトがそこで当時評判の高かったアーベル・ザイラー一座の劇音楽メロドラム、ゲオルク・ベンダ作曲の『メデア』を観たことが契機のひとつだったことが推定されています。そのメロドラムではレチタティーヴォではなくメロローゴという、普通の語り方で独白や対話が行われてその言葉と言葉の間にオーケストラが掛け合うかたちで感情や舞台の状況とその移ろいを表現する手法が取られています。翌年、モーツァルトがこのメロローゴを使って作曲したのがこの『ツァイーデ』で、2箇所で採用しています。しかし、モーツァルトがこのメロローゴは使ったのはこの作品が最初で最後でした。

 この作品が再び姿を現したのはモーツァルトの死後で、未完とはいえ2幕第15曲の四重唱までが管弦楽付で完成されているものの、題名も書かれていなく、序曲もありませんでした。『ツァイーデ』は正式なタイトルではなく、後世になって主人公の名前を題名としたもので、『後宮』が併記されることもあります。あらすじは下記の通りです。

 トルコの太守ソリマンの捕虜となった主人公ゴーマッツと同じく囚われて太守の侍女になっている高貴の出のツァイーデとが恋に落ち、奴隷のアラツィムの助けを借りて脱走します。しかし、太守の部下のオスミンに追跡されて連れ戻されます。3人が死刑を宣告されたときにアラツィムが15年前にスペイン艦隊の艦長として指揮していたときにトルコの民間の船が海賊に襲われているのを助けた話しをしたところ、太守ソリマンはその船に乗っていたのはまさにこの自分だと知って驚きアラツィムを解き放ちます。アラツィムは残る2人の命乞いをすると、太守ソリマンは最初は拒絶しながらも次第に悩んでいくという大詰めの四重唱で作曲は中断されています。

 第1幕第3曲、ゴーマッツが眠っているところにツァイーデがやってきて「自分と同じヨーロッパ人のようね」と語り、「おやすみ、いとしい人よ、安らかに」というアリアを歌い、眠っているゴーマッツの枕元に自分の絵姿を置きます。目覚めたゴーマッツはその絵姿を見てたちまち虜になるというシーンなのですが、『魔笛』ではタミーノがパミーナの絵姿を見て恋に落ちるというかたちでそっくり再現されています。

*『ツァイーデ』〜ツァイーデの「おやすみ、いとしい人よ、安らかに」 
           Aria Zaide "Rule sanft, mein holdes Leben"
https://www.youtube.com/watch?v=zptXYtud_GY

 ツァイーデ役を歌うモイツァ・エルトマンの名唱が聴けます。このアリアに続いて、眠りから覚めたゴーマッツが「絵姿」を見て歌うアリア 「運命がどんなに荒れても、この絵姿を盾にして防ごう」より、このツァイーデのアリアの方がタミーノのアリア「美しい絵姿」に雰囲気は似ています。しかし、この映像の演出は難解で、ゴーマッツの夢の中の様子を表わしていると考えるべきでしょうか。庶民向けのジングシュピールであるのに「絵姿」さえも出さずに台本を曲げてまで観客に考えさせる演出は勘弁してほしいものです。なお、このアリア「おやすみ、いとしい人よ、安らかに」はモーツァルトが作曲したオペラの中のソプラノのアリアとして十指に入る傑作のひとつです(筆者の個人的な意見ですが)。



『後宮からの誘拐』
 当時のウィーンでは、1776年に始まったヨーゼフ2世による「ドイツ国民劇場」構想によってドイツ語のオペラを作曲することが求められるようになっていました。1781年3月に旅先からウィーンへと移ったモーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コレドとの確執がついには解雇となってしまい(同年5月)、ザルツブルクには戻らず、ウィーンに定住することを決意します。ドイツ語のオペラで一旗揚げられるチャンスをものにすべく、当初はこの『ツァイーデ』を持って乗り込むつもりでした。しかし、上述の通りこのストーリーではウィーンの聴衆には受けそうにないと判断したモーツァルトは『ツァイーデ』を未完成のまま放棄し、同じトルコを舞台とした救出劇として、新たに『後宮からの誘拐』の作曲に取り掛かったのでした。

 『後宮からの誘拐』K.384 は、1782年7月16日ウィーンのブルク劇場で初演されました。初演からしばらくは(モーツァルトの手紙によると)「妨害」などがあって上演中に野次が飛び交う状況でしたが、次第に人気が高まっていき、「管楽アンサンブル用の編曲を急いで書かなければ他の人に横取りされる」と自ら手紙に書く程人気の演目になっていったと考えられます。ウィーンでは初演後6ケ月間に13回上演された記録があり、大ヒットとは言えないまでもそれなりの成功を収めたと言えるのかと思われます。

