byやませみ


7 関東周辺の温泉

7-2 草津・万座

草津と万座は、群馬県北西部にある、草津白根火山に関係する酸性泉の温泉地です。草津温泉は、湯畑を中心とする湯量豊富な強酸性の源泉を利用する、大小さまざまな旅館・ホテルが密集する温泉街がとても賑やかで、一年を通して観光・湯治・スキーなどの大勢の訪問客で賑わっています。名実ともに、東日本を代表する大温泉地といってもいいでしょう。江戸時代以降につくられた温泉番付では、その効能の高さから、常に大関の位置から降りることはありませんでした。

一方の万座温泉は、対照的に、山間に数件の旅館・ホテルが散在するだけの静かな保養温泉です。最近はスキーやハイキングが目的の訪問客が増えましたが、トロリとした白濁のお湯を熱烈に愛する温泉ファンも多く、自炊の湯治宿もいまだに健在です。

同じ火山に関係する近い温泉地でありながら、ふたつの温泉は泉質や雰囲気がたいぶ違っています。それぞれの温泉の歴史と温泉の成因に焦点を当てて、互いに比較しながらまとめてみました。


7-2-1(1) 草津温泉の歴史(その1)

<戦国時代まで>

古代から中世にかけての草津に関する記録は、意外にもほどんどありません。温泉の発見については、日本武尊や僧行基に関する伝説が知られていますが、奈良時代にはすでに湯場としての形態が整っていたものと考えられています。鎌倉時代には、源頼朝が浅間北麓に狩に来たついでに、草津に入浴したということが「吾妻鑑」という古書にでており、このとき案内した「御殿の助」という人物が、草津の湯を発見したという功績で「湯本」の姓と家紋を与えられたという伝承があります。

湯本氏は戦国時代から江戸前期にかけて、草津の源泉を支配する有力者になっていきますが、頼朝との逸話は後生の創作ではないかといわれているようです。室町時代の歴史文書には、草津を訪問した著名人が多数現れるようになってきますから、そのころには既に上方にまで草津の名湯ぶりが広まっていたのでしょう。

戦国時代に入ると、草津周辺の西吾妻一帯は武田信玄の支配領域に入り、有名な真田氏が統治をはじめます。真田氏の領地は上田から沼田にかけての山間部で、米の収量は今でも多くはありませんから、草津、四万をはじめとする十三カ所の温泉の湯治客から得られる「湯銭」、いまの入湯税にあたる収入は重要な財源でした。

真田氏は財政面のほかに、政治外交にも草津温泉を積極的に利用しました。武田氏が滅びた後、真田氏は豊臣秀吉に接近していきますが、この際に草津への入湯旅行を積極的に勧誘したふしがあります。秀吉はご存じのとおり若い頃から相当の無理をして天下人にまで登り詰めた苦労人で、後年は身体にガタが来て、長寿が全てに優先していましたから、効能高いと評判の草津の湯にはなんとしても行ってみたかったに違いありません。実際には、道中の計画も出来上がって全ての手配が完了したところで、政務多忙のため残念ながら草津訪問は沙汰止みになってしまいました。替わりに養子の秀次が1588年(天正6年)に草津を訪れています。

おもしろいことに、秀吉は徳川家康にも草津入湯を勧めています。真田氏は家康とは対立していましたから到底実現するはずはありませんでしたが、そうでなくても家康は秀吉と違って温泉にはわりと無関心で、戦国武将にしては温泉に関する逸話のほとんど無い人です。生まれつき身体が丈夫だったということもありますが、何よりも家康は自分で薬を調合するのが趣味で、自分でも常用していましたから、湯治の必要などなかったのでしょう。

<江戸期の草津>

江戸初期に真田氏が改易になって取り潰された後は、草津は幕府の直轄領になり、代官によって治められました。このとき既に草津の湯屋は60軒あったと記録されていますから、当時としては多を圧倒する巨大温泉場に発展していました。真田時代と大きく変わったのは、それまで一廻り(7〜10日)につき幾らと定めて徴収していた湯銭の制度を廃止し、湯治客は宿賃だけの負担ですむようにされたことです。このほか全般に湯治客を手厚く保護する政策がとられ、幕府がこの温泉を国民保養地として重視していた姿勢が伺えます。

実際の支配は、「湯守・年寄り」として特権が求められた湯本氏の3家があたっています。湯守は、外湯や湯屋の管理にあたるほか、浴客の人別、はては自治警察のような役目まで負っていましたから、今の町長よりもはるかに大きな権力をもっていたのです。その権力をかさに着てか、湯本3氏は外湯から自家の経営する湯屋に引湯して内湯を設けることをはじめ、1713年(正徳3年)に村全体から告訴されました(湯樋事件)。

当時は、温泉の湯は村落の共有財産という考えが一般的でしたから、これはたいへん非常識な行為だったのです。この訴訟は最終的に、湯本3氏の引湯の湯樋は残す替わりに、3氏の経営する湯屋の客が外湯に入ることを制限する、ということで決着しましたが、この頃から湯屋に内湯を設置する動きが急激に増えるきっかけになりました。

江戸後期には「草津千軒江戸構え」といわれるほど、大きな湯屋(木造3階が多かった)がたくさん建ち並び、大勢の湯治客が草津に訪れました。上州の山間遠く、旅するだけでも難儀な僻地の温泉場がどうしてこんなに繁栄したのでしょう? それは、八代将軍吉宗でさえ、わざわざ江戸城まで湯を運ばせたという草津の温泉の効能にありました。

