ウィーンのフィルハーモニー協会内では、チェコの作曲家の作品が2シーズン連続で演奏されることに反対する強い声があり(*)、この交響曲をプログラムに取り上げることを拒否したのでした。当時、レパートリーに関する決定はリヒターだけでなく、オーケストラのメンバー全員によって行われていたとされています(
“ANTONÍN DVOŘÁK Musician and Craftsman” by John Clapham
)。指揮者のリヒターの熱烈な支持があっても通すことはできなかったということになります。このためだったのか或いは反チェコ感情などの他に理由があったのかは不明ですが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がこの交響曲を演奏するのは1942年まで待たねばなりませんでした。
*前のシーズン(1879年11月)でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、ドヴォルザークのスラヴ狂詩曲第3番を演奏しています。
*ブラームスの後任としてウィーン楽友協会の指揮者となったヴィルヘルム・ゲーリケによって交響曲第6番は1883年2月18日に演奏されていますが、筆者が調らべた限りではウィーンのどのオーケストラだったのかはわかっていません。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がこの交響曲の演奏を拒否した点について、デイヴィッド・ブロドベックはさらに一歩進めて1880年4月に制定された『ストレマイヤー言語条例』の存在を指摘しています(第5章参照)。当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は言語に関する議論において政治的中立の立場に立つことはなく、例えば、1881
年 2
月、オーケストラはドイツ覇権の大義を推進するための慈善コンサートに参加するなど明らかにドイツ側に足を置いていました。つまり、ドヴォルザークのこの交響曲がドイツ・オーストリアのスタイルに準拠しているにもかかわらずウィーンで却下されたのは、この曲がチェコ人によって作曲されたからであるとブロドベックは主張しています。言い換えれば、ウィーン人はドヴォルザークの曲を聴かずに、作曲家の民族性に基づいて判断したということだったのです(
エヴァ・ブランダ著 『ドヴォルザーク音楽の研究』:この内容は以下からの引用です。”Dvořák's Reception in Liberal
Vienna: Language Ordinances, National Property, and the Rhetoric of
Deutschtum” by David Brodbeck 2007 )。
まず1884年の最初の英国訪問の際にロンドンのクリスタル・パレス(3月20日)で演奏していて、この曲が英国で演奏された最初の演奏ではありませんが、ドヴォルザークの指揮は熱狂的に迎えられたとされています。また同年の2回目の訪英ではウスター(9月11日)でも指揮をしています。その後、地元プラハに戻って1884年11月16日と1891年6月21日の2回指揮をしています。さらに、1886年の5回目の英国訪問ではバーミンガムで指揮をしています(10月21日)。また、チャイコフスキーからロシアに招待されて、1890年3月に1ケ月間モスクワとサンクトペテルブルクで過ごし、11日にモスクワで交響曲第5番、スラヴ狂詩曲第1番、交響的変奏曲、スケルツォ・カプリッチョーソを指揮し、22日にはサンクトペテルブルクでこの交響曲第6番を指揮しています。この時、スケルツォ(第3楽章)はアンコールで再度演奏されましたが、ロシアにはドイツ人のコミュニティーがあってそれなりの支持を受けていたとはいえ、英国やドイツで度々受けたような熱狂はなかったとされています。最後に指揮したのはニューヨークに滞在していた1892年12月17日でした(
“ANTONÍN DVOŘÁK Musician and Craftsman” by John Clapham )。