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ドヴォルザークの深謀遠慮

第1章 交響曲第6番の成立前

 
                  Moravian 

モラヴィア二重唱曲集


 ドヴォルザークは交響曲第6番を1880年8月27日に作曲を開始し、10月15日には作曲が完成したとされています。ドヴォルザークの作曲年代別分類によると、この曲は「スラヴ時代(1876年〜1884年)」のちょうど中間点に作曲されたことになり、なおかつスラヴ時代の頂点をなす作品とも見做されています。そのため、この曲がスラヴ的要素を多分に含んでいる、民族音楽的雰囲気を醸しだしているといった印象を与えているのですが、いざ聴いてみるとそういった雰囲気の箇所は一部にはあるものの曲全体としては交響曲としての形式を遵守した絶対音楽として仕上がっていることにも気付かされます。

 この章では、交響曲第6番の成立に先立つ約10年間に作曲されたドヴォルザークの作品をその作曲姿勢を中心に見ていきたいと思います(作曲年代順)。


ヴィオラ奏者ドヴォルザーク
 1859 年 7 月にプラハのオルガン学校を卒業したドヴォルザークは、聖ヘンリー教会のオルガニストの職に応募するものの残念ながら不採用となります。それと前後してダンスホールやレストランなどでも演奏するコムザーク楽団という小さなオーケストラでヴィオラ奏者のポストを得ています。その後1862年に新しく開場したプラハ国民劇場の仮設劇場のオーケストラにも採用され、ドヴォルザークはそこで9年間ヴィオラ奏者を務め(首席だったという文献もあります)、年間を通じてほぼ毎晩演奏することになります。この間、ドヴォルザークはベドジフ・スメタナが作曲した最初の3つのオペラの初演を作曲家自身の指揮で経験したほか、他のチェコの同胞による多くの新しい作品をはじめ、ヴェルディ、マイヤーベーア、ドニゼッティらのオペラの伴奏をしています。また、ドヴォルザークはこの2つの楽団で演奏する前のオルガン学校在学中にドイツ系のチェチーリア協会管弦楽団というオーケストラに一時期入って、ベートーヴェン、シューベルト、ワーグナー、リストなども演奏していたとされています。

 ドヴォルザークはプラハ国民劇場の仮設劇場に入団した後にもコムザーク楽団でしばらく演奏していたようで、1863年にコムザーク楽団がハンブルクを訪問した際、ワーグナーの作品に特化したコンサートに出演したとされています。その時指揮をしたのはなんと、リヒャルト・ワーグナー自身だったのでした。この1870年前後の期間、ドヴォルザークのワーグナー熱が最高潮に達していたことは想像に難くありません。おそらくドヴォルザークはプラハで上演されたワーグナーのオペラの多くの公演を聴きに行った可能性があります。( “ANTONÍN DVOŘÁK Musician and Craftsman” by John Clapham )。しかし、このようにヴィオラを演奏していたのはあくまで生活のためであり、本職としての作曲家をめざして日々作曲に勤しんでいたのは言うまでもありません。

 ドヴォルザークが国民劇場の仮設劇場のオーケストラに在任していたときにスメタナの代表作である連作交響詩『わが祖国』が1875年から1880年の間に初演されています。しかし、この曲はオペラではないことから別のオーケストラで演奏されていますので、ドヴォルザークはその演奏に参加していなかったと考えられます。一方、スメタナのオペラ作品『ボヘミアのブランデンブルク人』(1866年初演)、『売られた花嫁』(1866年初演)、『ダリボル』(1868年初演)は、プラハの国民劇場の仮設劇場で初演されています。オペラ作品となればドヴォルザークはヴィオラ奏者として演奏に参加していたことになり、まさにチェコ音楽が大きく開花した瞬間を目撃するだけでなくその音符を演奏していたということになり、駆け出しの若き作曲家ドヴォルザークにとって大きな刺激になったことは間違いないでしょう。

 ドヴォルザークがスメタナから作曲を学んだという記録はなく、音楽家のたまり場になっていたプラハのヴァーツラフ広場の角のコーヒー店『ヴィーナー』で、たびたび顔を合わせていた程度だったようですが、スメタナの歌劇を作曲家自身の指揮で演奏する経験を通じてその技法などを会得していったことは十分に考えられます。なお、ドヴォルザークがスメタナの指揮で演奏した曲は、上記の他に下記の曲が挙げられています(関根日出男著 ゲルト・アルブレヒト指揮ドヴォルザーク作曲の歌劇『ディミトリー』のCDのブックレットから)。これがすべてではないと思われますが、ドヴォルザークが実際にどんな作曲家の音符に接していたかを知ることができます。

作曲家 曲名 演奏年
リスト オラトリオ『聖エリーザベートの伝説』 1863
ウェーバー 歌劇『魔弾の射手』 1866
モーツァルト 歌劇『魔笛』
オーベール 歌劇『ポルティチの唖娘』
ロッシーニ 歌劇『ウィリアム・テル』
グリンカ 歌劇『ルスランとルドミュラ』 1867
グリンカ 歌劇『イワン・スサーニン』
モーツァルト 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』
グノー 歌劇『ファウスト』
モニューシコ 歌劇『ハルカ』 1868
グノー 歌劇『ロミオとジュリエット』 1869
グルック 歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』
モーツァルト 歌劇『後宮からの逃走』
ベートーヴェン 歌劇『フィデリオ』 1870
ワーグナー 楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 1871



賛歌『白山の後継者たち』〜作曲家デビュー
 1871年に国民劇場の仮設劇場のオーケストラを辞したドヴォルザークは、32歳の1872年にヴィチェスラフ・ハーレクの詞による賛歌『白山の後継者たち』を作曲し、プラハで初演されるや大評判となります。この時5,000人の聴衆で埋め尽くされたホールは歓呼の嵐の包まれたとされ、それまでほとんど無名に近かったヴィオラ奏者ドヴォルザークの名はようやくプラハで知れ渡るようになりました。このプロの作曲家としてデビューは、当時の民族主義の高まりもあって、将来有望なチェコの作曲家としての地位を確立すると同時に、自身作曲活動を続ける大きな動機づけとなったのでした。この曲の第2部ではフス教徒のコラールに似た主題が用いられていて、ドヴォルザークの「スラヴ時代1876〜1884年」と分類される期間より前でありながら、かなり愛国的な内容であったと言えると思います。


