ドヴォルザークの深謀遠慮

第3章 交響曲第6番とチェコの民謡

 
              czech  

 

 ドヴォルザークの研究家オタカル・ショウレクは「この交響曲には、チェコ民族の喜び、ユーモア、そして情熱が込められている」(クルト・ホノルカ著『大作曲家 ドヴォルザーク』)と述べているように、交響曲全体の雰囲気は暖かく穏やかで、作曲家の最も特徴的な姿を表しています。さらにチェコの民俗音楽からのインスピレーションや激しい民族舞曲であるフリアントの採用により、この作曲家のいわゆるスラヴ時代と呼ばれる時期の主要な代表曲と考えられています。この交響曲には「チェコ」というあだ名が付けられることもあり、またモラヴィア生まれの指揮者ヴァーツラフ・ターリヒ(1961年没)はこの交響曲を好んで「クリスマス」交響曲と呼んでいて、これはおそらく緩徐楽章の抒情性に言及したものと推測されます( ANTONIN-DVORAK.CZ )。

 この交響曲は1881 年 3 月 25 日にプラハの「オール・スラヴ・コンサート」で初演されたとき、音楽雑誌ダリボル(4月10日付)で「際立ってチェコの特徴を持つ作品」であり、「モチーフのすべてが純粋にチェコのものである」という評と共に「チェコの春の交響曲」と名付けられました。( 中略 )そのコンサートでチェコの作曲家ズデニェク・フィビフの交響詩『春(ヴェスナ)』が一緒に演奏されていて、時期も春だったことから、この曲に対しても自然とそう名付けられたのかもしれません。交響詩は文学的、絵画的な内容と結びついている標題音楽で、特にチェコ人の間ではこの交響曲第6番の初演に先立つ数年間(1874〜79年)にかけて作曲されたスメタナの交響詩『我が祖国』はよく知られていました。そのため絶対音楽である交響曲に対しても、副題を付けてチェコに関する何らかの物語を与えることによって、自分たち、チェコの音楽になると当時の批評家たちは考えていたとされています。この曲の楽譜にはそのような音楽外のアイデアが示唆されていないにもかかわらず、この交響曲に関する当時の記事の中には春のイメージについて頻繁に言及されています( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )。

 現在ではほとんどこうした呼び名は使われていませんが、交響曲の主要テーマの一部がボヘミアの民謡から派生したものであることを示す取り組みは、初演の時から20 世紀になっても続いたと、上記のエヴァ・ブランダは以下のような表にまとめています(楽章に分けて日本語訳を追加してあります。)。この表は、ドヴォルザークの第1楽章第1主題の旋律に似た民謡を3種類、第3楽章の主題に似た民謡を2種類探し出したということを示しています。



第1楽章
No. チェコの民謡 日本語訳  出典
1 Já mám koně 俺は馬を飼っている アントニン・シクラ
2 Ševcovská シェヴツォヴスカー アントニン・シクラ
3 Když jsem k vám hodíval あなたの家まで歩いたとき アントニン・シクラ

*シェヴツォヴスカー:チェコの地名。現在のチェコとスロバキアの国境に近い地方。プラハの南東290Km、ウィーンの北東160Kmに位置します。
*アントニン・シクラ:1918〜69年、チェコの音楽学者、ドヴォルザークの最後の 4 つの交響曲に焦点を当てて民謡からのインスピレーションの兆候を探ろうとしました( Estetika Dvořákovy Symfonické Tvorby by Antonín Sychra 1959 )。


第3楽章
No. チェコの民謡 日本語訳  出典
4 Vosy, vosy, vosy, sršani スズメバチ、スズメバチ、・・・ ミラン・クナ
5 Sedlák, sedlák, sedlák 百姓、百姓、百姓 ミラン・クナ

*ミラン・クナ:1932年生まれのチェコの音楽学者、『ドヴォルザーク書簡集』Antonín Dvořák: Korespondence a Dokumenty by Milan Kuna 全10巻編集者のひとり。
*チェコ語では Vosy も sršani も「スズメバチ」の訳になるようです。