当時はちょっとした外傷からの感染症が多く、出来物(腫瘍)が悪化して死に至ることが、食中毒に次いで恐れられており、抗生物質が発見されていない時代には、草津の強力な酸性泉の殺菌力が唯一の効果的治療法とみなされていたのです。

もっとも、細菌などという概念もなかった頃ですから、その効能が神秘的なものと考えられるのは無理からぬことです。ほかの温泉場の湯治が、農民の休養やリハビリを目的として、主に周辺住民の利用が多かったのに比べて、草津には全国から湯治客が押し掛けてきましたから、賑わうのも当然でした。江戸期に各街道につくられた道標には、かなり遠くからでも草津への道程を記した表示があるそうです。

また、江戸から明治の草津温泉では、冬季の生活が困難だったので、毎年10月8日に住民全員が山を降りて近くの村々に移住し、翌春4月8日に再び戻って営業を始める、という「冬住み」が行われていました。冬の間、湯屋の主人は何をしているかというと、各地を廻って草津の湯の効能を宣伝して歩いていたのです。こんなことも、名湯草津が全国に知れ渡る一因になっていたようです。

<湯治の様子>

当時の湯屋(温泉宿)は部屋(多くは雑居)を貸すだけで、その他の世話は何もしませんから、湯治というと大変な仕度が必要だったように思いますが、さにあらず、江戸っ子は至って身軽な格好で湯治に出かけてきたのです。一月ほど湯治に行くと決めた江戸っ子は、まず長屋の家財道具を全部質に入れます。これは旅行費用の工面のためではなく、不在中に空き巣から守るためのいわば貸倉庫のようなものです。質代を含めて現金の大部分は切手に替えます。必要になれば各所の両替屋でいつでも現金化できました。

無事に温泉場に着いて湯屋に入ると、番頭が「通い帳」を持ってやってきます。客はこれに滞在中に必要なもの、布団や着物、鍋釜・食器、燃料の薪炭、米・味噌、はては火鉢やたんすなどまで細かく書いて渡すと、やがて相応の代金が記されて返ってきます。交渉が成立すると、客が外湯でひと風呂浴びてくる間に出入りの業者が全て整えて湯屋に搬入してくる、という寸法で、消費財以外は全てレンタルでまかなえたのです。

自分で食事の支度をしたりするのは面倒だという向きには、湯屋専属の料理人や身の回りの世話をする女中を雇うこともできました。そんな金持ちでなくても、湯屋内には野菜や魚、惣菜や菓子の担い売りが部屋ごとに往来してきましたから、何も不自由はなかったのです。

さて、湯治客は湯屋に落ち着くと、在所や宗旨(檀那寺)を明示するとともに、「死亡の場合には当地で埋葬してくださってかまいません」という誓約書を書かされました。湯治場に来る客は当然ながら衰弱した病人も多かったですし、合理的な入浴法が確立していなかったせいもあって、草津の強い熱い湯にあたって死亡する浴客も多かったのです。

後年、ベルツ氏の記録によると、草津の湯(熱の湯)はどこの温泉よりも湯が熱く、50〜54℃の湯に日に5回3分間づつ浸かるのを通例としていたそうですから、熱い湯に慣れた江戸っ子でもってしても、大変に過酷な入浴法だったでしょう。

湯治客はどこの外湯に何回入っても、湯銭(入浴料)は取られませんでしたが、富裕な商人や上級武士は、特別に料金を払って大滝の湯の一部を貸し切ることが贅沢とされていました(「幕湯」「囲い湯」)。なかには湯屋の一室に同宿した湯治客が、割り勘で湯を貸し切ることもあったそうです。

<外湯の変遷>

江戸の中期には内湯を設ける湯屋も多くなっていきましたが、湯治の主役はやはり外湯(共同湯)です。元禄時代の記録には5カ所がみられるだけですが、浴客の増加とともに、江戸も後期の1855年(安政2年)には以下の15カ所に増えています。

 御座の湯、熱の湯、脚気の湯、綿の湯、松の湯、千代の湯、地蔵の湯、鷲の湯、
 とみの湯、熱川(煮川)の湯、白寿の湯、玉の湯、瑠璃の湯、凪の湯

その10年後の1866年(慶応2年)にはさらに以下の5カ所が加わっています。

 笠の湯、ふちの湯、金比羅の湯、君子の湯、百里の湯、

これらの外湯は、浴槽の広さや深さ、うめ水の割合を変えたりしていろいろな変化をもたせ、源泉の効能や湯治客の好みに合わせた入浴が楽しめるように工夫されていました。当時の外湯の多くは源泉が枯れたり、旅館に吸収されたりして今はほとんど残っていませんが、現在の地蔵と煮川の共同湯は、当時と同じ源泉を使用しているものと思われます。

草津第一の名物としては、湯畑(当時は湯池といった)の下に「大滝の湯」が設置されており、湯畑から直に12本の樋(明治には17本に増加)で落とされる大規模な打たせ湯になっていました(下の絵図参照)。これは打たせ湯の物理療法のほかに、高温の源泉を効果的に冷却させる優れた方法でしたが、残念なことに昭和の湯畑改修で撤去されてしまいました。



図7-2-1-1 明治12年出版の「上州草津温泉の図」の一部分

明治2年の大火後に再建された様子が描かれる。湯畑下の建物が大滝の湯。湯畑の周囲には数カ所の外湯がそれぞれの効能を競っていた。


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