モラヴィア二重唱曲集〜ブラームスとの邂逅
 プラハで初めてデパートを開店させた裕福な芸術愛好家の商人ヤン・ネフ家にピアノ教師として雇われていたドヴォルザークは、1873年1月にネフから家族が歌えるようなピアノ伴奏付きの二重唱曲の作曲の依頼を受けます。モラヴィア人であったネフのその依頼とは、モラヴィアとシレジアの民謡を収録した『モラヴィア民謡集』(フランティシェク・スシル編1860年出版)の中にあるいくつかの民謡のメロディーに対して下声部とピアノ伴奏をつけるというものでした。ネフの妻は玄人はだしの声楽の素養があり、自分の娘とのデュエットで歌える譜面が欲しかったのでした。ドヴォルザークはその依頼を受けますが、その民謡集に収録されたメロディーに満足しなかったのか、歌詞だけを活かして主旋律そのものを新たに作曲し直してネフ夫妻に渡しています。

 こうして1875年から1877年にかけて作曲されたのが全22曲の『モラヴィア二重唱曲集』(作品32)です。ドヴォルザークは1877年にオーストリア国家奨学金審査にこの作品を提出したところ、そこで審査員を務めていたブラームスの目にとまります。ブラームスはチェコ出身の若者を自分が懇意にしていた出版社の経営者フリッツ・ジムロック(1837 - 1901年)に紹介することになります。これによってドヴォルザークは自分の作品がチェコ国内ばかりか世界へと知られるきっかけを得ることになったのでした。

 ドヴォルザークの奨学金受給申請は33歳だった1874年から毎年行なわれていてこの時は4回目にあたります。それぞれ400グルデン、400グルデン、500グルデン、600グルデンを支給されています。それまでドヴォルザークの教会のオルガン奏者や教師としての年収約126グルデンからするとかなりの額となります。なお、スメタナがこの約10年前の1866年にプラハの仮劇場の首席指揮者としての職を得た際の報酬は年1,200グルデンだったことからすると確かにいい金額と言えます。奨学金を得られずに絶えず貧困に悩まされていたマーラーなどの作曲家に比べるとドヴォルザークはかなり恵まれていたということがわかります。ついでながら、苦労を重ねた28歳のマーラーはブダペストのハンガリー王立歌劇場でようやく音楽監督という職にたどり着き、年棒1万グルデンとかなりの報酬を得ています(1899年)。マーラーは、奨学金とは縁がなくてもドヴォルザークよりは若くして大金を手にしていたことになります。

 2回目の審査にドヴォルザークは交響曲第3番変ホ短調と第4番ニ短調を含む15作品を提出し、その審査員にはウィーン国立歌劇場の指揮者ヨハン・ヘルベック、プラハ生まれのドイツ人批評家エドゥアルド・ハンスリック、そしてブラームスが含まれていたとされています。なるほど、この時からドヴォルザークはブラームスから目をかけられていたということになります。1877年にドヴォルザークがブラームスに宛てた手紙には、ハンスリック教授から手紙を貰い、その中に大臣シュトレマイヤー閣下が会議で芸術家奨学金を自分に与えるためのブラームスとハンスリックの提案が承認されたことが書かれていたと報告しています(このシュトレマイヤーについては第5章で述べます。)。このエドゥアルト・ハンスリック(1825-1904年)は、プラハのドイツ語圏の家庭に生まれ、ウィーンで活躍した音楽評論家です。

 この審査員の中にいるハンスリック、言わずと知れたアンチ・ワーグナーの旗手として有名な音楽評論家でしたが、当時ハンスリックはチェコ人に対して必ずしも好意的ではなかったとされていますので、ドヴォルザークが同郷だからといって贔屓にしたということではなかったと考えられます。しかし、審査に提出された交響曲第3番はその第2楽章などにおいてワーグナーの影響が見え隠れするのですが、これには気付かなかったのでしょうか。楽劇とか交響詩といったワーグナーやリストの世界と異なり、ストーリーを伴わない交響曲というジャンルを採用し、ドイツ・オーストリアの伝統的な形式に従っているように見えたドヴォルザークの作曲姿勢に気に入ったのかもしれません。ハンスリックはこの後も手紙のやりとりなどを通じてドヴォルザークとは関係を維持することになります。

 話しを戻しましょう。ここで、注目すべきことは、『モラヴィア二重唱曲集』を作曲する際、ドヴァルザークはモラヴィアの民謡に対して「主旋律そのものを新たに作曲し直した」ということです。民族音楽というものを素材にして作品を構築する際、メロディーそのものを借用してそれにヴァリエーションを加えていくという作曲方法をドヴォルザークは採用しなかったということになります。内藤久子氏は次のように述べています。

 「モラヴィアの民俗詩に対して、基本的には古典・ロマン主義的な様式を守りながら、長短調にもとづく規則的な相称的なフレーズ構造を用いることでアプローチしていった。すなわちモラヴィア民謡歌の醸し出す抒情的な旋律は、むしろ自由な歌謡の様式に従うもので、どちらかと言えば非拍節的なリズムの構造を特色としているのに対し、ドヴォルジャークの音楽には、そうしたモラヴィア民謡に本来備わっている様式的な美への特別な執着は余り見られないと言ってよいだろう。」( 『チェコ音楽の歴史 - 民族の音の表徴』 内藤久子著)

 さらに、ドヴォルザークは個々の曲が何であるかを簡単に説明する以外のタイトルを付けなかったとされていて、出版社のジムロックはこの曲集の作曲の経緯はともかく、あたかもその音楽がモラヴィアのものであるかのように、『Klänge aus Mähren 13 Duette』(モラヴィアからの音楽、13のデュエット集)というタイトルをつけています。こうした民謡の雰囲気は残しつつもあくまで旋律は自分のスタイルの中で作曲し、曲のタイトルは聴き手に任せるという姿勢は、後の『スラヴ舞曲』などの民族色豊かな作品においてもそのメロディーの出自を多くの音楽学者たちが探しても見つからなかったということにつながるのではないかと考えられます。

 この『モラヴィア二重唱曲集』の出版は実はベルリンのジムロック社によるものが初めてではなく、最初はネフ家の援助によって1876年にプラハで自費出版(エマニュエル・スターリー社)されています。この曲集は一度に作曲されたのではなく、1875年3月から1877年8月の約2年間にわたって作曲されているため数曲まとまったところでその都度出版されたようです。その一部が1877年秋の国家奨学金受給の審査に提出されたことになります。全曲がまとまって出版されたのが、1879年のジムロック社によるものとなります。この出版にあたり、歌詞はドイツ語も添える必要があったため、ドヴォルザークは友人のスプ・デブルノフに翻訳を依頼しています。

