ドヴォルザークの深謀遠慮

第7章 ドヴォルザークと指揮者マーラー

 
                     Mahler

グスタフ・マーラー


 グスタフ・マーラーがプラハのギムナジウムに通ったのは1870〜72年、その頃プラハでは、8年前にオープンしたプラハ国民劇場の仮設劇場でスメタナが指揮をし、ドヴォルザークはそのオーケストラでヴィオラを弾いていました。さすがに音楽を学んではいなかった10歳のマーラーが彼らと接する機会はなかったと考えられます。マーラーがプラハに来た翌年の1871年にはドヴォルザークはその職を辞しています。

 その後、25歳のマーラーは1885〜86年に再度プラハにやってきて、王立ドイツ領劇場の第3指揮者として1シーズン73公演を指揮しています。その名の通り、主にドイツ・オーストリアのオペラを演奏する歌劇場ということで、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、ベートーヴェンの『フィデリオ』やワーグナーの作品を振り、モーツァルトの交響曲第40番、ベートーヴェンの交響曲第9番やブルックナーの交響曲第3番なども演奏しています。国民劇場とはライバル関係にあった劇場にいたことから、チェコの作曲家の作品に触れることはなく、ドヴォルザークの存在を知ったとしても接触したという資料はないようです。この時、スメタナは既に死亡していて、ドヴォルザークはロンドンに招かれるなど国際的にその名を轟かせ始めていた頃になります。

 マーラーはチェコの音楽に興味がなかったわけではなかったようで、プラハの後、ブダペスト、ハンブルクの歌劇場と渡り歩く間、ハンブルクではスメタナの代表作である歌劇『売られた花嫁』を37回も指揮した記録が残っています(1891〜1897年)。マーラーはよほどこの作品を気に入っていたのか、自作の交響曲第1番の第4楽章に『売られた花嫁』の序曲の引用を組み込んだという指摘があります(再現部の直前519小節:ドナルド・ミッチェル著 "Mahler and Smetana"(1997) ステファン・E・ヘフリング編 “Mahler Studies” Cambridge University Press)。なお、この箇所は初版にはなく、ハンブルク時代の1893年以降の改定の時に加えられたと考えられますので、『売られた花嫁』を頻繁に指揮していた時期と符号することになります。
*マーラー:交響曲第1番第4楽章:静寂の中でヴィオラが突如攻撃的な動機を弾くところです。


 さらに指揮者としてのキャリアの高めていったマーラーは1897年からウィーン宮廷歌劇場の芸術監督(代理)となり、早速、スメタナの歌劇『売られた花嫁』のウィーン初演を行ない、次のシーズンで総監督に就任すると同じくスメタナの歌劇『ダリボル』のウィーン初演も行なっています。『ダリボル』はチェコ民族独立運動の象徴とされ、ウィーンの体制側にとって警戒すべき作品のはずで、そんな危険な作品をボヘミアのイーグラウ出身の指揮者が演奏するという危うい状況であったのですが、マーラーには政治的な関心は全くなかったようで、上演に対しても何の意図を持っていなかったとされています。なお、ちょうどこの頃のプラハは政治的に大荒れとなっていて、公用でのチェコ語の使用を認めたバデニー首相が解任されたことからチェコ人は大暴動を起こし、プラハ市内には戒厳令が発布されています。芸術の都ウィーンでは対岸の火と見ているだけで何の影響もなかったのでしょうか。一方、ドヴォルザークはこの頃までにオペラ作品を8つ書いていますが、それらの国外での評価はまだ得ていなかったことから、マーラーの目には止まらなかったものと考えられます。

 マーラーは翌1898年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団デビューを果たします。その3日目の公演(12月4日)で、マーラーは初めてドヴォルザークの作品、交響詩『英雄の歌』を取り上げ、なんとその曲の世界初演を行なったのでした。この作品は1897年10月に完成されたのに、1年以上もたった1898年12月にようやく初演された理由は何故なのか、1896年に創設されたばかりのチェコ・フィルハーモニー管弦楽団で演奏されずに何故ウィーンのしかもマーラーの指揮だったのかはまだ調べきれていません。ドヴォルザークをかねてより支援していた、当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者ハンス・リヒターがその曲の初演をする計画を建てていたのかもしれません。ところが、マーラーの登場でリヒターは1898年の9月に辞任を余儀なくされたため、その初演がそのままマーラーに引き継がれたと考えられなくはありません。

