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7 関東周辺の温泉 7-2 草津・万座 7-2-1(2) 草津温泉の歴史(その2) <明治期 ベルツと草津温泉> 時代は明治になり、世間の様子は大きく変わりましたが、すでに大温泉地としての形態が完成していた草津温泉には、ほとんど変化はありませんでした。ほかの多くの温泉地が明治になってから発展していったのに比べると大きな違いです。明治の草津を語るときに忘れてならないのはベルツ氏のことですので、少し長くなりますが触れておきましょう。
ドイツ・ライプツィヒ大学の気鋭の青年医師(当時27才)であったベルツ氏が、明治政府に招かれて、東京国立医学校(後の東京大学医学部)の内科教授に就任したのは、1876年(明治9年)のことでした。ベルツ氏はその後52才で退官するまでの29年間、日本独特の寄生虫病や風土病の研究に功績がありました。特に予防医学の観点から、温泉医療・保養に着目し、明治13年に「日本鉱泉論」を著作するなどして、日本に優れた鉱泉(温泉)があることを強調し、温泉研究所と療養施設を建設するように政府に働きかけました。 |
図7-2-1-2 1891年(明治24年)一井旅館に滞在したころのベルツ氏
(「ベルツと草津温泉」より)
左端の浴衣の人物がベルツ氏。このような格好で気軽に温泉街の飲み屋にも出入りしていたという。 ベルツ氏は大変な健脚家で、白根火山にもたびたび登っています。このときの様子は日記に詳細に描かれており、当時の噴火の様子を知る貴重な資料になっています。また、香草温泉は登山の帰途にベルツ氏が発見したといわれ、これを知った馴染みの一井旅館の市川氏が、一時期別館を営業していたことがありますが、あまりに不便なため現在は廃棄され、野湯ファンのみが訪れる隠れ湯になっています。 <近代の草津> 明治期にはほとんど変化のなかった草津にも、近代化の波が徐々に訪れてきます。 1883年(明治26年)に信越線が開通、1907年(明治40年)に高崎〜渋川に電車が走るようになると、草津までの道程はぐっと短縮されるようになり、さらに、1926年(昭和元年)には念願の草津軽井沢軽便鉄道(草軽電鉄)が完成、1962年(昭和37年)に廃止されるまで、多くの浴客を運びました。 第二次大戦期になると、草津の浴客はぐんと減少し、替わりに全旅館が東京近辺の学童疎開の宿泊先となるとともに、一井旅館、大東館、七星館など多くの旅館が海軍病院の病室として使われました。草津周辺にも軍需産業のために群馬鉄山や白根硫黄鉱山などが開発され、旅館の経営者も資金を提供するなどして協力していました。長野原まで鉄道が延伸されたのは、釜石に次ぐ産出量の群馬鉄山の鉱石を運搬するためでした。 戦後の草津は、資材不足などのため源泉や旅館施設の荒廃が著しく、客数が非常に減少した時期がありました。しかし、1948年(昭和23年)に天狗山に日本初のスキーリフト、1960年(昭和35年)に白根山ロープウェイができてスキー客が増加するなど、それまでの長期湯治の温泉場から観光型の温泉に変貌していきます。 <万代鉱の湧出と源泉の整理> 1970年(昭和45年)に、万代硫黄鉱山の坑内で大量の高温温泉が噴出、これを抑止することができずに鉱山は放棄されました。温泉はしばらく垂れ流しのまま放置されていましたが、草津町はこれを温泉街に引湯して浴用や熱利用に供することを決め、1975年(昭和50年)から運用を開始しました。それまでの草津の源泉は、湯畑、白旗、西の河原の主力のほか、町内の小規模源泉を含めて最大平均13,300L/minでしたから、ここに万代鉱源泉の利用量4,700L/minが新たに加わって、温泉の規模は一気に拡大しました。 町ではこれに伴い、源泉の集中管理を行なって旅館が各個に設けていた引湯樋を統合し、温泉の合理的な配分をするようになりました。これによって温泉街から離れた高台でも温泉の配分を受けられるようになり、大型のホテルが続々と建設されていきます。 さらに、湯畑も1975年と1995年の2度にわたり改造、1983年には大滝乃湯、1987年には西の河原露天風呂が完成するなど、観光客への対応も進めていきました。しかし、この間に、30カ所以上もあった町内の小規模源泉は利用されなくなって閉止され、現在も湧出しているものは17カ所あまりに減ってしまったのは残念なことです。 |