 なおこの時、ジムロックに手紙を書いてドヴォルザークは楽譜の表紙に記す曲名の表記に注文をつけています。チェコ語のいわゆる補助記号である「 ´ 」と「 ˇ 」が入った『 Moravské dvojzpěvy 』でないといけないと拘ったのでした。この手紙は1885年8月25日付けとなっていて、これらの出版年1879年の6年後というのが少々気になるところで、最初に出版されたときにドイツ語でしか標記されていなかった楽譜をドヴォルザークが見て、再版するときにチェコ語も併記してほしいと手紙を書いたと考えるべきでしょう。この間、『スラヴ舞曲集』などの作品によってドヴォルザークの海外での注目が高まったことからくる自信の顕われと見做すことができるのと同時にドヴォルザークがチェコ国民としての誇りを持ち続けていた証しとも見ることができるのではないでしょうか。

 なお、ブラームスが貧乏なドヴォルザークを助けようとこの曲集の出版をジムロックに託したにもかかわらず、この時ジムロックはドヴォルザークに一銭も払わなかったとされています。これは出版社として作曲を依頼したわけではなく、しかも一部は既に他から出版されていたからで、後に作曲を依頼した『スラヴ舞曲』のときはまだ無名の若造だったにもかかわらず300マルクもの大金を払っています( ANTONIN-DVORAK.CZ 及び 『スメタナ/ドヴォルザーク』 渡鏡子著 )。


交響曲第3番変ホ長調
 ドヴォルザークは、ヤン・ネフ家にピアノ教師として雇われていた間の1873年の4月から7月にかけて3番目の交響曲(作品10)を作曲しています。讃歌『白山の後継者たち』の成功に自信を深め、結婚(同年11月17日)を目前に控えた気力の充実した時期の作品とされていて、当時の流行であったリヒャルト・ワーグナーの影響を積極的に取り入れた作品ともなっています。1871年にワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタイージンガー』がプラハのドイツ劇場で演奏された時オーケストラ・ピットでヴィオラを弾いていたドヴォルザークも大きな刺激を受けていた頃でした。ドヴォルザークが1874年のオーストリア国家奨学金審査に最初に提出したのがこの作品で、見事400グルテンの奨学金を獲得したのでした(同時に交響曲第4番も提出)。しかし、その時の審査委員の中に当時アンチ・ワーグナーの旗手と知られていたエドゥアルト・ハンスリックがいたことになっていて、何故ワーグナー色を漂わせるこの曲を選んだのかは不思議でなりません。ハンスリックがボヘミアの出身であり、同郷のよしみでドヴォルザークを推していたのかもしれません。この点についての考察はあまりなされていないようですが、ウェブに興味深い指摘を見つけました。

 「ドヴォルザークが若くて才能のある作家、芸術家、音楽家に贈られるオーストリア国家賞を初めて受賞したとき、彼はウィーン宮廷歌劇場の指揮者ヨハン・ヘルベックと評論家のエドゥアルド・ハンスリックによって審査された。ヘルベックは最終的に委員を辞任し、ブラームスが彼の後任に任命された。ドヴォルザークはさらに3年連続で奨学金を獲得し続けたため、ブラームスは作曲家としての彼の進歩を観察することができ、ドヴォルザークの作品の一部を出版するよう出版社を説得した。この文脈でほとんど見落とされてきたのは、ハンスリックがドヴォルザークのキャリアを促進するのに貢献したということである。もちろんハンスリックには、この作曲家を利用して標題音楽の支持者たちを非難しようという下心があった。ハンスリックは“ドヴォルザークをリヒャルト・シュトラウスと同じレベルに置くことは考えられません。ドヴォルザークは本物の音楽家であり、純粋な音楽だけで私たちを楽しませるためにはプログラムもエピグラフも必要ないことを何百回も証明してきました。神は、誤った知識という欺瞞を必要とせずに、私たちの中に思考や感情を呼び起こし、喜びや悲しみを降り注ぐのです。”と書いています。」( “Interlude “Dvořák: Symphony No. 6 Premiered Today in 1881” by Georg Predota 2019 )

 エドゥアルト・ハンスリック(1825 - 1904)はプラハに生まれウィーンで活躍した音楽評論家、美学者、歴史家。ドイツ語圏の家庭出身の書誌学者で音楽教師の父親とウィーンのユダヤ人商人出身の母親の間に生まれています。しかし、父親は文献を見る限り明確にドイツ人という記述は見当たりませんでした。ハンスリックは保守的な批評家で生涯を通じて標題音楽よりも絶対音楽を擁護するブラームスの親しい友人であったことはよく知られています。一方、ハンスリックの厳しい批判の対象となったのがワーグナーやブルックナーでした。他にもチャイコフスキーの交響曲第6番に対しても冷淡だったり、グスタフ・マーラーがコンクールに応募したカンタータ『嘆きの歌』を落選させたりしたことでも知られています。最初はドヴォルザークを擁護していたハンスリックですが、1890年代半ばにドヴォルザークが標題音楽、特にチェコの国民的な詩人カレル・ヤロミール・エルベンの詩をテーマにした交響詩に注意を向けたとき反対の意を表明しています( ANTONIN-DVORAK.CZ、クラシック音楽アカデミー )。ドヴォルザークはエルベンの詩による4曲の交響詩『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』(すべて1896年)を作曲したのでした。

 交響曲第3番に話しを戻しましょう。初演は翌1874年3月29日にプラハで、ベドルジハ・スメタナの指揮によって行われています。新聞評はあまり芳しいものではなく、ワーグナー風という批判はなかったものの形式上の欠点があったとされ、ドヴォルザーク自身もうこの曲は演奏しないようにと主張しそうです。近年の研究では、楽器編成(イングリッシュ・ホルンとハープの使用やいくつかに分割された弦楽器群)、および循環形式への不安定なアプローチ(スケルツォ楽章がないなど)においてワーグナーの強い影響があるものの、この作品には後になって備わっていくドヴォルザーク独自の音楽言語の特徴とされるさまざまな音楽的アイデア、幅広くなだらかなメロディー、終結楽章での楽しく楽観的な雰囲気を持っているなどと評価されています。ドヴォルザークの伝記作家オタカル・ショウレクは、交響曲の中に「愛国心と国の将来に対する熱烈な関心の表現」を見出しています。

 スメタナの指揮によるこの曲の初演は、ドヴォルザークが書いた交響曲の最初の全曲演奏であり、これまでの彼のキャリアの中で画期的な出来事でした。ドヴォルザークは若い頃に作曲した作品の中でこの交響曲に対しては特別な愛情を持っていたようで、頻繁にこの楽譜を読み返し、亡くなるほんの数日前にはその楽譜を懐かしそうにめくっていたと言われています( ANTONIN-DVORAK.CZ、クラシック音楽アカデミー )。