 まずは、第1楽章の第1主題、内藤久子氏はその著書『チェコ音楽の歴史 - 民族の音の表徴』の中で次のように述べています。

 「第1楽章の主要主題が(4分の3拍子, D-dur)が、ある特定の民謡との強い関係、つまり民謡の歌詞の抑揚を、そこに認めることができるという点である。というのもこの曲の初草稿(4分の3拍子, D-moll)の中で鳴り響く旋律が、ボヘミア民謡『俺は馬を飼っている Já mán komě 』の中の「馬に燕麦(オーツ麦)をやる時 Když já jím dám ovsa 」(ERBEN No.179)の歌詞の抑揚に実によく似ている為である。」

 アントニン・シクラが探し出した3つの民謡の例を以下に掲げます。いずれの音符もWebサイト『チェコの民俗音楽の源流〜ボヘミア、モラヴィア、シレジアの音楽民間伝承』から入手したもので、出典はカレル・ヤロミール・エルベン(1811〜1870年、ボヘミアの民俗学者。数多くのボヘミアの民謡や童謡、民間伝承などを採集して出版。)とジョセフ・ヴィツパーレク(1847〜1922年ボヘミアの教育者、民謡と舞踊の採集を行なった。)となっています。なお、2、3番目はたぶんこれだろうと筆者が選んだ譜面です。


         EN-0179
                    1. Já mám koně vraný koně, to jsou koně mý [EN-0179]


         VI-0011
   2. Tancovaly dvě panenky, tancovaly ševce, jedna druhý povídaly [Vycp.ČT VI-0001]


           EN-0282
              3. Když jsem k vám chodíval, pes na mě vrčel [EN-0282]


           Dvo6-mov1

Dvo6-1-1

 つまり、ドヴォルザークは最初にこれら馴染みの民謡の一節を音符に書きとめ、それを自分なりに変形発展させて第1楽章の主題としてかたちを作り上げて行ったということになります。ドヴォルザークを誇るべきチェコの作曲家としたいチェコの批評家としてしては確かに受け入れやすい解釈と言えますし、ドヴォルザークとしてもこれまでの民謡をそのまま使わないというスタイルからも外れてはいないと考えることができます。

 次は交響曲第6番の第3楽章の主題と民謡との類似についてです。同じく内藤久子氏はこう書いています。

 「この曲は、とくに第3楽章(スケルツォ楽章)で火のように激しい農民の踊りフリアントが初めて交響曲に取り入れられた作品と知られているもので、作曲者自身の手によってフリアントという言葉が楽譜に書かれている。( 中略 )民衆の陽気さと歓喜に満ちた感情を表現している。つまりこの楽章では、主要主題そのものがボヘミア民謡の性格を強く帯び、さらに表現内容も一貫してチェコ民衆の陽気でしかも表現豊かな感情を鼓舞するものである。具体的には主題旋律がボヘミア民謡『雀蜂 Vosy, Vosy 』( ERBEN No.735 )の歌にきわめてよく似たイントネーションを描くことが確認される。」( 内藤久子著『チェコ音楽の歴史 - 民族の音の表徴』 )

 チェコの音楽学者ミラン・クナが指摘した民謡は2例です。

    EN735
             4. Vosy, vosy, vosy, sršáni vyletěli na mě [EN-0735] 
      *最初の2小節間は2つ続く8分音符の2つ目の音符を8休符にします。


   EN588
                   5. Sedlák, sedlák, sedlák, ještě jednou sedlák [ENH-0588]  


            Dvo6-mov3

 Sedlák は、現在でもよく歌われる民謡のようで、「百姓、百姓、百姓、もう一度、百姓、百姓、百姓、百姓は偉大な領主だ、腹と毛皮にはベルトを巻いている、トゥリ、トゥリ、トゥリ、トゥ、チューリップ」という歌詞がついています。2つの例は共にカール・エルベンが採集したもので(後者は筆者が選定)、3拍子の最初の2小節が2拍子のリズムになっているところが、ドヴォルザークの第3楽章の主題の作りと似ているということがわかります。ジョン・クラップハムによるとフリアントの古典的なモデルは、多くののチェコ人によく知られている民謡「セドラーク、セドラーク」であるとのことです。


フリアント
 
交響曲第6番はドヴォルザークの交響曲の中でスケルツォの代わりにFuriant(フリアント)楽章を明確に組み込んだ唯一の交響曲です。フリアントは定義上、規則的な 4 小節フレーズを伴う 3 拍子のテンポの速い舞曲となっていて、最も特徴的なのはヘミオラのリズムで、最初の2小節で基本ビートを一時的にずらしている、つまり3拍子の中に2拍子のビートが入っているという点にあります。


