東伊豆の湯巡り [熱海温泉] byうつぼ |
■熱海温泉について |
![]() 大湯間欠泉 |
<歴史> ※>(熱海市温泉調査報告(熱海温泉組合)などを参考に編集) 風土記には、「大己貴命は民が若死にするのを憫んで少彦名命に製薬温泉之術を与え伊豆国の神の湯に遺わされた。この湯は一昼夜に二度烈しく沸騰して噴出する。これを桶に入れて身を浸すと諸病が悉く治った」という記載がみられます。 また、仁賢天皇4年(491年)、蚊島穂台君の屍を伊豆国熱海の海底に沈めたところ、海底から忽然と温泉が湧き上がり、海水が熱湯となって魚が焼け死に漁ができなくなってしまった。以来、ここを”あつみが崎”と呼び、これが”熱海”の由来になったと伝えられています。 奈良期の749年、箱根金剛王院の万巻上人が魚や漁民を救い、温泉の恩恵を広めるために薬師如来に祈祷し、海中の温泉脈を山腹に移して少彦名命を祀り、薬師如来を本地として湯前権現(現在の湯前神社)とされました。泉源を移した先が大湯であると云われています。 熱海がその名を一気に高めたのは、慶長年間の家康公の湯治です。4代将軍家綱公以後には、大湯の湯を”御汲湯”として大名行列なみの格式をもって江戸城まで送ることが恒例となりました。(最古のローリー温泉か?^^;
”御汲湯”にあやかってか、熱海から温泉を取り寄せた江戸の風呂屋の記録も残っているようです。) 明治に入ると元勲達もしばしば湯治や静養に訪れ、この地で重要な会議・会談も開かれています。また、日本初の本格的温泉療養施設といわれる「吸気館」も設置され、熱海が温泉療養の面でも最先端に位置していたことがわかります。明治30年代には、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」が発刊され、”貫一・お宮””お宮の松”のイメージとともに熱海の知名度はますます上がっていきました。 大正14年の国鉄の開通、昭和9年の丹那トンネル開通など交通利便性の高まりとともに、熱海は日本を代表する温泉観光地となり、めざましい発展を重ねます。 |
![]() 湯前神社 |
![]() こんな風情ある建物も・・・ |
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![]() 伊豆名物の金目鯛 |
1.団体客ばかり大事にして個人客がないがしろにされているようで嫌。 等々、まだありそうですが、個人客・女性客主導の時代の流れからかけ離れてしまったところに大きな原因があるように思えます。それでも年間300万人近い宿泊客を集めているそうですから、まだまだどうして大したものです。 今回ひさしぶりに行ってみて感じたのは、やたらと街なかの交通量が多いこと。とくにタクシーの運転が異様に荒く、都内を歩くよりもぜんぜん怖いです。これではとうてい温泉街をゆったり歩くことなどできません。 また、手頃な日帰り施設が少ないのも熱海のウィークポイントかと思います。日帰りできる施設はけっこうありますが、旅館の日帰りは当然のように4ケタ、共同浴場は一部をのぞいて思いっきり敷居高そうだし、日帰り施設は高料金のスパ系ばかり。これでは気軽に熱海のお湯を楽しもうという気にはなれません。
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やませみさんより Re:熱海温泉 投稿者: やませみ 投稿日: 6月20日(月)17時36分48秒 >うつぼさん > 来宮駅東側を流れる糸川沿いに塩化物泉ラインが侵入(侵入フロント?)しています。 塩水化が顕著なのは海岸部と和田川沿い(南熱海)で、高張性のCa−塩化物泉が現れています。糸川沿いの旧熱海七湯の近辺は、昔ながらの泉質がわりと残っているほうです。 なお、M教授の「温泉主義No.4」が6/15に唐突に発刊(びっくり!) うつぼより Re:Re:熱海温泉 投稿者: うつぼ 投稿日: 6月22日(水)00時16分41秒 >やませみさん >塩水化が顕著なのは海岸部と和田川沿い(南熱海)で、高張性のCa−塩化物泉が現れています。糸川沿いの旧熱海七湯の近辺は、昔ながらの泉質がわりと残っているほうです。 引用したのは、分布図に記入されている「塩化物泉と硫酸塩泉の境界」ラインで、塩化物泉エリアには、主成分が塩化物のNa・(Ca)-Cl / Na・(Ca)-Cl・SO4など、硫酸塩泉エリアには、主成分が硫酸塩のNa・(Ca)-SO4
/ Na・(Ca)-SO4・Clないしは単純温泉が主に分布しています。 かなりデフォルメされた分布図なので、詳細なエリア把握は難しいですが、やはり糸川沿いに塩化物泉ラインが内陸深くまで入り、逆に来宮駅西側の初川沿いでは硫酸塩泉ラインが海側に張り出しています。海岸部および和田川沿いはおおむね塩化物泉系です。 やませみさんより ちょっとだけ 投稿者: やませみ 投稿日: 6月22日(水)17時44分7秒 > うつぼさん > Ca-Cl泉というのがあるらしいですが、いちど入ってみたいです。 渚共同湯が Ca-Cl泉で、Ca=80mval%くらい。 |