 なお、この曲の初演の直前の2月には、ドヴォルザークは聖アダルベルト教会のオルガニストに就任していています。その後に助成金も貰い、ピアノ教師だけでなく定職に就くことでより安定した生活を確保した上で結婚をするというその堅実さは、芸術家にはなかなかいないタイプと言えるかもしれません。


交響曲第4番ニ短調
 交響曲第3番を書き上げて初演される直前の翌年の1874年3月には交響曲第4番(作品13)が完成され、この曲の第3楽章のみが第3番初演の2ケ月後の5月25日にプラハで同じくスメタナの指揮により初演されています。その時、雑誌『ダリボル』に寄稿したある批評家によれば、この音楽は「非常に熱狂的な歓迎を受けた。( 中略 )もしこの部分だけをもとに交響曲全体を判断することが許されるとしたら、他のことは何も望まないができるだけ早くこの作品が全曲演奏されることだけを望みたい。」という評価を与えています。その後1887年末から1888年初頭にかけて改訂をしていますが、全曲の初演が行なわれたのはずっと後になってからでした。それは、1892年3月6日にプラハでドヴォルザーク自身の指揮によって行われていて、ドヴォルザークがアメリカに旅立つ時の「お別れ演奏会」においてでした。なお、この曲は生前に出版はされませんでした。

 この交響曲第4番ではドイツ・ロマン派の影響はかなり希薄となっていて、チェコ風のドヴォルザークの個性が強く前面に出されているとされています。ワーグナーの音楽の特徴とされる「終わりのない」メロディーからの脱却によって、個々の楽章の中でより簡潔で規則的なテーマ表現とより注意深く音楽素材を選択し、形式に則した変奏を取り入れるといった特徴を備えています。楽器編成も、もはや密集したワグネリアンのスコアではなく、よりシンプルでありながら活気に満ちた表現とクリアなサウンドを生み出すものとなっています。ただ、第2楽章の主題はワーグナーの歌劇『タンホイザー』からインスピレーションを得ていると言われることもあります( ANTONIN-DVORAK.CZ、クラシック音楽アカデミー )。


交響曲第5番ヘ長調
 交響曲第5番ヘ長調(作品76)は1875年の6月から7月にかけて作曲されました。第3番から毎年1曲ずつ交響曲を作曲していたことになります。初演は1879年3月25日にプラハにて、親友でもあったアドルフ・チェフ指揮、国民劇場管弦楽団により行われました。

 この交響曲第 5 番は作曲家の個人的なスタイルの発展におけるマイルストーン、これまでのドヴォルザークの初期交響曲の集大成とされています。また、当時としては過去のものとなったかに見える古典的な交響曲の構造を再構築し、そこに新たな近代的な視点を与えることに成功した最初の作曲家となったともされ、そこにはベートーヴェン、シューベルト、ブラームスへの接近を見せています。また、第1楽章ではボヘミアの舞曲フリアント、第2楽章ではウクライナ起源のドゥムカのリズムを加味していることもよく指摘されています。こういった舞曲はこれを機会にドヴォルザークの多くの作品に採用するようになります。ドゥムカを取り入れた曲としては、弦楽六重奏曲イ長調(作品48 :1878年)、弦楽四重奏曲第10番変ホ長調(作品51)、スラヴ舞曲(作品46:1878年&作品72:1887年)、ヴァイオリン協奏曲イ短調(作品53:1879/80年)ピアノ五重奏曲第2番イ長調(作品81:1887年)、ピアノ三重奏曲第4番ホ短調『ドゥムキー』(作品90:1891年)などが挙げられます。この点からドヴォルザークのいわゆるスラヴ時代の始まりも予感させる作品となっているのですが、しかしここで注意すべきは、ドヴォルザークはこうした舞曲の要素が作品に込められていることについては何も言及はしていないということです。曲によっては譜面に「ドゥムカ」などの舞曲のタイトルを最初から書いて作曲を始めたのではなく、後から書き足すなどしていたという指摘もあり、ドヴォルザークの作品における民俗舞曲の扱いを論ずるのは一筋縄ではいかないことに留意しなければなりません。

 第 2 楽章の主要主題の導入部の旋律はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番変ロ短調の有名な導入テーマを彷彿とさせますが、ほんの数か月前に完成されたこの曲(初演は1875年10月於ボストンですからこの5番の完成より後)をドヴォルザークが知っていたことはないと考えられます。スケルツォは、楽しい雰囲気と活気に満ちた活力でスラヴ舞曲を想起させます。また終楽章には時折ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』とよく似た和声進行が見られるとされています。既にワーグナーに熱中していた時期を脱していたドヴォルザークでしたが、ワーグナーを完全に否定したわけではなく、後年になってもときおりワーグナー音楽への接近を見せています。どちらの陣営に入るかという当時の論争に構うことなく、自己の表現に利用できるものは何であれ躊躇なく使おうというドヴォルザークの姿勢には興味深いものがあります。1904年に初演されたドヴォルザークの最後の歌劇『アルミーダ』でもワーグナー風の主題が用いられていることは注目すべきことでしょう。

 ドヴォルザークはかねてより理解を示してくれていた指揮者ハンス・フォン・ビューローにこの交響曲を捧げています。ビューローは、「マエストロ閣下!あなたからの献呈は、現代で最も神聖な作曲家であるブラームスと並んで、私にとってはどの王子からのどんな豪華な十字架よりも名誉なことです。」と感謝の手紙を出しています( ANTONIN-DVORAK.CZ、クラシック音楽アカデミー )。年1曲のペースで続いた3曲の交響曲のうち、ドヴォルザーク生前に出版されたのはこの第5番のみとなります(1888年、交響曲第3番として)。ハンス・フォン・ビューローと言えば、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスをして「ドイツ3B」と称した人物、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を初演した指揮者、演奏不能とされてなかなか演奏されなかったチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を初演したピアニストなど武勇伝に事欠かない音楽家として知られていますが、それにしては現在のコンサート・シーンでこの曲が演奏されることが非常に少ないのは不思議な話しです。マーラーが交響曲第2番『復活』の第1楽章となる交響詩『葬礼』をピアノで演奏してビューローに聴かせたところ、ビューローは耳をふさいで露骨に拒絶を示したという逸話からするとビューローの審美眼はあたりはずれがあったことになるのでしょうか。


