ドヴォルザークの深謀遠慮

第4章 交響曲第6番とブラームス

 
             Dovrak      Brahms

ドヴォルザークとブラームス


 この曲が初演された時、「際立ってチェコの特徴を持つ作品」、「モチーフのすべてが純粋にチェコのものである」といったこの作品を明らかにナショナリズム的な作品として描写される一方、ドイツ・オーストリアの交響曲の伝統に添った曲という指摘や、ブラームスとの類似性などの指摘もあります。エヴァ・ブレンダは次のように書いています。

 「マイケル・ベッカーマンは、『これはおそらくドヴォルザークの交響曲の中で最も伝統的なものであり、ウィーンの交響曲の伝統に敬意を表している』と書いています。実際、ドヴォルザークの交響曲第 6 番についての議論は、通常、ウィーンとのつながりに焦点が当てられています。ドヴォルザークは、1880/1881年のシーズン中にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するために特別にこの交響曲を作曲し、ウィーンの指揮者ハンス・リヒターに献呈し、出版社フリッツ・シムロックに提出する前に楽譜についてブラームスの意見を求めたということは驚くべきことではありません。この作品は最終的にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって拒否されましたが、ブラームスとベートーヴェンの交響曲への多くの言及が学者によって広範囲に分析されており、デイヴィッド・ブロドベックはこの作品をドヴォルザークが『異常なほど明瞭にドイツ語を話す』作品であるという表現で語りました。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )

 さらに、エヴァ・ブレンダは次のように書いています。

 「特にブラームスの交響曲第 2 番がドヴォルザークのモデルとなったという考えは、ここで繰り返する必要がないほど深く根付いています。( 中略 ) 最も近いメロディーの類似性は、オタカル・ショウレクによっても認められており、第4楽章の冒頭で聴くことができます。しかし、デヴィッド・ベヴァリッジとA・ピーター・ブラウンは、ドヴォルザークがこの交響曲でブラームスを導いているのは、主題の構築ではなく、特にソナタ形式の組み立て方に関してであるという点で意見が一致しています。ドヴォルザークの初期の作品におけるソナタ形式と比べて、この交響曲では第1楽章の提示部の終わりにより明確な終結感を与えています。また同じ楽章の再現部の中では、第1主題は短縮された形で表われる一方、第2主題はフルスケールで再現されています。同様にこの交響曲においてはおそらくこのジャンルの初期のどの作品よりも、ドヴォルザークは楽章全体が有機的に構成されていることを強く感じさせるようと努めています。この目的を実現するために、ドヴォルザークは第4楽章の主要主題の中に第1楽章の冒頭主題を微かに示唆するものを埋め込んでいます。これらのテクニックのすべてはブラームスの交響曲第 2 番で聴くことができ、ドヴォルザークは 1880 年の夏、五線譜にペンを走らせる前に、ウィーンの同時代の先輩の作品に目を向けていたのではないかと学者たちは推測しています。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )

 一般的には、ドヴォルザークの第 1 楽章と第4楽章の冒頭のフレーズに、ブラームスの交響曲第2番のエコーが瞬間的に聴こえくるというのが定説になっています。しかし、ドヴォルザークは直ぐにはわからないよう巧みに音符を操作しているために、両者の音符を並べて具体的にどこが一致するかとか比較説明することはできていないようです。そのためかどうかはわかりませんが、音楽学者たちはさらに踏み込んで形式や曲の構造における類似点の探索までもしていることになります。次いで、エヴァ・ブレンダは次のように書いています

 「ドヴォルザークのこの交響曲において言及すべきは、ブラームスの交響曲第 2 番ではなく、交響曲第 1 番についてでしょう。ドヴォルザークのロンド形式の第 2 楽章に現れるテーマ(37小節以降)は、ブラームスの交響曲第1 番の終楽章へのゆっくりとした導入部に現れる有名なホルンのテーマ(30小節以降)によく似ています。  2 つのメロディーは輪郭が似ているだけでなく、突然の転調による中断によって始まっているのです。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )
*括弧内小節数は筆者による補足です。ドヴォルザーク第2楽章37-44小節間のファースト・ヴァイオリン及び41-42小節のホルンのフレーズを指します。