 それと言うのも、「ドイツ国民劇場」構想を掲げたものの、全体としてドイツ語によるオペラの出来、出演者たちの質とレベルの低下が目立ち始めた頃でもあり、イタリア語によるオペラの復活へと流れが変わろうとしていた時期でもあったのでした。モーツァルトにとってのドイツ語によるオペラはこの『後宮からの誘拐』で一時休止となり、それに代わって宮廷劇場付きの詩人ロレンツォ・ダ・ポンテという最良のパートナーを得ることにより、ダ・ポンテ三部作『フィガロの結婚』(1786年)、『ドン・ジョヴァンニ』(1787年)、『コジ・ファン・トゥッテ』(1790年)というイタリア語による不朽の名作群が生まれることになるのです。

 モーツァルトにしては珍しくこの曲の完成まで約10ケ月も要したとされていて、当時のジングシュピールの作品とは一線を画するところが数多く指摘されています。とりわけその総譜の豊かさ、オーケストレーションの妙、管楽器の独創的な使い方、「トルコ」を思わせる打楽器群の効果音などを駆使して登場人物の感情や性格、心の動きを細やかに音楽で表現していきます。モーツァルトが「オペラにあって詩は絶対に音楽の忠実な娘でなければならない・・・オペラでは音楽が全く支配して、そのためすべてを忘れさせるからです。」と父親宛に手紙(1781年10月13日)に記しているように、数々の台本の修正を要求しながら完成させていきました。こうした台本とのすり合わせこそ、良い作品を作り上げる秘訣であることもモーツァルトは体得していったのだと考えられます。

 この『後宮からの誘拐』が並みのジングシュピールでないことは明らかで、イタリア・オペラの復権が囁かれていた当時の空気を敏感に感じていたのか、モーツァルトは正統的なコロラトゥーラのアリアを導入させることでイタリア・オペラの華やかさを盛り込み、従僕と侍女のやりとりにオペラ・ブッファの香りを織り交ぜ、さらにはオスミンの人物像のなかに新たな生き生きとした喜劇的なバスの類型を創り出すことを実現したのでした。モーツァルトはまさに全く新しいドイツ語オペラを創出したと言っても過言ではないのです。

 『後宮からの誘拐』が『魔笛』に及ぼした影響は、何より『後宮からの誘拐』がドイツ語のセリフを活かしたジングシュピールの傑作であると同時に、9年後の再度のチャレンジで『魔笛』というさらなる傑作にたどり着くための軌跡を指し示したことに尽きます。ドイツ・オペラの歴史にとってはこの『後宮からの誘拐』を礎として『魔笛』で大きく飛躍し、ベートーヴェンの『フィデリオ』、ウェーバーの『魔弾の射手』、『オベロン』を経てワーグナー、リヒャルト・シュトラウスへと発展していくことになります。『後宮からの誘拐』のあらすじは下記の通りです。

 スペイン貴族の娘コンスタンツェは、その侍女のブロンデと従僕のペドリッロ共々航海中に海賊に襲われ、トルコの太守セリム・パシャに奴隷として売られてしまいます。コンスタンツェはセリムの後宮に軟禁され、セリムから求愛を受けますが、祖国に恋人を残している彼女はそれを頑なに拒んでいます。そこへ従僕ペドリッロから手紙を受け取った恋人ベルモンテが救出にやってきます。ベルモンテは後宮に侵入しようとして番人オスミンに見つかり追い返されますが、従僕のペドリッロには会えて3人を救出する計画を練ります。オスミンに眠り薬入りの酒を飲ませて眠らせたスキに4人は逃げ出そうとしますが、全員捕まってしまいます。4人はセリムのもとへ連れてこられ、そればかりかベルモンテの父親がセリムの仇敵であることも判明してさらなるセリムの怒りを買い絶体絶命となります。しかし、セリムはベルモンテとコンスタンツェの深く愛し合うさまを見て、「悪に対して悪ではなく、善を持って報いる」と言い、寛大にも全員を放免して故国に送り返します。

 この自分の敵を許す寛容な人物への賞賛を惜しまないという思想こそ、当時流行していた啓蒙思想であるというまさにこのオペラの依頼人である皇帝ヨーゼフU世が偉大な君主であることをこの作品は示していることになります。一面ではモーツァルトもそれによる見返りを期待して書いたと思われますが、この思想そのものは次なる彼のドイツ語のオペラ『魔笛』において、「何を求めてここへ?」という問われたタミーノに「愛と徳を!」と答えさせることになるのです。

 『ツァイーデ』と『後宮からの誘拐』で唯一共通する登場人物の名前がオスミンというのが興味深いところですが、この喜劇的な役どころを『後宮』で創出したところが傑作と言われる『後宮』に花を添えていると言えます。初演のときに当時ウィーンで活躍していたバス歌手ヨハン・イグナーツ・ルードヴィヒ・フィッシャーが歌っていて、モーツァルトは彼のために極めて低い音域のアリアを用意したとされています。この喜劇的な役は後の『魔笛』ではパパゲーノという新たな役が引き受けることになり、さらにリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』におけるオックス男爵へと繋がっていきます。
 

*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。

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