交響的変奏曲
 『交響的変奏曲』(作品78)は1877年に作曲された作品で、その年の12月2日、ルデヴィート・プロハースカの指揮によりプラハで初演が行われました。ところが聴衆はこの作品を気に入ったものの新聞は取り上げず、出版社もこの作品に興味を示さなかったため、ドヴォルザークはいたく落胆したとされています。およそ10年間放置された後、1887年3月にドヴォルザークはこの作品をプラハのルドルフィヌムで自ら指揮をして2回演奏しています。ルドルフィヌムとは、1885年にオープンしたプラハにある音楽公会堂のことで、現在はその中にドヴォルザーク・ホールがあり、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地となっています。しかし、この『交響的変奏曲』をドヴォルザークが指揮した時はルドルフィヌム内にはドヴォルザーク・ホールはまだなく、別のホールだったと考えられています。

 その時の演奏に満足したドヴォルザークは、指揮者のハンス・リヒターに楽譜を送っています。リヒターはこれに大喜びし、すぐにこの作品をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のイギリス・ツアーのプログラムに組み入れました。リヒターは同じ1887年の5月13日にロンドンでフィルハーモニック協会との最初のリハーサルを終え、4日後の 5月17日にドヴォルザーク宛に手紙を書いています。「私はすっかり夢中になっています。これは素晴らしい作品です! ロンドンで最初にこの作品を演奏できてとても嬉しいです。しかし、なぜこれまでずっと先延ばしにしていたのですか? これらの変奏曲はあなたの作品の中でも第一級に輝くはずです。」。リヒターは同年12月にもこの曲をウィーンのフィルハーモニー協会でも指揮し、その成功をブラームスに手紙で報告しています。

 この曲はハ長調の主題と28の変奏から構成されていますが、ブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』の影響が指摘されています。これはおそらくウィーンの批評家たちの意見で、この時ドヴォルザークはジムロックへの手紙の中でブラームスから素晴らしい煙草入れを貰ったと書いていることからいつしかブラームスの作品と結びつけたのではないでしょうか。一方、ボヘミアの民俗色の豊かな作品と判じるのはチェコの批評家たちで、曲の終盤のフーガの後に突然チェコの民俗舞曲であるポルカが登場してくるためです。

 しかし、このポルカの闖入はドヴォルザークのいたずらではないでしょうか。この曲は、変奏曲を書くには不可能と思われる主題を使って作曲できるかという友人の挑戦に応えて書かれたとされていて、アドルフ・ヘイドゥックの詩『ヴァイオリン弾き』を題材とした自作の男声合唱曲『3つの歌』 (1877年) からの第3曲「私は流しのヴァイオリン弾き」を主題としています。この作曲の動機から考えると、ドヴォルザークは当時自分が持てる作曲技法を駆使して、あれこれ試すように筆を進めたと想像することができます。ブラームス流にやろうかとかボヘミア色を加味しようかとかは特別意識していなかったのではないでしょうか。ギー・エリスマンの「28の変奏曲はチュコ精神でつらぬかれていて、活気に満ちたチェコ・ポルカが終結のフーガをさえぎるまでユーモア、陽気さと瞑想、率直さが交互に描き出されている」の指摘が真相に近いのかもしれません。筆者にはこの主題がエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲(1945年)の第3楽章とよく似ているように感じられ、特に最終変奏の盛り上がるところがコルンゴルトの独特な響きにも通じるところがあると思っています。しかし、あまり演奏される機会がない作品だけに、コルンゴルトがこの曲を聴いていた可能性は低そうですので、偶然のことなのだと思います。

 ドヴォルザークはこの曲の完成時は作品番号38としましたが、初演後に作品40を与えました。しかし、初演から10年後にジムロック社が作品78として出版したため現在でも作品番号78のままになっています。ジムロック社は初演時には出版を断ったのに、ウィーンで演奏されて好評を博すと手のひら返しで新作と偽って新しい作品番号を付けて出版したということになります。


喜歌劇『いたずら農夫』
 1878 年 1 月 27 日にプラハの国民劇場仮劇場が主催したこのドヴォルザーク6曲目となるオペラの初演は、チェコ国民オペラへの貴重な貢献として広く好評を博しました。初演の聴衆は第 1 幕の序曲と二重唱の両方のアンコールを要求したとされています。批評家たちはスメタナが歌劇『売られた花嫁』(1863年)と歌劇『口づけ』(1876年)で示したチェコ国民オペラの模範に寄せようとするドヴォルザークの努力を認め、スメタナが舞台に残した遺産を引き継ぐ後継者として期待されるオペラ作曲家候補となったのでした。プラハ南西部の都市プルゼニでも演奏され、1882年にはドイツのドレスデン、1883年にはハンブルクで上演されて好評を得ました。一方、1885年のウィーン宮廷歌劇場では、チェコとオーストリアの政治的な緊張の時期にあったこともあってうまくいきませんでした。しかし不評の原因はそのせいだけではなかったようです。ミラン・ポスピシルはこう書いています。

 「1885年のウィーンでの『いたずら農夫』の失敗と、1892年の万国博覧会での『ディミトリー』の相対的な成功の欠如は、ドヴォルザークのオペラに対する国際的な評価を損なっただけでなく、ドヴォルザークにはオペラの能力が欠けていたという意見が広まる一因となりました。( 中略 )与えられた政治的状況とオーストリア=ハンガリー帝国のナショナリズムとスラヴ民族の文化的および政治的野心に対して潜在的にも顕在的にも嫌悪感を抱いているドイツの特権支配階級との関係の中にあって、ドヴォルザークがドイツ語に翻訳されたチェコのオペラ作曲家としてではなく、オーストリア人として自分自身を表現していれば、ウィーン宮廷歌劇場経営陣の効果的な支援によって、オペラ作曲家として躍進できただろうことは疑いありません。( 中略 )1884年5月3日付けの手紙に、ジムロックとハンスリックはドヴォルザークにドイツ語の台本に音楽を付けるよう説得しようとしました。 また、ウィーン宮廷歌劇場の総監督レオポルド・フリードリヒ・フォン・ホフマンは、ハンスリックを通じてドヴォルザークに、1885年か1886年のシーズンに向けてフーゴ・ヴィットマンの台本に基づいたオペラを作曲してはどうかと尋ねています。」( “Antonín Dvořák – operní skladatel” by Milan Pospíš 

 当時のボヘミア出身の作曲家がウィーンで認められる難しさがあったことがわかります。さらに、ドヴォルザークのオペラ作品に対する作曲スタイルにも問題があったことも指摘されています。