 ドヴォルザークは指揮者ハンス・リヒターの求めに応じてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のために作品を書いたこと、ブラームスの交響曲第2番はそのわずか3年前の1877年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されて大きな成功を収めていたことなどから、ドヴォルザークの交響曲第6番を語る時にブラームスのこの曲を参照したくなる気持ちはよくわかります。一方1870〜80 年代において、プラハの主要なオーケストラのコンサートでは、ブラームスの作品はではほとんど演奏されなかったとされていて、プラハの聴衆は両者を比べることはできなかったと考えられます。しかし、プラハの批評家たちはウィーンの楽壇で起きていることには敏感であったので、ブラームスがこれまでに書いた交響曲をよく知っていたと考えられます。しかし、彼らはこの交響曲とブラームスとの関わりには一切触れず、ひたすら「際立ってチェコの特徴を持つ作品」、「モチーフのすべてが純粋にチェコのものである」という評価を与えていたことは、とても興味深いところです。

 この交響曲におけるドイツ・オーストリアの伝統からの影響はブラームスひとりに限られてはいなかったようです。デイヴィッド・ブロドベックによれば、ドヴォルザークはウィーンの聴衆とその文化的価値観に応えるためにドイツの伝統を意図的に利用し、ドヴォルザークはこの姿勢を貫いてブラームスだけでなく、ベートーヴェンの作品をはじめウィーン舞曲までも参照したとしています。エヴァ・ブランダはこう述べています。

 「ヨーロッパのドイツ語圏の地域の評論家たちは、最初からドヴォルザークのニ長調交響曲とベートーヴェンの交響曲の間にいくつかの類似点があることを発見しました。1882年のグラーツでの初演について報じた中で、『ターゲスポスト』紙の批評家はこの交響曲の第1楽章では、ところどころにベートーヴェンの『エロイカ』交響曲の巨大な影が現れたかのようだった、この作品は一般的にベートーヴェンの意味での交響曲の作曲がまだ可能であるということを証明しているようだと報告していました。また『モルゲンポスト』紙でもベートーヴェンとの関連性を指摘し、( 中略 )動機の選択だけでなく構造もベートーヴェンを参考にしていると書いています。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )

 ベートーヴェンとの類似性について具体的にどの曲のどの箇所という詳細をまとめている資料はまだ見ていませんが、交響曲第9番『合唱付』の第3楽章とドヴォルザークの第2楽章(共に楽章の冒頭での木管の音型)、交響曲第3番『英雄』の第1楽章とドヴォルザークの第1楽章(段階的に同じフレーズを繰り返しながら下降するところ:102小節から等)、『コリオラン序曲』とドヴォルザークの第1楽章(上降する音階フレーズを段階的に上げながら盛り上がるところ:388小節から)などが挙げられます。

 しかしこうした指摘において、ドヴォルザークのドイツ・オーストリアへの伝統への接近を誰もが歓迎していたわけではなかったようです。エヴァ・ブレンダは続けます。

 「フランクフルトに本拠を置く新聞『シグナーレ』に寄稿している批評家は、ドヴォルザークの交響曲はベートーヴェンだけでなく、シューベルトやメンデルスゾーンをも思い出させるようだと指摘しました。同様にハンスリックは1883 年の評論でベートーヴェンとシューベルトの名前を言及しつつドヴォルザークの交響曲の中にある「偉大な巨匠」たちのある種の「孤立した響き」を聴き取っています。『シグナーレ』紙の批評家もハンスリックも、過去のドイツ・オーストリアの交響曲をあからさまに参照することはドヴォルザークの独創性を損なうものであると考えたのでした。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )

 このシューベルトやメンデルスゾーンの音楽との関連についても具体的な説明はなされていませんが、ドヴォルザークの交響曲第6番の第2楽章の104小節以降の音楽つくりと響きはシューベルトの『未完成交響曲』第1楽章の展開部の終結部(170小節以降)に通じるものがあります。また、ドヴォルザークの第4楽章の第2主題(70小節以降)は、メンデルスゾーンの交響曲第4番『イタリア』の第4楽章の主題を連想させるのですが、いかがでしょうか。

