ドヴォルザークの深謀遠慮

第2章 交響曲第6番の初演とチェコ民族運動

 
            Crystal-Palace 

ロンドン、クリスタル・パレス


ウィーンでの挫折
 1879年11月、指揮者のハンス・リヒターはウィーンでドヴォルザークのスラヴ狂詩曲第3番(作品45)を指揮して成功を収めた後、ドヴォルザークに自分とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のために交響曲を書いてほしいと依頼しました。ドヴォルザークは翌年の8月27日に作曲を開始し、10月15日には作曲が完成させています。出版社のジムロックにはこう知らせています。

 「親愛なるジムロックさん!取り急ぎ、作曲していた新しい交響曲のオーケストレーションが完成したことをお知らせいたします。おそらく来週ウィーンに旅行し、そこでフィルハーモニー管弦楽団がそれを試すことになるでしょう。私はこの作品の作曲にかなり力を注いできましたが、素晴らしい出来となる可能性がある作品であり、私に喜びをもたらすとは間違いありません。」( ANTONIN-DVORAK.CZ )

 この曲は、ドヴォルザークにとってかなりの自信作であったことが窺える内容ではないでしょうか。11月になってウィーンにいる指揮者のハンス・リヒターを訪ね、この交響曲をピアノで演奏した後、ドヴォルザークは11月23日に友人のアロイス・ゲーブルへの手紙にこう書いています。なお、そのピアノ演奏を聴いたリヒターは感動のあまり楽章が終わる毎にドヴォルザークを抱きしめたとされています。

 「私はウィーンにいますが、ここでは書ききれないほど素晴らしい話をたくさん聞きました。リヒターはこの交響曲を気に入っていて、楽章が終わるごとに私にキスをしてくれました。この曲は12月26日に初演され、その後ロンドンに行く予定です!」

 この曲がウィーンで演奏してもらえるということに、ドヴォルザークはよほど嬉しかったのでしょう。しかし演奏会の日程まで具体的に知らされていたにも拘わらず、ウィーンでの初演は指揮者のリヒターの家族の病気やオーケストラの過重労働を理由に何度か延期されました。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がこの交響曲の演奏に消極的であった理由は、ドヴォルザークとリヒターとの往復書簡の中で完全には明らかにされていませんが、リヒターはシーズンの終わり頃に手紙を書いて、「ウィーンでの美しい作品の上演が不可能になったのは芸術的な理由ではない」とドヴォルザークを安心させようとしていたことが窺えます。結局のところウィーンでの初演は実現されず、ドヴォルザークは後になって、本当の理由はウィーンに強く存在する反チェコ感情のためであることを知ったとされています。但し、本当に反チェコ感情があったという確たる証拠はないようです。

 ウィーンのフィルハーモニー協会内では、チェコの作曲家の作品が2シーズン連続で演奏されることに反対する強い声があり(*)、この交響曲をプログラムに取り上げることを拒否したのでした。当時、レパートリーに関する決定はリヒターだけでなく、オーケストラのメンバー全員によって行われていたとされています( “ANTONÍN DVOŘÁK Musician and Craftsman” by John Clapham )。指揮者のリヒターの熱烈な支持があっても通すことはできなかったということになります。このためだったのか或いは反チェコ感情などの他に理由があったのかは不明ですが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がこの交響曲を演奏するのは1942年まで待たねばなりませんでした。
*前のシーズン(1879年11月)でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、ドヴォルザークのスラヴ狂詩曲第3番を演奏しています。
*ブラームスの後任としてウィーン楽友協会の指揮者となったヴィルヘルム・ゲーリケによって交響曲第6番は1883年2月18日に演奏されていますが、筆者が調らべた限りではウィーンのどのオーケストラだったのかはわかっていません。

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がこの交響曲の演奏を拒否した点について、デイヴィッド・ブロドベックはさらに一歩進めて1880年4月に制定された『ストレマイヤー言語条例』の存在を指摘しています(第5章参照)。当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は言語に関する議論において政治的中立の立場に立つことはなく、例えば、1881 年 2 月、オーケストラはドイツ覇権の大義を推進するための慈善コンサートに参加するなど明らかにドイツ側に足を置いていました。つまり、ドヴォルザークのこの交響曲がドイツ・オーストリアのスタイルに準拠しているにもかかわらずウィーンで却下されたのは、この曲がチェコ人によって作曲されたからであるとブロドベックは主張しています。言い換えれば、ウィーン人はドヴォルザークの曲を聴かずに、作曲家の民族性に基づいて判断したということだったのです( エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』:この内容は以下からの引用です。”Dvořák's Reception in Liberal Vienna: Language Ordinances, National Property, and the Rhetoric of Deutschtum” by David Brodbeck 2007 )。


プラハ初演と海外での反応
 話しを初演のことに戻しましょう。この曲が完成した1880年の内に初演が適わなかったドヴォルザークは、親友の指揮者アドルフ・チェフにこの新しい交響曲を提供することにし、チェフは翌年の1881年3月25日にプラハでこの曲の初演を果たします。そのとき、アンコールで第3楽章が繰り返され、作曲家が指揮台に2 回呼び出されるまで賞賛の拍手は止まなかったとされています。ウィーンで演奏できなかったハンス・リヒターは1882年4月に、ロンドンのフィルハーモニー協会のコンサートでこの交響曲を指揮しています。本番前のまだリハーサル中であったにもかかわらずリヒターは義理堅くも、ドヴォルザークに次のような手紙を書いています。

 「この献呈を受け取れたことを誇りに思います。オーケストラも本当に大喜びです。公演は15日月曜日の夜8時です。リハーサルは愛情を持って行われてきましたので、きっと大成功になると思います。」