 「オペラのジャンルに対するドヴォルザークの独自のアプローチは、もちろん、交響曲作曲家としての彼の創作的背景に基づいており、オペラにおけるオーケストラの重要な扱いを見ればよくわかります。( 中略 )実際、当時の批評家は彼のコミック・オペラの『頑固ものたち』(1881年初演)と『いたずら農民』の中に「重厚な交響曲スタイル」を聴き取りました。オペラのジャンルに対するドヴォルザークの独自のアプローチは交響曲作曲家としての彼の創作的背景に基づいており、オーケストラを重視した扱いを通じて彼のオペラ作品に顕著に表われています。ドヴォルザークは、コミック・オペラのオーケストラに対してよりシンフォニックに取り扱う傾向があり、舞曲の要素を伴う会話の場面の音楽に対してシーンを統合し結合する手段として用いているのです。」( “Antonín Dvořák – operní skladatel” by Milan Pospíš  )

 このことは、エドゥアルト・ハンスリックが、「第2幕のバレエ音楽は交響的スケルツォの方が適している」と評したことと一致した見解と見ることができそうです。



スラヴ舞曲
 チェコの無名の若者の作品『モラヴィア二重唱曲集』をブラームスに言われて渋々出版したフリッツ・ジムロックでしたが、その売れ行きの良さを目の当たりにしたジムロックは「二匹目のどじょう」を得んとしてそろばんを弾いた時、まさにその時、ドヴォルザークのその後の人生が変わったと言っても過言ではないでしょう。『モラヴィア二重唱曲集』の「二匹目」ということだけでなく、その7年前の1869年にジムロック社から出版されて大ヒットしたブラームスの『ハンガリー舞曲集』の「二匹目」でもある「どじょう」の「二乗」効果を目論んだドヴォルザークへの『スラヴ舞曲集』の依頼がここに実現したのでした。

 『モラヴィア二重唱曲集』の2年後の1878年、ジムロックから依頼されたドヴォルザークは『スラヴ舞曲集』(作品46)をその年の3月から5月にかけて作曲します。当初はブラームスの『ハンガリー舞曲集』と同様に4手のピアノ作品として作曲されて出版されました。ジムロックの狙い通り出版と同時に大人気となり、ただちに管弦楽版の出版が決まります。4手のピアノ版の初演についての記録はないようですが、管弦楽版の初演は1878年5月16日に第1、3、4番の3曲がアドルフ・チェフの指揮によって行われました。

 ドヴォルザークが曲を書く前にジムロック社によって『スラヴ舞曲集』というタイトルが付けられていたとされています。つまり、ドヴォルザークが作曲したのはあくまで「舞曲集」であり、「スラヴ」というタイトルはドヴォルザークの与り知らないものだったことになります。

 確かにこの曲集はスラヴの民謡風な旋律、民俗舞曲の特色をもった作品として世に知られていますが、実のところドヴォルザークがどのスラヴの民謡を採用したのかということはわかっていません。ドヴォルザークの研究家で知られる音楽学者デイヴィッド・R・ベヴァリッジ氏はこのように書いています。

 「アントニン・シクラ(チェコの音楽学者1918-1969)は、この曲集で書かれているメロディーが特定のチェコの民謡から採られたことを証明しようと試みましたが、その結果は説得力のあるものではありませんでした。引用された民謡とドヴォルザークのメロディーの類似性が薄すぎるか、あるいはその民謡がドヴォルザークの曲集の出版から何年も後に出版されたものでしか知られていないかのどちらかです。ドヴォルザーク自身は、これらの舞曲がチェコ風なのかスラヴ風なのかを特定するヒントは何も残していません。彼が譜面の表紙で指定した唯一の踊りの種類は第4番の「メヌエット」だけです。解説者たちは、あたかもドヴォルザーク自身がつけたものであるかのように、スラウ民族音楽のさまざまな舞踊や歌の種類の名称を個々の舞曲に自由に付け加えていますし、その名称が解説者によって異なることも少なくありません。」( “Antonín Dvořák and the Concept of Czechness” by David R. Beveridge, Association for Central European Cultural Studies 2018, Praha:以下、ベヴァリッジ著『ドヴォルザークとチェコらしさの概念』と略します。)

 つまり、ドヴォルザークはどの曲に対しても「メヌエット」以外は速度や曲想の標語しか書かなかったということになります。例えば第2番のスコアには、「アレグレット・スケルツァンド」としか書かれていませんが、解説書などでは「ドゥムカ」と説明されているのです。『スラヴ舞曲集』第1集(作品46)ではドヴォルザークの手稿における順番に、フリアント、ドゥムカ、ポルカ、ソウセツカー、スコチナー、ソウセツカー、ソウセツカー、フリアントなどといったいかにもスラヴ風な名称が括弧付きでつけられています。しかしこれらは作曲家が書いたものではなく、しかもベヴァリッジ氏が言うように、この呼称は解説者によって若干異なるようです。

 なお、スメタナはこの曲集のスコアを見てドヴォルザークの作品を無条件にほめ、「ドヴォルジャークはここでの主題をまったくベートーヴェン風に扱っている」と言ったとされています( 『スメタナ/ドヴォルジャーク』 渡鏡子著 音楽の友社)。この曲集を作曲する約10年前、ドヴォルザークが国民劇場の仮劇場でヴィオラを弾いていた頃、旧チェコ党の政治家であり、当時のこの劇場の開設に尽力し監督でもあったフランティシェク・ラディスラフ・リーゲルが「チェコ国民音楽の本質はチェコの民謡を模倣することにある」と唱えていたことに対して、スメタナは「そのような安易な民謡のつぎ合わせから統一ある芸術作品が生み出されるはずはない」と厳しく否定していました。この論争は主にオペラに関するものでしたが、ドヴォルザークはこのスメタナの作曲姿勢に共感してオペラに限らず他のジャンルの作曲においても民謡の引用をしないというスタイルを堅持していたのではないでしょうか。

 「スメタナは,“チェコ近代音楽”という指標の下に“国民音楽”の樹立を願い,その実現を目指そうとした。だが彼は,当時チェコの音楽界で大多数の意見を占めていた“民謡の引用による国民音楽の創造”という考えをきっぱりと否定したがゆえに,保守主義者(伝統主義者)たちから強い反感を買い,非難の標的とされた。“チェコ音楽”の概念をめぐる議論は,既に1860 年代から70 年代頃にかけて頻繁に行われており,1862 年には,早くもドヴォルジャークのパトロン(芸術家の庇護者)であった保守老チェコ党(正式名は「民族党」)の大立者フランティシェク・ラディスラフ・リーゲル(František Ladislav Rieger, 1813〜1903)とスメタナとの間に,“国民音楽”をめぐる論争の火蓋が切って落とされた。このときリーゲルは“民謡だけに基づいて歌劇を作曲するよりも,歴史的題材を基にオペラを書く方が遙かに簡単だ”とするお馴染みのクリシェを持ち出して,“『売られた花嫁Prodaná nevěsta』だけが国民的性格をわずかに漂わせている以外,スメタナのオペラは全く国民的様式で書かれていない“と攻撃し,両者の応酬は1870 年から74 年にかけて本格的な論争に突入していった。」( 『オタカル・ホスティンスキーの美学思想−「美」と「民族性」の論理−』内藤久子著 鳥取大学地域学部紀要地域学論集第13巻第3号2017年 )