 ドヴォルザークが米国滞在中にニューヨークの雑誌『センチュリー・マガジン』(1894年)に寄稿したシューベルトに関する記事の中でこのように書いています。

 「シューベルトの交響曲についても、私は彼をベートーヴェンの隣、メンデルスゾーンのはるか上、そしてシューマンの上に置くことに躊躇しないほどの熱狂的なファンです。( 中略 )これら 2 つの交響曲(未完成交響曲とハ長調交響曲)はシューベルトの作品の中で群を抜いて最高です。( 中略 )第4番も素晴らしい作品です。( 中略 )アダージョには、トリスタンが吐露する苦悩を印象的に示唆する和音があります。」( Franz Schubert by Antonín Dvořák; ANTONIN-DVORAK.CZ )

 また、シューベルトの交響曲を何度も指揮したとも書いていて、寡黙で知られるドヴォルザークにしては珍しくシューベルトへの熱い想いを披露しています。本書とは関係ありませんが、この雑誌に書いたドヴォルザークの興味深い文章を3つご紹介します。

 「私の考えでは、宗教音楽の一番奥深いところにある精神を明らかにすることに最も成功した作曲家は 3 人で、ローマ・カトリック音楽を最高潮に導いたパレストリーナ、プロテスタントの精神を体現したバッハ、そして『タンホイザー』の巡礼の合唱や特に『パルジファル』の第 1 幕と第 3 幕において真の教会音楽の琴線に触れたワーグナーです。」

 「シューベルトの場合も交響曲が作曲されると長くなりすぎるという一般原則の例外ではありません。昨年の冬にブルックナーの第8交響曲がウィーンで演奏されたとき、フィルハーモニー協会はプログラムをこの交響曲1曲だけにせざるを得ませんでした。この(曲を演奏する)試みはどこでも繰り返されておらず、この交響曲がもっと短ければ世に出る可能性が高かったことは疑いの余地がありません。」
*「試み」と訳しましたが、英訳文では「experiment」となっていまして、正しくは「実験」と訳すべきかもしれません。原文のチェコ語ではどういうニュアンスで書かれていたのかはわかりませんが、ドヴォルザークがわざと「実験」と書いたとするとブルックナーの曲にはあまり好意を持っていなかったのかもしれません。ブルックナーの交響曲第8番の初演は1892年12月18日、ハンス・リヒターの指揮によるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会でした。自分の交響曲第6番が演奏してもらえなかったことへの腹いせなのでしょうか。なお、その初演に先立つ10月にドヴォルザークはニューヨークの地を踏んでいますので、その初演を聴いてはいないことになります。

 「(パリ)音楽院のコンサートで偉大な(シューベルトの)交響曲ハ長調を演奏しようとして失敗した、なんとリハーサル中に演奏家たちが反乱を起こしたのですが、それ以来40年間、音楽院のコンサートでシューベルトのオーケストラ作品を演奏するさらなる試みは行われなかったということが記録として残っている。」

 話しを元に戻しましょう。先にデイヴィッド・ブロドベックが「ウィーン舞曲までも参照した」ということについてです。前章で第1楽章の主題とチェコの民謡の類似点についてご紹介しましたが、この旋律は別の出典もありうると考えられています。デイヴィッド・ブロドベックは、「ドヴォルザークの主要主題は、ウィーン舞踏会の締めくくりとして伝統的に使われてきたいわゆるグロースファーター・タンツ(Großvatertanz:お祖父さんの踊り)を直接暗示しています」と書いています。もしこれが事実であれば、チェコの民謡引用説は崩れ、ドヴォルザークが特にウィーンの聴衆のために交響曲を書いたという考えを裏付けることになります( “Dvořák’s Reception in Liberal Vienna: Language Ordinances, National Property, and the Rhetoric of Deutschtum,” by David Brodbeck )。