             Dvo6-mov3b


 後にドヴォルザークの2度目のイギリス旅行に同行することになるヴァーツラフ・ノボトニーはこの曲の初演の約2週間後に雑誌『ダリボル』に次のようにレビューを書いています(1881年4月10日)。「チェコの特徴が最も明白に表れているのは第3楽章の見事に練られたフリアントです。( 中略 )この曲は大勢の聴衆を一気に魅了し、興奮させ、雷鳴のような賞賛の嵐を呼び起こしました。そのためこの楽章は繰り返し演奏されなければなりませんでした。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )。

 この交響曲のプラハ初演からちょうど30年後、1911年に雑誌『ダリボル』に掲載された一連の逸話の中で、ノヴォトニーは、ドヴォルザークが友人のアロイス・ゲーブルと共にヴィソーカーで行われたミサに出席した後にこの「フリアント」楽章の着想を得たと書いています。ドヴォルザークが交響曲のスケルツォ楽章に苦戦していたところ、ゲーブルが巡礼の一環として町で行われている祝祭ミサに行こうとドヴォルザークを誘いました。

 「さあ」とゲーブルは促した。「そんなに長い間音楽に鼻を突っ込んでいてはだめだよ、作曲が思うように進まないなら、短い休憩をとるのがちょうどいいかもしれない。それに、巡礼はスケルツォの最高の素材となるかもしれないよ。」ついにドヴォルザークは折れて出かけました。( 中略 )ミサが終わって教会を出るとき、ドヴォルザークは「やっと手に入れたよ!」とゲーブルを振り返って笑顔でこう言いました。「いつものスケルツォの代わりに、チェコの国民的ダンスのフリアントを交響曲に入れるのだ。ダイナミックなリズムがあり、スケルツォにぴったりで、斬新な曲になるので覚えておいてくれたまえ!」 「ほーら、」ゲーブルは微笑みながら応えました。「ここでスケルツォの素材が見つかると言ったでしょ?」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )

 ドイツの音楽学者ヘルマン・クレッツシュマール(1848-1924)は、19世紀の分類における交響曲に関する研究の中で、ドヴォルザークのニ長調交響曲のフリアント楽章とその2年前に作曲された『スラヴ舞曲第1集』との関係を指摘しています。クレッツシュマールの言葉を借りれば、「この交響曲作品 60の顕著に国民的な楽章はスケルツォです。この作曲家のよく知られた重要なスラヴ舞曲と形式や性格においてほとんど区別がつかず、タイトルの『フリアント』を通じてこのジャンルに割り当てられることは間違いありません。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』 )

 確かにこの第3楽章に続けて『スラヴ舞曲』を聴くと何の違和感もなく、『スラヴ舞曲』のうちの1曲だと思ってしまいます。第1曲と第8曲の冒頭の譜面は以下の通りです。なるほど共に、2拍ビートと4小節フレーズでできていることがよくわかります。しかも第8番の4小節フレーズの後半2小節と、交響曲第6番の第3楽章のそれとはスラーを山型か谷型の違いはあっても兄弟のように似ていますね。

                    Dvo-Slave1
                                 
スラヴ舞曲第1番 作品46-1


                    Dvo-Slave8
  
                                       スラヴ舞曲第8番 作品46-8



 1878年に作曲された『スラヴ舞曲第1集』の第1番と第8番はフリアントとされていますが、スラヴ的な作品を書くよう依頼された曲集でその冒頭と締めくくりにフリアントを配置したことには作曲者の何らかの想いが込められているとするのが自然だと考えられます。またこの作品が同年のうちに出版されたちまち海外で評判となったことが、ドヴォルザークのその後の作曲姿勢に大きな影響を与えたものと考えられます。フリアントは同じ年の『管楽とチェロ・バスのためのセレナード ニ短調 作品44』の第2楽章のトリオ(中間部)でも使用され、その翌年に作曲された『チェコ組曲』(1879年)でも採用され、そしてその翌年の交響曲第6番でも使われたということになります。こうした一連のフリアントの使われ方は単なる偶然ではなく、ドヴォルザークの秘められた作戦があったのではないでしょうか。