 ドヴォルザークはこのスメタナの作曲姿勢に共感する一方、スメタナの論敵であったリーゲルから庇護されていた、という矛盾に行き当たりますが、駆け出しの作曲家であった時代のドヴォルザークがリーゲルの目に止まるわけはなく、リーゲルがドヴォルザークのパトロンになるのがずっと後のことであったとすれば納得できそうです。しかし、このチェコ音楽の概念をめぐる論争の最中にドヴォルザークが作曲家として名乗りを上げ、5つの交響曲を書き上げ、『スラヴ舞曲』をヒットさせていたという事実は注目すべきで、まさにその状況下に交響曲第6番が生み出されることになるのです。


スラヴ狂詩曲 
 この3曲からなる『スラヴ狂詩曲』(作品45)は、『スラヴ舞曲集』第1集を発表した直後の1878年の9月から12月の間に書かれました。実際はその年の初めに書き始められたのに、『スラヴ舞曲集』の依頼があったために中断されたとも言われています。今のところ誰かから委嘱されたという形跡は認められていません。チェコ民族の過去の歴史に根ざした詩的な霊感に溢れるボヘミアの民族色豊かな作品ですが、『スラヴ狂詩曲』という曲名はドヴィルザーク自身がつけたようですが、各曲に標題はありません。ドヴォルザークはこの作品に先立つ1874年にフランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲』に触発されて『スラヴ狂詩曲(管弦楽のための叙事詩)』(作品14)を作曲しています。リストが19曲(ピアノ版、管弦楽版は6曲)書いたように複数曲書くつもりだったようです。

 『スラヴ舞曲』で引用したデイヴィッド・R・ベヴァリッジによれば、その頃ドヴォルザークは国内だけでなく海外でも「スラヴ」なものに対する大きな需要に気づき始めていて、1878 年 2 月 13 日付のドヴォルザークのこの曲のスケッチの冒頭には、元のタイトルが単なる「狂詩曲」であり、彼が後付けとして「Slovanská(スラヴの)」を追加してあることを指摘しています。『モラヴィア二重唱曲集』や『スラヴ舞曲』が海外で出版されそれなりの成功を収めたことがこうしたタイトルを付ける動機になったのであろうとも考えられます。

 ギー・エリスマンは、「チェコ民族の過去を念頭において作曲された」、「的確な標題を指摘できないが、よほど標題音楽に近い作品である。」、特に第3番については、「これは、伝説、騎士道、競技、ひなびた舞踊のボヘミアである。」という解説を書いています。これはたぶん、ドヴォルザークの研究家オタカル・ショウレクが第3番に対して「中世ボヘミアの騎士たちの試合や王の狩り、貴族の艶ごと、祝典のつどい、舞踏会などがこの曲に反映されている。」と書いたことに基づいたものと思われます。

 第1曲の冒頭はスメタナの『わが祖国』第1曲目の『ヴィシェフラド(高い城)』を連想されるハープのアルペジョから奏でられていますが、この曲においても確かに民族舞曲風のリズムが取り入れられている箇所があるもののそれが何々地方の踊りだといった明確な指摘はなされていないようです。

 この曲は、1878 年 11 月 17 日にドヴォルザーク自身が最初の自主コンサートで初演されました。翌1879年9月24日にヴィルヘルム・タウベルトの指揮でベルリンの宮廷楽団によって演奏され、その2か月後にはブダペストでフェレンツ・エルケルの指揮で演奏された後、その年にジムロック社から出版されています。さらにその年の11月16日、ハンス・リヒターの指揮でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がこの曲の第3番を取り上げ、ウィーン初演を行ないました。この時ドヴォルザークはリヒターからこの曲を演奏するから出席してほしいと電報を受け取ったとされています。この3年前に第1回バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『ニーベルンクの指輪』を指揮し、2年前にはブラームスの交響曲第2番の初演を指揮した、まさに当時のヨーロッパ音楽界をリードしていた大指揮者リヒターから招待を受け取ったのですからドヴォルザークは腰を抜かしたのではないでしょうか。デイヴィッド・ブロドベックは、ウィーンでドヴォルザークの名前が囁かれ始めたのが1879年の秋としていますので、この曲の演奏がきっかけとなったと考えられます( “Dvořák's Reception in Liberal Vienna: Language Ordinances, National Property, and the Rhetoric of Deutschtum” by David Brodbeck )。

 この演奏会に立ち会ったウィーンの音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックは、「狂詩曲は敬意をもって受け入れられたが、暖かくはなかった。ドレス・リハーサルの印象の後では、もっと活気のある効果をもたらすと思っていたのだが。」と報告しているように大成功というほどのものではなかったようです。しかし、指揮者のリヒターは大満足だったようで自宅で晩餐会を開き、ドヴォルザークとチェコ出身の楽団員を全員招待しています。まさにこの時、リヒターはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で演奏する新しい交響曲の作曲をドヴォルザークに依頼したのであり、それが交響曲第6番となるのでした。リヒターはこの6ケ後にロンドンでもこの『スラヴ狂詩曲』を指揮していますが、おそらく3番だけだと思われます。

 初演から2 年以内に、この狂詩曲はウィーン、ブダペスト、ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ミュンスター、ヴィースバーデン、フランクフルト、ブラッセル、ケルン、カッセル、ニース、ニューヨーク、ボストンなど、さまざまな都市で演奏されました。なお、ほとんどの場合、それらの公演では3曲セットとしてではなく別々に演奏されたようです。ハンス・リヒターは第3番を好んで採り上げたとされています( 演奏された都市は1880年4月1日付の音楽雑誌『ダリボル』によります。『ダリボル』は1858 年から 1869 年の間にプラハで刊行された雑誌です。 )。

 また、チェコのプラハにあるルドルフィヌム音楽公会堂が1885年に建設され、2月8日にこけら落としを迎えたときのプログラムを見ると、オーストリア国歌に始まり、ベートーヴェンの序曲『献堂式』序曲、バッハのオルガン曲、ワーグナーの楽劇『ローエングリン』抜粋、メンデルスゾーン、シューマンの独奏曲と続き、最後はヘンデルの『メサイア』から「ハレルヤ(ドイツ語訳)」で閉じられている中に、このドヴォルザークの『スラヴ狂詩曲第2番』が、唯一のチェコの作品として、また存命中の作曲家による唯一の作品として含まれていました。