 この「お祖父さんの踊り」は、17 世紀に起源を持つと考えられているドイツの伝統的なダンスまたは歌詞のついた民謡としても知られています。ロベルト・シューマンのピアノ曲『蝶々(パピヨン)』(作品2:1829-31年)の終曲でこの「お祖父さんの踊り」の旋律が用いられていて、さらに『謝肉祭』(作品9:1834-35年)の終曲でも Molt piu vivace になってから採用されています。両者とも曲の終わりに現われているので、ドイツ人には「宴の終わりを告げる曲」として馴染みのある旋律であったことがわかります。ドヴォルザークはこれらシューマンのピアノ曲から発想を得ていたという見方も可能になります。しかし、曲の冒頭に使っていることから「宴の終わりを告げる曲」という認識はドヴォルザークにはなかったのかもしれません。以下の YouTube では、『蝶々』と『謝肉祭』が譜面付きで聴けます。『謝肉祭』では1分8秒からこの旋律になります。

Schumann. Papillons Op. 2 nº 12. Finale. Partitura e Interpretación

Schumann - Carnaval Op.9, No. 20 "Marche des “Davidsbündler” contre les Philistins"


 また、これは偶然だとは思いますが、このテーマをチャイコフスキーがバレエ音楽『くるみ割り人形』の第1幕で採用しています。このバレエ曲は1892年初演ですから、ドヴォルザークの交響曲第6番初演の11年後で、ドヴォルザークがサンクトペテルブルクでこの交響曲を指揮した1年後のことになります。しかし、チャイコフスキーはその時不在だったとされていますので、チャイコフスキーはドヴォルザークのこの交響曲を聴いていなかったことになります(ドイツなど他の地で聴いていたかもしれませんが)。その2年前にふたりはプラハで会って親交を深めていて(1888年2月と11月)、お互いにスコアを交換したとされていますが、それが何の曲だったかは不明ですし、シューマンの曲を聴いていたのかもしれませんし、或いはチャイコフスキーなりにドイツの民謡を独自に取り入れたと考えることもできるでしょう。以下のYouTube では19秒後からこの旋律が奏されます。

The Nutcracker Act I Scene 6 : Grandfather Waltz & Departure of Guests - The New York City Ballet


 チェコの民謡を取り入れたチェコらしさ満載の曲というプラハの批評家の意見と、ドイツ・オーストリアの交響曲の伝統に従っているとするドイツ語圏の批評に二分されていたこの交響曲第6番、はたしてドヴォルザークは困惑していたのでしょうか、それともにんまりしていたのでしょうか。地元プラハでもそしてウィーンでも成功したいというドヴォルザークの深謀遠慮がそこにはあったのでしょうか。

 20世紀にはいると、作曲家フィビフの弟子の一人で、カレル大学の音楽学の教授にして歴史家、後に文化大臣にも就任したズデニェク・ネイェドリーによるドヴォルザーク批判が起きます。国民音楽は詩や歴史とともにあるべきで、標題音楽こそが国民音楽であって、ドヴォルザークの絶対音楽としての交響曲はこれに値しない、という内容のものでした。こうした批判にドヴォルザーク研究の第一人者であったオタカル・ショウレクが激しく反発し、ドヴォルザークの交響曲は「抽象的な標題音楽」であると主張し、彼こそチェコの伝統音楽を継承するものだと称賛して両者の間で論争が起こりました。

 この論争を経て、近年の研究家であるデヴィッド・ベヴァリッジ(ドヴォルザーク研究を中心としたチェコ在住のアメリカの音楽学者)は、「1880年、交響曲第6番の作曲で、ドヴォルザークはついに民族主義的でロマン主義的な傾向と古典的な形式の要求との間の最適なバランスを体現できた。」と述べています。マイケル・ベッカーマン(チェコと東ヨーロッパの音楽を専門とするアメリカの音楽学者)は、第 6 番がドヴォルザークの交響曲の中で「最も絶対的な」ものであると考え、つまり、「ドヴォルザークの後期の交響曲の中で、その背後にプログラムが潜んでいる可能性が最も低い」作品としています。( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )

 視点を少し変えて、「交響曲」というジャンルがヨーロッパの音楽界でどのように認識をされていたかということから、ドヴォルザークのこの曲がどのように受け取られたかを見てみましょう。当時は、交響曲がドイツ・オーストリア音楽の独自のジャンルであると一般的に考えられていました。この概念は、早くも 1824 年の批評家アドルフ・ベルンハルト ・マルクスの著作の中に明らかにされていて、彼は次のように主張しています。「たとえばフランスやイタリアなど、より軽薄な国々は、(交響曲の)ジャンル全体で実質的なものを生み出したことはありません。その交響曲のジャンルを彼らは決して理解できず、好きになることもできませんでした。したがって、彼らは交響曲を身近なものをするドイツ人に何より大きく遅れをとっているのです。」 ( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )
*アドルフ・ベルンハルト ・マルクス (1795 〜 1866 年)はドイツの作曲家・音楽理論家・音楽評論家。フランス・イタリアを「軽薄」とは随分な言い方ですね。マルクスは「交響曲」を「実質的にドイツ人の独占的所有物」とも称しています。

 一方チェコでは交響曲は交響詩に先を越され、その有用性は終わっているという認識があったようです。事実、ドヴォルザークが交響曲を作曲し始めた頃、チェコの作曲家たちの多くは交響曲には無関心だったことは明らかで、スメタナでさえも、祝典交響曲(作品6:1853-54年)1曲しか作曲していません。しかもそれは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の成婚を祝したもので当時のオーストリア国歌を取り入れるなど、かなりオーストリア寄りの作品で、決して「絶対的な」作品とは言えないものでした。

 また、1888 年から 1909 年にかけて出版されたオットーの百科事典 (Ottův Slovník Naučný) は、チェコ国内で最も権威のある百科事典であったとされているのですが、なんとその「交響曲」の項目にドヴォルザークの名前が載っていなかったそうです。この百科事典が刊行されていた時期はというと、ちょうどドヴォルザークの交響曲が国際舞台で盛んに取り上げられていた時期と重なっています。何故無視されたのでしょうか。これについてエヴァ・ブランダは、「ドヴォルザークを除外したことは、作曲家の功績を軽視しようとする策略ではなく、交響曲をチェコ人にとってなんとなく馴染みのないジャンルとして区分した結果と解釈すべきでしょう。」と述べています。さらに、それは「おそらくチェコ人自身がしっかりと確立された独自の交響曲の伝統を持っていなかったから」とし、

 「18 世紀に交響曲を書いたチェコ出身の作曲家は、主にチェコ人としてではなくドイツ人やオーストリア人として作曲しました。このジャンルへの著名な貢献者には、フランツ・ザビエル・リヒター (1709 年 - 1789 年)、ヨハン・シュターミッツ (1717 年 - 1757 年)、ヨハン・ヴァンハル (1739 年 - 1813 年) がおり、彼らは全員、ドイツ語圏のヨーロッパでキャリアを築きました。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )
*チェコ出身の作曲家については、本書の『付録』で、ある程度まとめていますのでご参照ください。


 近年あまり人気のない交響曲第6番ではありますが、初演当初は民族間の抗争に関わったり、民謡の出所を調べられたりもしました。そればかりか、ウィーンの音楽界からは大御所ブラームスを引き合いに出してドイツ・オーストリアの交響曲の伝統を継承する作品と賞賛されたり、一方自国からはいやいやチェコを代表する国民的な作品だと持ち上げられたりもしました。まさにウィーンとプラハ両陣営においてドヴォルザークの引っ張り合いをしているかのようです。こんな交響曲は他にあったでしょうか。

 これは想像というより妄想ですが、実はドヴォルザークはこうした両陣営の目に止まるような要素を作品の随所に忍ばせることで、どちらに転んでもいいように、或いはあわよくば両陣営から評価される作品を作り、この両者による話題作りを通じて全世界へとこの曲を発信しようと考えたのではないでしょうか。ドヴォルザーク自身、この曲については固く口を閉ざしたままだったということからも、こうした企みがあってもおかしくはないのかもしれません。当の本人は静かに自分を見つめつつ、次なる飛躍を遂げる準備に余念がなかったのでしょう。ドヴォルザークが何をどう考えていたかはともかく、この曲の初演から3年後にはロンドンへ、10年後にはニューヨークへと旅立ち、さらなる傑作を生み出していったということはまぎれもない事実なのです。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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