 なお、「フリアント」という言葉の語源はドイツ語でもチェコ語でもなく、フランス語であり、「fou riant」(「笑う愚か者」)という呼び名に由来し、その起源はナポレオン戦争の時代とされています。一方、1870 年代初頭までに絶大な人気を博しチェコの代表的な作品となったスメタナの歌劇『売られた花嫁』(1866年)の中にこの舞曲が登場してからは、フリアントはもっぱらチェコ的な意味合いを帯びた舞曲とされるようになっていました。ドヴォルザークが初めてフリアントを使用した時、この『売られた花嫁』をモデルにしたとの説もあります( PROGRAM NOTES of The Clevland Orchestra by Peter Laki )。また、ピーター・ラキは、交響曲第6番の第3楽章は、2 拍子の 3 つのグループの後に、3 拍子の 2 つのグループが続くというリズミカルなアイデアと、高度に半音階的な和声表現を組み合わせたもので、これら 2 つの異なる要素の共生によりこの楽章に独特の個性を与えていると述べています。『売られた花嫁』のフリアントは以下の YouTube をご参照ください。

スメタナ:歌劇「売られた花嫁」第2幕より「フリアント」 (スコア付き)


 以上、この作品から聴こえてくるとされるチェコの民謡についてまとめてみましたが、そこにはドヴォルザーク自身の発言や解説というものはひとつもないことに気付きます。さらに、1880年代初頭の政治的緊張(第5章参照)とドヴォルザークの国際的名声の高まりにより、チェコの批評家たちがドヴォルザークを自分たちの作曲家であると主張することに熱心になり、仮にオーストリア・ドイツの伝統に準拠していると解釈できる作品であったとしてもチェコのラベルを貼ろうとしていたということも見えてくるのではないでしょうか。

 最後に、チェコの音楽学者でドヴォルザークの伝記作家、オタカル・ショウレクの1916 年の著書におけるこの曲に対する評をご紹介します。実に愛情のこもった詩情溢れる文章だと思います。

 「このドヴォルザークの交響曲] は、その精神と表現スタイルにおいて最もチェコらしい作品です。そのルーツはチェコの田園地帯の土壌にあり、またドヴォルザークを生んだ国チェコやチェコの風景、チェコの自然、チェコの人々に注ぐドヴォルザークの愛情にあり、それらはどの小節からも伝わってきて、最も明瞭で生き生きとした色彩で心からの歌声を響かせます。チェコの人々の陽気さ、ユーモア、情熱がこの交響曲に息づいています。そこから香りが流れ出しチェコの草原と森の歌が響きます。おそらく、ドヴォルザークが交響曲を書き始める前日に行われたコンサートのためにズロニツェを訪れたことで、ドヴォルザークは田舎の人々の中で育ち、幸せでのびのびとした青春の日々を過ごしていた遠い昔のことを思い出したのでしょう。最初に音楽活動を始めたこの町を訪れ、そしてその住民と短いながらも触れ合ったことが、ドヴォルザークにインスピレーションを与え、それによってとても楽しくて若々しい、そしてチェコの田舎への愛に満ちた温かみのある作品になったのかもしれません。」

 この交響曲の作曲を始めた1880年の夏に、ドヴォルザークが1853年から1856年まで学校に通ったズロニツェの町への旅行に出かけ、その時に作曲のインスピレーションを得たという仮説を立てています。さらに、この作品がブラームスの交響曲第2番と類似していることを軽視することも勧めて、ショウレクは次のようにも述べています。なお、エヴァ・ブランダによると、1880年代に執筆されたこの曲に関するチェコの評論の中にブラームスについて触れているものはなかったとしています。

 「内容、雰囲気、曲の特徴の点で、この 2 つの交響曲は全体としても個々の部分としても、非常にかけ離れたものです。ブラームスは、第 1 楽章の半分切なく半分感傷的でありながらあらゆるアクセントが慎重かつ控えめに使用される高貴なロマン主義からアダージョ(第2楽章)のバイロン的なペシミズムに移行し、さらにメヌエット(第3楽章)においてのみ内気で愛らしい笑顔を見せ、そしてようやく最終楽章で楽しい雰囲気に浸ることになるのです。対照的にドヴォルザークの交響曲の各楽章は、人生の輝き、勇気、喜び、楽しさを表現しています。」( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』、以下からの引用Život a Dílo Ant. Dvořáka [The Life and Works of Ant. Dvořák] by Otakar Šourek 1916 )




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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