 一方、初演の翌月にはプラハの音楽雑誌『ダリボル』の評論家は、「この新しいドヴォルザークの交響曲は、同時代の音楽芸術におけるこのジャンルの他のすべての作品をはるかに凌駕している。」と書き、その作品に溢れるチェコに繋がる性質を指摘しました。

 好評をもって迎えられたプラハ初演後、この交響曲は直ぐにヨーロッパの多くの都市でのコンサート・プログラムに取り上げられ、最初の2年間に、ライプツィヒ、ロストック、ドレスデン、ケルン、フランクフルト、ヴラチスラフ、ウィーン(演奏したのはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ではない)、ブダペストなどで演奏されました。1882年には英国に渡ってロンドンのクリスタル・パレスで演奏され(3月アウグスト・マンス指揮)、1883 年にはアメリカにも渡り、ニューヨーク(1月6日セオドア・トーマス指揮)、ボストン(10月26日ジョージ・ヘンシェル指揮)で演奏されました。このように交響曲第 6 番はドヴォルザークの真の評価を獲得した最初の作品のひとつであり、ドヴォルザークをして当代を代表する作曲家の一人として国際舞台でその地位を認めた作品となったのでした。

 ドヴォルザーク自身がこの曲を指揮した記録( ANTONIN-DVORAK.CZ )を見ると生涯7回指揮しています。9回指揮をしている交響曲第8番に次いで多く指揮していることになります。第7番と第9番『新世界』が3回であったことを思うと、当時の聴衆にこの6番はかなり人気があったのではないかと想像されます。他に、本人が余程気に入っていたとか、指揮しやすかったとかも考えられますが、いづれにせよ、この曲の現在の不人気ぶりとは大きく違っていたということになります。

 まず1884年の最初の英国訪問の際にロンドンのクリスタル・パレス(3月20日)で演奏していて、この曲が英国で演奏された最初の演奏ではありませんが、ドヴォルザークの指揮は熱狂的に迎えられたとされています。また同年の2回目の訪英ではウスター(9月11日)でも指揮をしています。その後、地元プラハに戻って1884年11月16日と1891年6月21日の2回指揮をしています。さらに、1886年の5回目の英国訪問ではバーミンガムで指揮をしています(10月21日)。また、チャイコフスキーからロシアに招待されて、1890年3月に1ケ月間モスクワとサンクトペテルブルクで過ごし、11日にモスクワで交響曲第5番、スラヴ狂詩曲第1番、交響的変奏曲、スケルツォ・カプリッチョーソを指揮し、22日にはサンクトペテルブルクでこの交響曲第6番を指揮しています。この時、スケルツォ(第3楽章)はアンコールで再度演奏されましたが、ロシアにはドイツ人のコミュニティーがあってそれなりの支持を受けていたとはいえ、英国やドイツで度々受けたような熱狂はなかったとされています。最後に指揮したのはニューヨークに滞在していた1892年12月17日でした( “ANTONÍN DVOŘÁK Musician and Craftsman” by John Clapham )。


              Zofin-Hall

                
現在のジョフィン宮殿内のホール


 この交響曲がプラハで初演されたのは、市内にあるヴルタヴァ川の中州、スロヴァンスキー島(スラヴ島とも呼ばれる)に建てられたジョフィン宮殿内のホールで、アカデミック・リーダーズ・ソサエティ(学術読者協会とでも訳するのでしょうか?)による「オール・スラヴ・コンサート」でした。1830 年から使用されていた400 人の聴衆を収容できるジョフィン・ホールは、ルドルフィヌム(現在のドヴォルザーク・ホールがあるところ)が開館するまでプラハで最も広いコンサートホールであり、市内のほとんどのオーケストラのコンサートがここで開催されました。スラヴ・コンサート・シリーズ自体は1877年に始められ、年に19回開催されていたのでしたが、1880年代のこれらのコンサートはチェコの知識層の集会の場となり、国家的および政治的なデモを計画する機会をしばしば与えていた場所とされています。この学術読者協会は挑発的な政治示威活動に参加したことを理由に1889年に解散を余儀なくされることになります。1881年に初演されたドヴォルザークのこの交響曲に関する当時の批評は特定の政治活動と関連していたことを示唆はしていませんが、この作品が少なからずいたであろうチェコの民族活動家の前で、あからさまにナショナリズムが表れやすい環境で初演されたことは事実であったと指摘されています( エヴァ・ブランダ著『ドヴォルザーク音楽の研究』)。

 このような初演での状況を知ってしまうと、プラハの聴衆もドヴォルザークの音楽を聴いてその素晴らしさに感動したというより、チェコの民族意識の高揚に酔っていたのではないかという疑問が沸いてきます。この曲のウィーンでの初演は反チェコ感情によって実現されず、地元プラハではチェコの民族運動を景気づけの音楽にされかねない状況で初演されるなど、ドヴォルザークは散々な目に会ったということになります。特に第3楽章が受けたというのは、この楽章でチェコ人が聴けばすぐわかるチェコの民族舞曲である「フリアント」を採用しているためであることは容易に想像できます(第3章参照)。

 現在ではあまり目立たない曲である交響曲第6番が、ドヴォルザークの期待や意図の与り知らない、音楽と全く別の世界の勢力のせめぎ合いの中で翻弄されていたことは確かのようです。しかし、意図しない状況の中にあっても結果的には成功を勝ち得たのはドヴォルザークにとっては幸運だったということでしょうか。また、民族運動から距離のある海外で大きな成功したということも、ドヴォルザークに大きな安堵をもたらしたことでしょう。このプラハ初演の2年後にロンドンからの招待を受諾したのは、金銭的なことがあったのはもちろんとしても、こうしたウィーンやプラハにおける非音楽的で不穏当な空気から逃れたい気持ちがあったのかもしれません。




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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