byやませみ


7 関東周辺の温泉

7-2 草津・万座

7-2-1(3) 万座温泉の歴史

草津が膨大な歴史資料を抱え、豊富な逸話に恵まれているのに比較して、万座の歴史には書くべきことがほとんどありません。万座ファンには大変申し訳ないことですが、それは、万座が主に村落の共有財産として、近代まで「秘湯」とされてきたことに理由があります。

<古代から中世>

万座温泉の発見伝承はありませんが、薬師堂の上にある熊四郎岩窟から炉跡と弥生式土器が発見されているので、古代人も何らかの形で利用していたものと推定されています。湯治をしていたかどうかはわかりませんが、宗教的行事に関連があるかもしれません。歴史文書に万座が登場してくるのはずっと後世のことです。

戦国時代初期には、長野原に拠点を置いた羽尾氏(真田氏とは同系にあたる)がこの一帯を支配してしましたが、1562年(永禄5年)に当主の羽尾入道が万座の湯で湯治をしているすきに、かつて城を追われた鎌原氏(鎌原城主)の逆襲にあう、という事件がありました(「加沢記」)。このことは、すでに万座に上級武士の来訪を受け入れるだけの施設が整っていたことを示していますが、それでも簡素な湯小屋ていどのものだったろうと推定されています。

<江戸期>

戦国後期から江戸初期にかけて、万座はやはり真田氏の支配地になっていましたが、この地にはあまり関心を示さなかったようで、万座に関する逸話は残っていません。1685年(天和元年)の文書には、湯治客が少ないので湯銭(入湯税)を上納できない、という淋しい記録があります。湯銭は村内の浴客からは徴収しない決まりでしたから、ほとんど地元専門の温泉になっていたのでしょう。江戸の前期には、周辺3カ村の持ち合いで湯小屋の整備などの管理がなされており、大湯、鈴湯、蓼(たで)湯、殺生湯の4カ所の温泉があったとされています。

江戸中期、硫黄商人の長峰籐吉という者が、硫黄採取権と抱き合わせで温泉権を手に入れようと画策し、3カ村と争うという事件がありました。 幕府役人と結託するなど、さながら時代劇の水戸黄門のような出来事ですが、さしずめ巨大資本の参入のはじまり、という処でしょうか。

<明治以降>

明治も中頃になると、小規模な湯小屋が散在するだけのいたって素朴な温泉場であった万座にも訪れる浴客が多くなり、湯宿の建設が徐々に進められていきます。それとともに、村落の共有であった湯の権利は、次第に個人の手に渡っていきました。現存する最も古い旅館は「日進館」ですが、はじめに湯宿を開いたのは先に触れた長峰氏で、その後に数代にわたって所有者が交代しています。交通不便なこの地で旅館経営を安定させていくのは並大抵の苦労ではなかったはずで、このことは、日進館そばに「常葉屋旅館」を創業(明治20年)した中沢たつ氏の伝記に伺えます。

その後、旅館は徐々に増えていきますが、昭和23年の記録でも、「日進館」「常葉屋旅館」「松屋旅館」「豊国館」「大和屋」の全部で5軒しかありません「万座温泉風土記」。万座温泉が現在のような姿に発展するのには、堤氏(西武鉄道)の観光開発によるスキー場の建設と道路整備を待たなくてはなりませんでした。

奥万座地区には最近まで「白根荘」という山荘が1軒だけありましたが、いつごろ開業したのかは記録が無いので判らなくなっています。


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