 このように当時、『スラヴ狂詩曲』はドヴォルザークの最も頻繁に演奏される作品の一つであり、ドヴォルザークの母国外での初期の成功に大きく貢献した曲であることがわかります。しかし、それにもかかわらず、今日ではコンサートで取り上げられることが少ないのは何故なのでしょうか。


チェコ組曲
 『チェコ組曲』 作品39は、ドヴォルザーク38歳のときの1879年(38歳)に作曲されました。デイヴィッド・R・ベヴァリッジによると、この『チェコ組曲』という題名の決定にドヴォルザークは関与していないようです。

 「自筆譜には Suita (opus 39.) pro orkestr と書かれてあり、ドヴォルザークが指揮した1880年3月29日のコンサートのプログラムにも Suita pro orchestra と「Czech(チェコ)」という単語は登場しません。さらにはそのコンサートの評論やドヴォルザークの生前1881年に出版された版にも Suite in D für das Orchestra としか記されていないのです。『チェコ組曲』という呼び方は、1879年5月16日にアドルフ・チェフが指揮したチェコ・ジャーナリスト協会のコンサートでのこの曲の初演におけるアナウンスとその批評文の中で使われたにすぎません。この作品にそのタイトルを付けるのは他の誰かのアイデアであることは明らかであり、ドヴォルザークがそれを承認したという確固たる証拠はありません。( ベヴァリッジ著 『ドヴォルザークとチェコらしさの概念』 )

 スコアには第1曲目から順に、プレリュード(パストラール)、ポルカ、メヌエット(ソウセツカー)、ロマンス、フィナーレ(フリアント)という標題が与えられていますが、これらについてベヴァリッジは言及していないのでドヴォルザークがつけたのかどうかはわかりません。さらに、ベヴァリッジはこのように書いています。

 「ドヴォルザークの作品おいて、一般的に彼の音楽におけるチェコらしさの認識は、偏見や先入観に強く影響されてきました。当時の熱心なチェコ愛国者たちは、チェコの地に住むスラヴ系チェコ人の文化が何世紀にもわたって抑圧されてきた後、ドヴォルザークが生み出した優れた作品の中で“チェコらしい”ものを聴きたいと考えていました。彼がチェコ国外で非常に顕著な評価を獲得した最初のチェコ人音楽家になったとき、これらの傾向はさらに強まりました。一方、海外の音楽評論家も、理由は異なるものの、本質的には同じ見解を持っていました。彼らは、イタリア、フランス、特にドイツの音楽が普遍的であるということを前提に考え、その他の国の音楽はそれぞれの国のもつ価値観を見て、そのような音楽の価値はその地方色豊かでエキゾチックなものにこそあると考えていました。こうした傾向の結果の一つは、チェコ人も外国人もドヴォルザークにある種のチェコ人またはスラヴ人の性格を持たせる必要があると感じ、時には曲名を決定することさえありました。こうしたことがドヴォルザークの作品全体がチェコ的またはスラヴ的であることの証拠として受け取られたのでした。」( ベヴァリッジ著『ドヴォルザークとチェコらしさの概念』 )

 この組曲の終曲である第5曲 フィナーレはボヘミアの民族舞曲フリアントのリズムによる高揚感が溢れる舞曲となっていて、後の交響曲第6番の第3楽章にも採用されることになります。初演後の1879 年に、当時の批評家はこの曲に対して次のように書いています。

 「他の曲を際立って上回る最も成功した曲は、最後のフリアントである。ここではオーケストラは笑いと冗談に満ちている( 中略 )頑固なチェコの頭蓋骨の激烈な精神、つまりまぎれもないチェコの頑固さを示しています。」( Representations of Antonín Dvořák: A Study of his Music through the Lens of Late Nineteenth-Century Czech Criticism by Eva Branda :エヴァ・ブランダ著 『アントニン・ドヴォルザークの作品: 19 世紀後半のチェコ批評家のレンズを通したドヴォルザーク音楽の研究』 以下、『ドヴォルザーク音楽の研究』と略します)


序曲『わが家』
 1882年1月、ドヴォルザークはわずか3日間という早さで序曲『わが家』(作品62)を書き上げました。当時のプラハの仮設劇場で人気のあった劇作家・俳優フランティシェク・シャンベルクの芝居『ヨゼフ・カイエターン・ティル』の劇付随音楽として依頼されて作曲した10曲の中の1曲目です(現在ではこの序曲以外が演奏されることはほとんどないようです。)。前述したデイヴィッド・R・ベヴァリッジによれば、この曲はドヴォルザークの作品全体の中で、唯一チェコ民謡が引用されている曲とのことです。

 この『ヨゼフ・カイエターン・ティル』とはチェコの近代演劇を確立した実在の人物(1808 – 1856年)で、1787年にモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の初演が行われたエステート劇場がその名を取って一時期「ティル劇場」と呼ばれたことでも知られています。そのティルが書いた戯曲『ヴァイオリン弾き あるいは怒りも戦いもなし』に対して、1834年にチェコのオシツェ生まれの作曲家フランチシェク・シュクロウプが作曲した劇付随音楽の中に『我が家何処や』という曲があり、それが当時人気を博していたことから、このメロディーを使用してほしいというシャンベルクの要求にドヴォルザークが応じたとされています。

 この序曲は、このシュクロウプの『我が家何処や』とチェコ民謡『我が家の庭先で』の二つを中心主題とする長い序奏と、それに続くソナタ形式でできた主部とから構成されています。なお、このシュクロウプが作曲し、ドヴォルザークが引用した『我が家何処や』は1918年に制定されたチェコの国歌の一部となっています。また、この曲のタイトルがしばしば『わが故郷』と訳されることがありますが、この引用されている民謡の曲名からすると『わが家』がより適切な訳であると考えられます。


 以上、1870年前後から1879年までの主に声楽及び管弦楽作品について見てきました。熱心なチェコの愛国者たちから民族音楽作曲家として祭り上げられる中、ドヴォルザークは自らの作曲におけるポリシーを堅持していた、すなわち「安易な民謡の継ぎ合わせ」を排しながらもチェコに伝わる民俗詩を尊重しつつスラヴの民族舞曲のリズムを取り入れることで、チェコの作曲家としての矜持を保っていたことがわかります。一方で、ブラームスやリヒターらの後押しもあって海外での認知を得ると同時にウィーンの楽壇への取っ掛かりが少しずつ見え始めた10年間とも言えるのではないでしょうか。




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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