 また、その頃のドヴォルザークは米国から帰国してプラハ音楽院での指導を再開していて、1895年にウィーン楽友協会がドヴォルザークを名誉会員に推挙したり、翌年にはブラームスがドヴォルザークにウィーン音楽院の教授就任の要請をしたりしていますので、ウィーン・フィルハーモニーとしてはドヴォルザークの新作を初演したいと打診をしていた可能性はあります。英国ではケンブリッジ大学より名誉音楽博士号を授与され(1891年)、米国では『新世界交響曲』が初演(1893年)されるなど大評判となっていたドヴォルザークですから、ウィーンも遅れてはならじと策を講じていたのかもしれません。あくまで想像ですが。なお、この『英雄の歌』の初演に先立ってマーラーはドヴォルザークに手紙を出してします。「ちょうど貴方の2番目の作品である『英雄の歌』を受け取ったところで、『野ばと』と同じく、とても魅了されています」と。何故「2番目」と書いているのかはよくわかりません。まさか、この2曲より前にも作品があることを知らなかった、なんてことはないと思いますが。

 マーラーは『英雄の歌』をウィーン・フィルハーモニーで指揮した翌1899年には交響詩『野ばと』(12月3日)、1901年にはセレナーデを取り上げ(2月24日)、1908年にはニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して『スケルツォ・カプリチオーソ』、序曲『自然の中で』、序曲『謝肉祭』を演奏しています。しかし、ドヴォルザークの交響曲は生涯1曲も指揮していません。ドヴォルザークの最後の交響曲第9番『新世界より』は、既に1893年にニューヨークにおいてアントン・ザイドルの指揮で初演されていますので、その存在をマーラーが知らなかったことはないと思われます。何故なのでしょうか。同じくスラヴ系の作曲家チャイコフスキーの交響曲は第5番(1回)、第6番『悲愴』(4回)、マンフレッド交響曲(2回)と数多く指揮しているだけに不思議でなりません。

 また、マーラーのプログラムを見ると興味深いことに、『英雄の歌』にはブラームスの交響曲第2番、『野ばと』にはブラームスの交響曲第3番、『謝肉祭』にはブラームスの交響曲第1番を組み合わせています。ブラームスの交響曲にはもれなくドヴォルザークの作品を付けるというマーラーの意図はどこにあったのか、ドヴォルザークの交響曲にブラームスの管弦楽曲を付けるという逆の発想はなかったのでしょうか。この時点でドヴォルザークはヒット作『新世界交響曲』を含む既に交響曲を9曲書き終えているのですが(マーラー生前に出版されていたのは5番以降の5曲)、マーラーはドヴォルザークを交響曲作曲家として見ていなかったのかもしれません。

 なお、ドヴォルザークはこのマーラーが指揮する交響詩『英雄の歌』の初演に立ち会うべくウィーンに出かけています。自分の作品が、尊敬するブラームスの交響曲と一緒にプログラミングされたことにどんな感慨を覚えたのでしょうか。『英雄の歌』はブラームスが死去した6ケ月後に完成されたことはあまり注目されていません。R.シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』が引き合いに出されることが多く、この曲も同様に作者の自叙伝的な作品と言われることが多いのですが、敬愛するブラームスへの哀悼の曲と見てもいいのではないのでしょうか。謙虚な人物と知られていたドヴォルザークが自らを英雄視して見せびらかすような作品を書くと思えないのですが。

 『英雄の歌』初演の3年後、マーラーはウィーンの宮廷歌劇場でドヴォルザーク10作目の歌劇『ルサルカ』の上演を模索しています。国外での自作オペラの上演は必ずしもうまくいってなかったドヴォルザークはこの計画を歓迎し、その年の9月にウィーンを訪れてマーラーにその楽譜を贈り、その後ふたりはオペラの上演条件について書簡を交わしています。それまで宮廷歌劇場の経営陣は長い間、ドヴォルザークからのやや過剰な金銭的な要求を拒否してきた経緯があったのですが、マーラーが芸術監督として交渉に介入することで、数カ月の交渉を経てその要求は受け入れられたとされています。しかしさまざまな理由から、宮廷歌劇場は繰り返し『ルサルカ』のウィーン初演を延期しています。マーラー自身、スコアを徹底的に精査することでこのオペラの成功は難しいと判断したのではないかと推測もされています。結局、マーラーはこの曲を指揮することなく1907年に宮廷歌劇場を辞任しています。そのためこのオペラのウィーンでの上演計画は頓挫となり、ドヴォルザークの生前にウィーンで演奏されることはありませんでした( Mahler Foundation )。

 最後にマーラーとそのお気に入りのスメタナの歌劇『売られた花嫁』の関わりについて補足します。マーラーはニューヨークのメトロポリタン歌劇場でこのオペラを7回指揮していますが(1909年2月19〜3月17日)、その際、遅れて来る観客のために序曲を第2幕の前に演奏したという記録があります。ニューヨークの観客にはどうしてもこの序曲を聴かせたかったことになります。なおその時は、ドイツ語訳で上演されていまして、現在メトロポリタン歌劇場ではこのオペラの上演はチェコ語でもドイツ語でもなく英語で行なわれているとのことです( METOPERA BATABASE )。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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